2016年10月9日「祈るときには」
2016年10月9日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書6章5-15節
「祈るときには」
主の祈り ~山上の説教の中心部
花巻教会の礼拝では現在、マタイによる福音書の「山上の説教」と呼ばれる部分(5-7章)を読み進めています。山に登られたイエス・キリストが、群衆と弟子たちに対し、さまざまな教えを説く部分ですね。この山上の説教には、よく知られたイエス・キリストの言葉がたくさん出てきます。たとえば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5章39節)という教え。先月ご一緒にお読みしましたが、クリスチャン以外の方々にも、非常によく知られた言葉です。また、「敵を愛しなさい」(5章43節)という教えも、先月ご一緒に読みました。こちらも有名な言葉ですね。今後は「思い悩むな」(6章25-34節)という教えも出てまいります。このように、重要な教えが盛りだくさんの「山上の説教」ですが、その中心に位置しているのが、本日の聖書箇所です。
本日の箇所には、「主の祈り」が記されています。私たちが礼拝の中で毎週ご一緒にお祈りしている主の祈りです。すなわち、この主の祈りが、「山上の説教」全体の中心部であるということになります。それほど大切なものとして、マタイによる福音書では主の祈りが位置づけられているのですね。
体に染みついた祈り
主の祈りは、《だから、こう祈りなさい》(9節)と言って、主イエスご自身が教えてくださった祈りです。主ご自身が教えてくださった祈りであるから、「主の祈り」であるのですね。
主の祈りは教会の最も大切な祈りの一つとして、この2000年間、祈られ続けてきました。現在も、世界中の教会の礼拝で主の祈りは祈られています。皆さんもたとえば海外旅行をして海外の教会の礼拝に参加したとしたら、その土地の言葉の主の祈りに出会うことでしょう。
クリスチャンである方の多くは、この主の祈りを暗記していらっしゃることと思います。体に染みついた祈り、と言いますか、努力しなくても、自然にスラスラ言葉と祈りの文言が出てくることと思います。
私がこの主の祈りを覚えたのは、幼稚園の時でした。私が通っていた幼稚園は教会附属の幼稚園で、年長になると主の祈りを覚えるということが慣習となっていたのです。
一つひとつの祈りの意味を先生が教えてくれましたことと思いますが、幼稚園ですので、もちろん、はっきりと理解することができません。「み名」とか「み国」とか「みこころ」という言葉は、子どもには難しいですね。「日用の糧」という言葉もありますが、多くの子どもたちは「日曜(日曜日)の糧」という意味に捉えてしまったのではないでしょうか。教会学校の「あるある」ですね。そのように、言葉の意味は理解できませんでしたが、何回か皆で唱えているうちに、すぐに覚えてしまったように記憶しています。小さな子どもというのが、すぐに覚えてしまうものなのですね。意味は分からないけれども、しかし、みなで喜んで覚えたような感覚も残っています。
ですので私自身は、主の祈りは、意味より先に、音とリズムで覚えた、という感じです。主の祈りでどのようなことが祈られているのかを理解するようになるのは、そのずっと後のことです。
改めて、主の祈りを引用してみましょう。
《天にまします我らの父よ、/ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。/み国を来たらせたまえ。/みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。/我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。/我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。/我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。/国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。/アーメン》。
私たちが普段の礼拝の中で祈っているこの「主の祈り」の元となっているのが、本日のマタイによる福音書6章9-13節です。もう一箇所、同じ主の祈りの原型はルカによる福音書11章2-4節にも記されています。この二つの祈りの文言を整えて出来上がったのが、私たちが普段の礼拝の中で祈っている「主の祈り」ということになります。
では、マタイによる福音書の「主の祈り」を見てみましょう。
マタイによる福音書6章9-13節《天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/御心が行われますように、天におけるように地の上にも。/わたしたちに必要な糧を今日与えてください。/わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。/わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください》。
表現の仕方がところどころ違っていたり、「国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」という最後の部分の祈りがなかったり、という点はありますが、内容としては、礼拝の中で祈っている「主の祈り」と同じですね。
第3番目の祈り ~「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」
私が主の祈りの一つひとつの祈りの意味について考えるようになったのは、牧師になるため神学校に入ってからのことです。一つひとつの祈りについて本を読んで学ぶなどをして、主の祈りはこんなにも豊かな祈りであったのか、と驚きました。幼稚園の頃から暗記していた主の祈りですが、その一つひとつの祈りに、汲み尽くすことのできない豊かさが込められていることを知らされました。どう祈るべきか分からない私たちに、「こう祈りなさい」と主イエスが教えてくださった主の祈り。本来でしたら、一つひとつの祈りをじっくりと皆さんと味わいたいところですが、本日は第3番目の祈りを取り上げたいと思います。
主の祈りの第3番目の祈りに《みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ》という祈りがあります。「神さまの御心が、天におけるように、この地にも行われますように」という意味の祈りです。短い祈りですが、ここに、祈りの本質が抽出されているように思うからです。
御心
「御心」は教会特有の言葉遣いの一つですが、「神さまの心」、すなわち「神さまの意志、想い、願い」を表す言葉です。では、「御心」と対照的なものとしてある言葉は何でしょうか。それは、「私たち人間の心」です。
「私たちの心」が、「神さまの心」に反するものとなってしまっている、それが私たちの現実です。私たちが自分自身を傷つけ、他者を傷つけて続けてしまっていることが、その証しでしょう。私たちの近くに遠くに、いかに御心がこの地に「なされていない」現実があることでしょうか。
しかし、「神さまの心」と「私たちの心」は、必ずしも対立する言葉ではありません。この二つは、必ずしも反対語ではないのですね。時には、この二つが合致することもあるでしょう。《みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ》――。私たちの心が、少しでも神さまの御心に近づいてゆくことを、それを私たち教会は願い続けてきました。私たちの願いが神さまの願いと重ね合わさり、その神さまの願いが私たちの間に実現してゆきますように、と祈るのがこの第3の祈りです。
神さまの意志か、自分の願望か
「御心」を祈り求めるにあたって、気をつけたいことは、私たちは往々にして、「自分の意志・願望」を「神さまの意志」とみなして、正当化してしまう、ということです。私たちは常にそのような過ちを犯し得る可能性をもっています。
教会の中で特に気を付けたいことは、それを他者に押し付けてしまうことですね。たとえば教会では、「神さまの御心だから」と言って、他者に何かを強制してしまうことが往々にして起こり得ます。相手の意志に反して、または相手の意志は問題にせず、ある事柄を強要してしまう。そしてもしそれを相手が拒否したり、消極的な反応を取ったら、「信仰が足りない」と言って責めてしまう。これは一種の「ハラスメント」につながってしまう危険性をもっています。特に牧師と信徒の間で起こりやすいことであるかもしれません。
その場で「御心」と言われているもの、しかしそれはもしかしたら、「神さまの意志」ではなくて、「その人の意志・願望」であるのかもしれません。私たちは自分が「御心」と思っていることが本当に「御心」であるのか、祈りの中で問い続ける必要があります。最近はいろいろな「ハラスメント」に関する名称がありますが、いわば、「御心ハラスメント」(!?)とでも呼べるような事柄が、牧師と信徒の間で、また信徒と信徒の間で、常に起こりうるのだということを気を付けたいと思います。
私たちが心に留めておきたいことは、何が「御心」であるのか、私たちには完全には知り得ない、ということです。私たちには何が「御心」であるのか、完全には分からない。御心を完全に理解しておられるのは、イエス・キリストお一人です。ただ、少しでも神さまの御心に近づくことができますように、と祈り求めることはできるでしょう。私たちの意志が、神さまの意志に少しでも合致するように、近づいてゆくように、祈り求めてゆくことが大切であると思います。
「語る」祈り、「聴く」祈り
「祈り」ということには、二つの側面があるように思います。一つは、神さまの前で、自分の心の中の想いを注ぎだす祈りです。もう一つは、むしろ神さまの前で沈黙し、神さまのご意志に耳を澄ます祈りです。言葉を尽くして「語る」祈りと、口をつぐんで「聴く」祈り――。どちらも大切な祈りの要素です。言い換えますと、私たちが言葉を尽くして神さまに祈りをささげた後に、神さまご自身が語られる沈黙の時が訪れるのだ、ということもできるでしょう。
本日の聖書箇所では、主イエスは「主の祈り」を教えてくださる直前に、このようなことをおっしゃっています。7-9節《あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。/彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。/だから、こう祈りなさい。…》。
ここでは「長い祈り」が良くないと言われているのではなく、自分の想いを「語る」ことばかりをして、神さまの想いを「聴く」ことを忘れた祈りについて注意がなされているのだということができるでしょう。祈りは、私たちを最終的には、神さまの御心を「聴く」ことへと導きます。主イエスは、《あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ》とおっしゃいました。私たちは祈りの中で、いま神さまが私たちに「必要なもの」として与えてくださろうとしている言葉を聴き取ります。その言葉が私たちを生かし、私たちを支えてくださいます。
主の祈りに私たちの祈りを合わせて
「主の祈り」は、主イエスご自身が教えてくださった祈りです。またそして、主イエスご自身が私たちのために祈ってくださっている祈りでもあります。私たちが祈るより先に、主イエスは祈っていてくださいます。私たちは主の祈りを祈る度に、主イエスの祈りに加わらせていただいているのだと言えるでしょう。
ある人は、主の祈りを《世界を包む祈り》と表現しました(ティーリケ『主の祈り 世界を包む祈り』、大崎節郎訳、新教出版社、1962年)。主イエスの祈りは、この世界を包み、この世界の根底から、絶えず私たちを守り、支えていてくださっています。
神さまの御心を私たちは知り得ませんが、神さまの願いは、私たちが自分自身の大切にし、他者を大切にし、神さまを大切にして生きることにあるのだということを私は信じています。神さまの目に「かけがえのない」一人ひとりとして、私たちが互いを大切にして生きてゆくことができるように、主イエスは祈りをささげてくださいました。そして今も祈り続けてくださっています。
主イエスの祈りは他ならぬ、私たち一人ひとりの心の内にともされています。主の御心は、他ならぬ、私たち一人ひとりの心の内にともされています。誰からも強要されることもなく、誰からも奪い取られることもなく、私たち一人ひとりの心の内に輝いています。
この主イエスの祈りに私たちの心を開き、この主の祈りに私たちの祈りを合わせてゆくことができますようにと願います。