2016年7月10日「山上の説教」

2016710日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書5112

 

「山上の説教」

 

 

山上の説教

 

花巻教会の礼拝では現在マタイによる福音書をご一緒に読み進めておりますが、本日から、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分に入ります。山に登られたイエス・キリストが、群衆と弟子たちに対してさまざまな教えを説く部分ですね。

 

この山上の説教には、教会の中で親しまれている言葉がたくさん出てきます。クリスチャン以外の人々にもよく知られている言葉もたくさん出てきますね。たとえば、《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》539節)という教え。広く社会に浸透している言葉ですね。イエス・キリストというとこの言葉を思い出す方も多いことでしょう。

 

このように山上の説教には有名な教えがたくさん出てきますし、また、「主の祈り」も出てきます6913節)。私たちが礼拝の中で毎週お祈りしている主の祈りです。山上の説教の中心部分に位置しているのが、祈りについての教えです。

 

この山上の説教を読んでいると、私の頭には、緑豊かなガリラヤの丘陵地が浮かんできます。一面草花に覆われた丘陵地と、その下に横たわるガリラヤ湖。ガリラヤの風かおる丘で、主イエスが微笑みながら人々に教えを語っている光景が、浮かんでくるようです。

 

 

 

「幸いである」

 

山上の説教をこれから取り上げることができるということで、私自身楽しみにしておりますが、本日の聖書箇所は、その冒頭に当たる部分です。

 山上の説教の冒頭に当たる本日の言葉も、よく知られた言葉ですね。3節《心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。…》。

 

 日本語訳では、「幸いである」という言葉は文の末尾に来ていますが、原文のギリシャ語では、冒頭に位置しています。「幸い」という祝福の言葉から、山上の説教は始まってゆくのですね。

 

 この冒頭の言葉を聴いていると、自分もまた、またガリラヤの風を受けながら、聴衆の一人として主イエスのお話を聞いているような気持になってきます。

 

マタイによる福音書5312《心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである》

 

 ここでは、「幸い」について、8つの言葉が記されています。「心の貧しい人」の幸い、「悲しむ人々」の幸い、「柔和の人々」の幸い、「義に飢え渇く人々」の幸い、「憐れみ深い人々」の幸い、「心の清い人々」の幸い、「平和を実現する人々」の幸い、「義のために迫害される人々」の幸い。これら幸いについての8つの言葉それぞれが、汲みつくすことのできない豊かなメッセージを含んでいます。本来でしたら、その言葉一つひとつを説教にして取り上げたいところですが、今回はそうはいたしません。また機会があれば、一つひとつの言葉を、時間をかけて取り上げるということもしてみたいと思います。

 

 本日は、幸いについての8つの言葉の一番目、《心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである》という言葉にご一緒に耳を傾けてみたいと思います。

 

 

 

「心の貧しい人々」とは……!?

 

 この一番目の言葉は、有名だけれど、同時に、意味が分かりづらい言葉でもあります。分かりづらさの要因は、《心の貧しい人々》という日本語の訳にあるでしょう。

 

「心が貧しい」と聞くと、私たちは通常、否定的な意味に捉えますね。対して、「心が豊か」と聞くと、私たちは通常肯定的な意味に捉えると思います。心が豊かである、すなわち、感受性に富んでいるとか、思いやりが深いとか。また心が豊かであることは、心の中が充実感や喜びで満たされている状態を指すこともあります。

 

 本日の聖書箇所の《心の貧しい人々》という訳語は、どうやら私たちが普段の生活で使う「心の貧しさ/豊か」とは違う意味で用いられているようです。まず、この点がごっちゃになるので、分かりづらくなってしまっているということがあると思います。

 

 では、ここでの「心の貧しさ」とは、どういう意味なのでしょうか。《心の貧しい人々》を、原文のギリシャ語を見てみると、「プネウマの貧しい人々」となっています。「心」と訳されている語は、原語では、「プネウマ」という言葉なのですね。

プネウマとは、「霊」「息」「心」などを意味する言葉です。プネウマに「聖なる」という言葉がつくと、「聖霊」という意味にもなります。「プネウマの貧しい人々」……うーん、何だか余計分かりづらくなってきた(!?)かもしれません。

 

本日の聖書箇所をどう受けとめるかの解釈はさまざまにあります。それもまた、この御言葉のもつ奥の深さと言いますか、豊かさの表れであるでしょうが、おそらくは、マタイによる福音書においてはこの表現は、「へりくだり」というニュアンスを込めて使われているのだと思われます。神さまの前に、魂が低くされている、へりくだっている、というイメージです。その意味で、「心が貧しい人々」と訳するよりは、「心がへりくだっている人々」と訳した方が、より意味が伝わりやすくなるかもしれません。「神の前に心がへりくだっている人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。

 

 ただ、そうしますと、「信仰深く」「謙遜な」人だけが天の国に入ることができるのか、という疑問が湧いてきます。何だか急に、天の国が「狭き門」のように感じられてきますね。

 

 本日の幸いについての言葉を、何か天の国に入るための「条件」のように受け取ってしまうと、とたんに恵み深さが失われていってしまう気がいたします。本日の御言葉は、ただ「謙虚」であることの大切さを私たちに伝えるだけの言葉ではないでしょう。主イエスの口から語られる言葉は、もっと私たちにとって恵み深い言葉、生きる力となる言葉――すなわち福音の言葉であるはずです。

 

聖書が表現する「心がへりくだっている」状態というのは、ただ「謙虚」であるという状態を指すだけではなく、もっと「のっぴきならない」状態を指しているように思います。たとえば、大変な苦難に直面して、心が谷底にまで沈みこんでしまっている状態であるとか(詩編88編)。または自分の罪深さや過ちに直面して、心が砕け散ってしまっている状態であるとか(詩編51編)。自分がいまどういう状態であるか自分では分からないほど、のっぴきならない状態であるとき、それでも懸命に神さまの方を見ようとしているとき、聖書は「心が神さまの前にへりくだっている状態」として表現しているように思います。

 

「へりくだり」をそのように捉えてみるとき、それは私たち一人ひとりにつながってくるものとなってくるのではないでしょうか。私たちは生きてゆく中で、心が谷底に沈み込むような経験をしたり、心が砕け散ってしまうような経験をすることがあるからです。自分自身の力ではなかなかそこから立ち上がることができないほど、辛い状況を経験することがあります。

 

 山上の説教を聴いていた、ガリラヤで生きる人々もそうでした。当時ガリラヤの人々は大変に困難な生活を強いられながら生きていました。自らの内に、また社会の内に、希望がなかなか見いだせない辛い状況の中で生きていたのです。

 

本日の主イエスの御言葉は、そのようにのっぴきならない辛さを抱えて今日を生きる者たち、それでも懸命に希望の光を見出そうとしている一人ひとりに対する、主イエスの「励まし」の言葉なのではないかと思います。

 

 

 

「低み」に立って生きる姿勢

 

本日の8つの幸いについての言葉には、共通点があります。「幸いである」と主イエスから励ましを受けている人々は皆、「低き」に立っている人々である、という点です。

 

1番目の「心が貧しい人々=へりくだっている人々」だけではなく、「悲しむ人々」4節)も、「柔和な人々」5節)も、「心の清い人々」8節)も、自らの心の「低み」に立ち、そこから神さまを見つめ、自身を見つめ、世界を見つめ直している、というところに共通項があります。

 

また「低み」に立つということは、社会において、弱くされ、小さくされている人々と共に立つ、ということをも意味しています。「義に飢え渇く人々」6節)、「憐れみ深い人々」7節)、「平和を実現する人々」9節)、「義のために迫害される人々」10節)は皆、その姿勢において共通しています。

 

主イエスが「低み」へと私たちのまなざしを向けさせようとしておられるのは、他ならぬ、神の国が「低み」にあるからです。神の国は、私たちを超えたはるか「高い」ところではなく、むしろ、「低き」ところにあります。最も「低き」ところから絶えず私たちを支え、私たち一人ひとりを生かしてくださっている力、それが神の国の力です。そしてその神の国の福音の力を私たちの目にはっきりと示してくださったのがイエス・キリストその方です。

 

この神の国のあり方に気づき、常にここに立ち帰ろうとする人の「幸い」を、主イエスはお語りになっています。

 

 

 

神の国の福音

 

神の国の力は、私たちのいまの状況を劇的に変えてくれるような、魔法の力ではありません。この困難な現実に向かい合ってゆくのは、私たち自身です。

 

一方で、私たちは時に自分の力では立ち上がることができなくなるときがあります。先ほど述べましたように、心が谷底に沈み込んでいるとき、心が砕け散ってしまっているとき。魂がうなだれて立ち上がることができない私たちに、再び立ち上がる力を与えて下さるのが、神の国の福音の力です。

 

神さまは私たちを根底から支え、打ち砕かれた心を包んで(イザヤ書611節)くださっています。私たちがどのような人間であるかを超えて、私たちの存在そのものを「良い」ものとして、受け止めて下さっています。私たちが「いま生きている」ことをこそ、最大の価値として、祝福して下さっています。私たちの存在を最も深きところから包み込み、祝福し、励ましを与えて下さっているのが、神の国の福音です。この福音に立ち帰るとき、私たちは再び立ち上がってゆく力を与えられてゆきます。またこの福音が、私たちが現実を変えてゆくための力の源となってゆきます。

 

いま辛い気持ちでいる方々の上に、どうぞ神の国の慰め、励ましがありますようにと願います。また、私たちが互いに辛さを共にし、「低み」に立ちながら共にいきてゆくことができますように。私たちが互いに互いを大切にすることができる社会を、共に実現してゆくことができますように。今朝この決意をご一緒に新たにしたいと思います。

 

「低きに立って生きる人々は幸いである、神の国はその人たちと共にある」。