2016年7月17日「地の塩、世の光」
2016年7月17日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書5章13-16節
「地の塩、世の光」
地の塩、世の光
本日の聖書箇所は、「地の塩、世の光」という表現でよく知られている箇所です。教会は、またキリスト者は「地の塩、世の光」である、というのですね。
まず注目したいのは、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」と、現在形で記されているところです。「地の塩となる」「世の光となる」と未来形で記されているのではないのですね。あなたがたはいますでに「地の塩、世の光である」と語られているということになります。または、元来、「地の塩、世の光である」のだ、と。
《あなたがたは世の光である》という言葉はイメージしやすいけれど、《地の塩である》という言葉はイメージしづらいかもしれません。
塩は、私たちにとってどういう存在でしょうか。私たちは料理をするときにはほとんど毎回塩を使います。塩は料理の味付けをするために欠かせないものです。また塩は食べ物の腐敗を防ぐために用いられます。昔のパレスチナにおいてもそれは同様で、塩は大切な生活必需品でした。
イエス・キリストは弟子たちに向かって、《あなたがたは地の塩である》とおっしゃいました(13節a)。塩が私たちの生活に欠かせないものであるように、あなたがたはこの世界において、かけがえのない、大切な役割を託されている、ということを伝えて下さっています。
塩に塩気がなくなる……?
しかし一方で、続けて次のように語られます。《だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである》(13節b)。塩気がなくなった塩は外に捨てられ、道行く人々に踏みつけられるであろう、というのですね。
「塩に塩気がなくなる」ということは、どういう状態のことを言っているのでしょうか。現実にそういうことが起こり得るのかという問題は別として、ここでは、塩から塩気が流れ出して、失われてしまった状態がイメージされています。
このイメージが意味するところは、「キリスト者が周囲に同調してしまい、その固有の働きを失ってしまう」ということなのでしょう。周囲に、社会に自分たちを合わせ過ぎてしまい、その内に固有の使命と責任を失って行ってしまうこと、それを「塩に塩気がなくなる」ということでたとえられているのだと思います。
本日の御言葉では、教会が社会に同調することなく、しっかりと固有の持ち味を保ち、社会にその使命と責任を果たしてゆくことの大切さが言われています。
「同調しない」ということの難しさ
一方で、私たちにとって周囲に「同調しない」ということは、大変なことでもあります。たとえば、ある会議に出席しているとして、何人もの人が同じ意見を言う中で、自分だけ異なる意見を言うのは勇気がいることですよね。心の中では異論・反論があってもそれは隠して、結局賛成の手を上げてしまうということは、私たちはよく経験することではないでしょうか。しかし会議を終わってみると、実は自分以外の人々も異論・反論をもっていたことが分かる、ということもあります。お酒の席でそれが分かる(!)とか。自分以外も、何人もの人が実際は反対の意見を内心もっていたのだけれど、誰もそれを言い出せないでいただけであった。会議が進む中で、この方向に全体が向かうという「場の空気」が作られてしまっていたからです。
私たち日本に住む者は、この「場の空気」に支配されやすいという傾向をもっています。30年以上前に山本七平氏が著した『「空気」の研究』(文春文庫、1983年)という本が出版されました。「場の空気」というものがいかに私たちを拘束しているかということについて考察した本です。山本氏は「空気」について、《人びとを拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」乃至は「呪縛」、いわば「人格的な能力をもって人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」》(『「空気」の研究』、57頁)と説明しています。
最近の私たちの社会を見てみますと、この本が出版された30年前より、さらに「場の空気」というものが力を持つようになってきているように思えます。
2007年に「KY(『空気が・読めない』」という言葉が流行語大賞に選ばれるということもありましたが、いまの私たちの社会では「空気が読めない」ということが否定的に捉えられる傾向があります。反対に、「空気が読める」ことが称賛されるべきこととなり、それぞれが懸命に「空気を読む」努力をします。特に若い人びとの間でこの傾向は顕著になってきているようです。
「地の塩、世の光である」ことができなかった経験 ~戦時中のキリスト教会
「空気が読める」ということは、確かに、良いところもあるでしょう。私たちのコミュニケーションを円滑にするということがあるでしょう。一つの方向に皆で一丸となって向かおうとするときに、 よい方向に働くこともあるでしょう。
一方で、「場の空気」を過度に重んじることの危険性もあります。先ほどご紹介した山本七平氏は、日本が太平洋戦争に突入していったことには、「空気」が大きく影響していた、と分析しています。国民の中に戦争を熱烈に支持する「空気」が充満していたのです。
また、その無謀な戦いを止めることが出来なかったのも、「空気」が大きく作用していた、と分析しています。内心は(この戦争は負けるのではないか)と思っていても、それを口にすることができなかった。口に出したら「非国民」と迫害されることになるからです。指導者たちも内心は(この戦争は負ける)と思っていてもそれを口に出すことができなかった。やはり「空気」に支配されていたからです。その結果、あの戦争で内外にすさまじい惨事がもたらされることになりました。
私たち花巻教会が属する日本キリスト教団では、「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」というものを出しています。1967年3月26日(イースター)に当時の教団議長の鈴木正久牧師の名で発表したものです。略して「戦争責任告白」「戦責告白」と呼ばれることもあります。この告白の中で、次のような文章があります。
《「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。
まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります》。
皆さんもご存じのように、戦時中、日本のキリスト教会の多くが「空気」に支配されてしまったのです。戦争に反対するのではなく、むしろ進んで戦争を支持した。その罪責がこの文章では告白されています。
引用した文章の冒頭に、《「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした》とあります。社会に同調することなく、固有の使命と責任を果たすべく、教会は「地の塩、世の光」と呼ばれていたはずであるのに、しかしあの戦争において、私たちはそれができなかった。「地の塩、世の光である」ことが「できなかった」。
その歴史を踏まえます時、本日の御言葉は私たちにとって痛みと共に想い起こす御言葉でもあります。
一人ひとりが「替わりがきかない」存在として
「場の空気」に無暗に同調することの危険性を述べましたが、国という単位のみならず、空気の支配というものはもちろん私たちの身近なところに、至るところに発生します。同調圧力に無理やり屈服させられるということも起こるでしょうし、また自分は無自覚なまま、知らず知らず同調させられてしまっている、ということも起こっているでしょう。至るところに同調を強いる力があり、それは私たちを支配し、私たちの主体性を奪います。
私たちはいかにしたら、「空気」の呪縛から解き放たれ、主体性をもって生きてゆくことができるでしょうか。それは大変困難な課題でありますが、主イエスの御言葉から、その糸口を見いだしたいと思います。
主イエスはおっしゃいました。「あなたがたは地の塩である」。冒頭で申しましたように、主イエスは《あなたがたは地の塩である》と現在形でおっしゃってくださっています。過去の歴史を振り返ってみます時、私たちは「地の塩、世の光である」ことができなかった、にもかかわらず、それでもなお、「あなたがたは地の塩、世の光である」と主イエスはいま、おっしゃってくださっていると受け止めたいと思います。
「あなたがた」というのは、「教会」という意味に受け止めることもできますし、また「私たち一人ひとり」と受け止めることもできます。私は、いまという時代、「私たち一人ひとり」、すなわち「個人」という単位でこの言葉を受けとめることが大切であると考えています。
《あなたがたは地の塩である》――。塩が私たちの生活に欠かせないものであるように、「神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえのない、決して替わりがきかない存在である」。私たちがこの視点に立ち還ってゆくことが、「空気」の支配に抗い、主体性を取り戻してゆくための道筋となってゆくのだと、本日は受け止めたいと思います。
私たちは決して、「大勢の中の単なる一人」ではありません。神さまの目から見て、「かけがえのない一人」です。「決して失われてはならない一人」です。一人ひとりのこの代替不可能性(かけがえのなさ)、それは言い変えると、「個人の尊厳」ということです。私たち一人ひとりが替わりがきかない「個」に立ち帰り、その尊厳を取り戻そうとしてゆくことが、「空気の支配」に立ち向かう最大の力となってゆくのだと信じます。「空気の支配」の対極にあるもの、それが「個人の尊厳」であるからです。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」
この「個人の尊厳の光」は、最小単位の光かもしれません。しかしその光は神さまご自身が与えて下さっている、決して失われることのない光です。例外なく、すべての人に、この神さまからの尊厳の光はともされています。目には見えなくても、私たちの存在の奥深くに。
私たち一人ひとりから、神さまからの尊厳の光が失われることはあり得ません。この光は、最小単位であると同時に、最大の力を秘めています。主イエスははっきりと宣言してくださいました。《あなたがたは世の光である》――と(14節a)。いつかそうなるのではなく、いま、そう「である」のだ、と。
そして、主イエスはおっしゃっています。《あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》(16節a)。すでにともされているこの尊厳の光を、さらに、人々の前にはっきりと輝かすようにと主イエスは励まして下さっています。一人ひとりの輝きを、私たちの社会にはっきりと目に見えるものとするようにと力づけて下さっています。私たちの社会は、いまはこの光がはっきりと目に見えるようにはなっていません。むしろこの光は隠され、互いにそれを感じ合うことができづらいものとなっています。だからこそ、私たちは率先して、この光をはっきりと人々の前に輝かせてゆかねばなりません。
互いに互いをかけがえのない存在として受け止めあう社会を作ってゆくことができますように、「地の塩、世の光である」者として、共に歩んでゆきたいと願います。