2017年10月29日「主よ、いつまで」
2017年10月29日 主日礼拝
聖書箇所:詩編13編
「主よ、いつまで」
宗教改革500年
明後日10月31日は何の日でしょうか…? 日本では、多くの方が「ハロウィン」と答えるかもしれません。クリスマス前のイベントとして、最近はすっかりハロウィンが定着しつつありますね。10月31日は、皆さんもご存じの通り、キリスト教では「宗教改革記念日」とされています。
1517年10月31日、マルティン・ルターがローマ・カトリックの発行する「贖宥状」に対する批判を記した提題(『95カ条の提題』と呼ばれます)を公表しました。このルターの問題提起がきっかけの一つともなり宗教改革運動が本格化、プロテスタント諸教派がカトリックから分離してゆくこととなりました。私たち花巻教会が属するバプテストも、これら宗教改革を通して生まれ出たプロテスタント諸教派の中の一つです。ルターが『95か条の提題』を公表した10月31日が、宗教改革が本格的に開始された日として記念されているのですね。特に明後日はその日からちょうど500年のメモリアルな年になります。世界中で宗教改革500年を記念する行事が行われていることでしょう。
そのときルター自身は何か新しい教会を作ろうと意図したのではなく、贖宥状を巡る「学問的な討論」を始めたいという理由で提題を発表したようですが、『95か条の提題』はまたたくまにドイツ全域に広まり、大きなセンセーションを引き起こしてゆきました。ルターも当初、自分の提題が呼び起こした反響の大きさに驚いたそうです。
宗教改革、教会分裂
プロテスタント教会に属する方にとっては、宗教改革はとても良いもの、素晴らしいものというイメージがあるかもしれません。私たちの原点でもあるわけですから、それはその通りでしょう。たとえばルターの宗教改革における三大原則「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」は、いまもプロテスタント教会の信仰においてなくてはならない源泉であり続けています。
一方で、カトリック教会の方々からすると、宗教改革はまたまったく異なった出来事として映っています。カトリック教会からするとそれはまず第一に、一つなる教会が「引き裂かれた」出来事であるのです。「宗教改革」の歴史とは、別の見方をすれば「教会分裂」の歴史でもありました。そこには教会が引き裂かれたことの大きな痛みが伴っています。
宗教改革の時代、ルターをはじめとする神学者たちは、自分の信仰こそが「正しい」のだという確信のもと、論争に臨んでゆきました。そこには、対話を通して自分の考えを修正したり、改めたりするという態度が存在していませんでした。宗教改革時の論争において力が注がれたのは、対話をすることではなく、いかに相手を論破し、自分たちの正しさを論証するかということでした。そのように各自が頑なな態度でぶつかり合った結果、分裂が起こるのは必然のことでした。
宗教改革時において、何が問題であり、何が過ちであったのか。それは、「異なる信仰をもつ他者に対する不寛容な姿勢」にあった、ということができるでしょう。神学の内容自体は、それぞれが、かけがえなく大切なことを言っていたのです。それら論争を通して確立された信仰はいまもなくてはならないものとして、大切に受け継がれています。ただし、その固有の信仰を守ろうとする余り、自分たちと異なる信仰を「サタン」とみなして徹底的に否定しようとした姿勢に根本的な問題があったのだと受け止めることができます。
『争いから交わりへ』 ~カトリック教会とルーテル教会の共同文書
2013年に『争いから交わりへ 2017年に宗教改革を共同で記念するルーテル教会とカトリック教会』という文書が発表されました。2017年に向けて、ローマ・カトリック教会とルーテル教会(ルターに由来する教会)が共同で作成した文書です。長い間、お互いに背を向け続けていたカトリック教会とルーテル教会が、「争い」ではなく「交わり」を目指して共同で執筆した歴史的な文書です。実に50年近い年月をかけて、この文書は記されました。
この文書の中では、カトリック教会とルーテル教会が過去に犯した罪責に対する率直な告白がなされています。2017年を共同で記念するにあたり、まずそれぞれが、自分たちの過去の過ちを告白しなければならない、という姿勢のもとに文書が執筆されています。《二〇一七年の記念は、喜びと感謝を表明すると共に、ルーテル教会にとってもカトリック教会にとっても、想起されようとしている人物や出来事にある失敗や過ち、罪責と罪に対する痛みを感じる機会ともしなければならない》(『争いから交わりへ 2017年に宗教改革を共同で記念するルーテル教会とカトリック教会』、教文館、2015年、153頁)。過去の罪責を悔い改めてはじめて、評価すべきところは評価し、共に喜ぶべきところは喜ぶことができるのだという姿勢です。
聖書の中に、「教会はキリストの体である」という言葉があります(コリントの信徒への手紙一12章27節参照)。教会の分裂は、その一つなるキリストの体が引き裂かれることを意味します。宗教改革の時代、キリスト者同士が互いに敵対しあうことによって、キリストの体は引き裂かれました。私たちが互いに敵対し合い傷つけあう姿勢は、決して主の願う在り方ではなかったことでしょう。
また、それら対立が政治的な利害関係と結びつき、何度も悲惨な戦争が繰り返されました。ヨーロッパにおいて、数百万人もの尊い命が失われたとも言われます。宗教改革によってもたらされた意義は世界史的にも大きいものですが、同時に、宗教改革によってもたらされた惨禍も極めて大きなものであったのです。
その大きな痛みを覚えつつ、再び「一致」を取り戻すために踏み出された大きな一歩が、この『争いから交わりへ』という文書であるということができるでしょう。解説に記されている次の言葉が印象的です。《宗教改革の真の成就とは、今の分裂を克服してこそ実現されるはずだ。それゆえ、教会の一致を再び取り戻すことは、同時に宗教改革を完成させることである。それが二〇一七年に共に宗教改革を記念することの地平であろう》(同、光延一郎氏の解説、192頁)。
私たちは教会の「分裂」の歴史を踏まえた上で、再び「一致」を取り戻すために共に祈りを合わせてゆくことが求められています。それはおそらく時間がかかることでありましょう。しかしそのように私たち教会が率先して「和解」を成し遂げてゆくことには大きな意味があると思います。
昨日の朝日新聞の文化・文芸欄に、ちょうど宗教改革500年の記事が載っていました。カトリック教会とルーテル教会の共同の行事が紹介される中で、カトリック中央協議会の宮下良平事務局長の談話が紹介されていました。《人々はいとも簡単に分断されてしまう。しかし分断されたものがよりを戻すためには、本当にコツコツと作業をするしかありません。カトリック教会とルーテル教会の歩みはその証しです》。
いまの私たちの社会では、さまざまなところで分断が起こっています。立場や考え方の違いによって関係性が断絶してしまっている、そして互いに対話をする道筋が見いだせないような状況があります。そのような中にあって、再び「一致」を目指そうとするカトリック教会とルーテル教会の試みは私たちに重要な示唆を与えてくれるものであるように思います。
主よ、いつまで ~私たちの周囲にある分断
先ほどお読みしました詩編13編は代表的な「嘆きの詩編」の一つです。歌い手の「わたし」は苦しみのただ中にいます。その苦しみとは、関係性が断絶していることの苦しみであるということができます。2-3節《いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。/いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか》。
歌い手の「わたし」は、周囲との関係が断絶してしまっています。人々は自分に敵対し、どんどん追い詰められてゆく気持ちでいます。自分の心身も衰えてしまい、まるで神さまが自分のことをお忘れになっているように感じています。まるで暗い穴に落ち込んだかのような、真っ暗な谷間に投げ込まれたかのような気持ちでしょうか。
私たちの社会にはいまさまざまな分断が起こり、対話をする手がかりも見いだせない状態にあると申しましたが、その状況は私たちに非常な苦しみを与えるものです。この詩編では「いつまで」という嘆きが四度も繰り返されているのが印象的です。
私たちの世界はいつまで、このように分断されたままでいるのでしょうか。それは、私たち教会も同様です。カトリックとルーテル教会の貴重な試みがある一方で、教会の中にはいまもさまざまな対立があり、分断があります。対話をする道筋が見いだせない状況もあります。私たちはいつまで、主の体が引き裂かれることの痛みを感じ続けなければならないのでしょうか。
「一致」ということ ~「違い」がありつつ「一つ」
改めて「一致」ということについて述べてみたいと思います。「一致」するということ――それは、それぞれがこれまで育んできた固有性を消し去り、同一化してしまうということではありません。それぞれが自身の「固有性=かけがえのなさ」を保ちつつ「一致」するというのが、聖書の語る「一致」です。「違い」がありつつ、「一つ」であること。
またそれは、互いの「違い」は置いておいて、「共通点」だけ見つけましょう、という姿勢とも少し違います。「違い」を脇に置いておくのではなく、むしろ、「違い」に積極的な意義を見出すこと。「違い」を通して、一致してゆくこと、これが大切なことなのではないでしょうか。
先ほど、「教会はキリストの体である」ということを申しました。《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》(コリントの信徒への手紙一12章27節)。体には多くの部分があります。目があり鼻があり、手足があり、内臓があり、という風に「違い」があります。そしてそれら一つひとつの部分がそれぞれ、固有の役割を果たしています。そこには役割分担があるのです。パウロは、私たちもまたそうであると語りました。体が「違い」がありつつ「一つ」であるように、私たちもまた「違い」がありつつ「一つ」であるのだ、と。神さまは私たち一人ひとりに、固有の役割を与えてくださっている。そしてその「違い」によって、私たちが互いに補い合い、独りぼっちで生きてゆくことがないようにしてくださっている。私たちの人生に、共に生きることの喜びを与えてくださっていることをパウロは伝えています。「違い」を受け入れ合うことを通して「一つ」に結び合わされてゆく、これが聖書の語るまことの「一致」への道です。
宗教改革の時代、この姿勢が見失われ、それぞれが自己を「絶対化」してしまったところに根本的な過ちがあったということができるでしょう。それぞれが「部分」であることを忘れ、自分たちこそが「全体」だとしてしまったのです。そうして互いの「違い」が受け入れることができず、それゆえ相手の存在を否定したり、無理やり自分に同化させようとしてしまいました。それら「違い」が、他ならぬ神さまから与えられているものであるにも関わらず……。カトリックの信仰、ルターの信仰、ツヴィングリの信仰、カルヴァンの信仰……それぞれの信仰にかけがえのない意味があり、目には見えない役割分担があったのです。
愛に根ざして、まことの「一致」を
私たちが「違い」を受け入れ合う上でもっとも大切なもの、それは「愛」です。「多様性における一致」を成り立たせる「土台」の位置にあるものが愛である、ということができるでしょう。《そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。…信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》(コリントの信徒への手紙一12章31節、13章13節)。 信仰のさらに土台となるもの、それが愛です。
聖書が語る「愛」は、ギリシャ語で「アガペー」と言います。「好きか嫌いか」という私たちの感情の次元よりさらに深い領域を指し示すものとして、聖書はこの言葉を用いています。
このアガペーなる愛は、相手の存在そのものを大切にするように働くものです。アガペーなる愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしようとする働き」、ということができるでしょう。このアガペーなる愛は、イエス・キリストを通して完全なるかたちで私たちに示されました。主イエスは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として、あるがままに「よし」とし、愛してくださっています。私たちがこの神さまの愛に根ざして歩むとき、必ず、まことの「一致」は成し遂げられてゆくのだと信じています。
詩編13編の歌い手の「わたし」は、最後に、神さまへの信頼を謳っています。6節《あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と》。
主の慈しみを信頼し、和解と一致に向けての歩みを共に続けてゆきたいと願います。