2017年4月9日「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
2017年4月9日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書9章14-17節
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
受難週
私たちはいま、教会の暦で「受難節」の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難を心に留めて過ごす時期です。今年は3月1日㈬から受難節が始まり、今週の4月15日㈯まで続きます。特に受難節の最後の週にあたる今週は「受難週」と呼ばれます。今週の木曜日には洗足木曜日礼拝が行われ、イエス・キリストが受難日におかかりになった金曜日には、受難日祈祷会を予定しています。ご都合宜しければ、ぜひご参加下さい。
そして4月16日の日曜日に、私たちはイースターを迎えます。イエス・キリストの復活の記念し、共に喜ぶ日です。イースター礼拝では洗礼式と転入会式も予定されています。この1週間、ご一緒に主のご受難を覚えつつ、同時に、来るイースターの喜びを待ち望みたいと思います。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
聖書の言葉の中には、ことわざとして定着しているものがあります。よく知られた言葉として、たとえば、「目からウロコ」があります。「あることをきっかけにして、突然ものごとの真相や本質が分かるようになること」を意味する言葉ですが、元来は新約聖書の使徒言行録という書に記されている表現です。《たちまち目からウロコのようなものが落ち…》(使徒言行録9章18節)。キリスト教徒を迫害していたパウロという人物が、復活のキリストと出会い、それまでの価値観、生き方をまったく変えられる場面――いわゆる「回心」の場面で出て来ます。
他にことわざとして定着している聖書の言葉として、「豚に真珠」があります。こちらは新約聖書のマタイによる福音書に出て来ます。《神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない》(マタイによる福音書7章6節)。豚に真珠を与えてもその価値は分からないように、「その価値が分からない人には、価値あるものを与えても意味がないこと」を意味することわざとして知られています。
「目からウロコ」や「豚に真珠」ほど日本ではポピュラーではないかもしれませんが、本日の聖書箇所に出てくるイエス・キリストの言葉もことわざとして定着しているものの一つです。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」――。「新しい内容には、新しい形式が必要だ」という意味で使われています。たとえば、ある団体が新しい目標を立て、それに伴って組織を改編する際などに、このことわざを用いることができるでしょう。場合によっては、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはならない」とも言われます。どちらも、意味するところは同じです。
改めてこのことわざの由来となっているイエス・キリストの言葉を読んでみましょう。《新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする》(マタイによる福音書9章17節)。
ワインをビンに入った状態でしか見たことがない現代の私たちには、ワインを革袋に入れるという表現はピンと来づらいものかもしれません。この言葉が語られた当時は、水やワインなどの飲み物は革袋に入れて持ち運ばれていました。当時の人々にとって、革袋は生活の必需品であったようです。
新しい革袋には柔軟性がありますが、長年使っている革袋はだんだん柔軟性を失い、固くなってゆきます。この古い革袋に、新しいぶどう酒を入れてはいけない、とここでは語られています。なぜなら、新しいブドウ酒が発酵することによって生成される炭酸ガスで革袋がふくれあがり、遂には破けてしまうかもしれないからです。新しい柔軟性のある革袋なら大丈夫ですが、古くて柔軟性を失ってしまっている革袋は破けてしまう可能性があります。そうすると、中身のワインが流れ出て、外の革袋も使い物にならなくなってしまいます。
このように当時の人々にとって非常に身近なたとえを用いて、主イエスは「新しい内容には、新しい形式が必要であること」を語られています。
《新しいぶどう酒》 ~神の国の福音
「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れる」または「新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはならない」――。では、ここでの《新しいぶどう酒》とは何を指しているのか、《古い革袋》とは何を意味しているのか、が問題となってきます。様々な解釈が可能です。答えも、一つとは限らないかもしれません。本日は、《新しいぶどう酒》を、イエス・キリストが伝えてくださっている「神の国の福音」として受け止めてみたいと思います。
一人ひとりが、神さまの目から見て、「かけがえなく」貴いのだということ。それが、イエス・キリストが私たちに伝えてくださっている福音です。この福音に根ざし、私たちもまた互いを「かけがえのない」存在として大切にしあうこと、そのことを主イエスはいつも願っていてくださいます。
この神の国の福音が、本日の主イエスの言葉においては、発酵を始める《新しいぶどう酒》として表現されています。《新しいぶどう酒》は、活き活きと発酵をし続けている。そのように、福音の言葉もいま生きて働き続けており、私たちを変え、私たちを生かし続けているのだ、という想いも込められているのかもしれません。
《新しい革袋》 ~共食
この神の国の福音を入れる《新しい革袋》として、主イエスが生前大切にされた振る舞いがあります。それは、「共食」です。皆で共に食事をすること。教会特有の言葉を用いると、「愛餐」ということもできるでしょう。主イエスは生前、この共なる食事を特に大切にされました。福音書にも主イエスが弟子たちや人々と食事をされている場面が何度も出てきます。
私たちは食事をしないと生きていけないものですから、主イエスが食事を大切になさったのは当たり前のことと思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに食事は誰もがするものですが、主イエスがなされた食事の在り方が独特のもの――当時としてはまったく「新しい」スタイルのものであったのです。
先週、徴税人のマタイを主イエスが弟子にする場面をご一緒にお読みいたしました。そこで、当時、律法を守ることができない人々が「罪人」と呼ばれ、差別を受けていたことを話しました。その当時は律法をしっかり守ることができている人は「正しい人」とされ、律法を守ることはできていない人は「罪人」とみなされていました。中には、職業によって、また病いなどによって、律法を守ることができない事情があった人々がいるにも関わらず、です。主イエスはそれら社会から隅に追いやられ、居場所を失っている人々を自ら訪ね、その痛みを共有してくださいました。そして、それら人々を、ご自分の食卓に招いてくださいました。
律法の決まりに即せば、「罪人」と呼ばれる人々とは交際してはならない、共に食事をするなどもってのほか、ということになります。けれども主イエスは率先して、それら「罪人」と呼ばれる人々を大勢招き、食事を共にしてくださったのです。これは当時のユダヤ教徒の人々の目には、まったく「新しい」、驚くべき光景として映ったことでしょう。福音書には、その主イエスの「新しい」振る舞いがまったく理解できず、弟子たちに対して主イエスの批判の述べたファリサイ派の人々の言葉も残されています。《なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか》(マタイによる福音書9章11節)。
またその食事は、静かな食事ではなく、相当賑やかな食事であったと推測できます。まるで結婚式の宴のように、人々の笑い声や歌声が響く食事であったようです。ぶどう酒もふるまわれました。まるで祝宴のようなその賑やかな食事の光景にも、周囲の人々はびっくりしたのではないでしょうか。福音書には、主イエスに対する周囲の人々の陰口も残されています。《人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う》(マタイによる福音書11章19節)。
断食ではなく、祝宴を
その主イエスの「新しい」スタイルは、対立する人々だけではなく、身近にいる関係者たちにも波紋を投げかけたようです。本日の聖書箇所の冒頭には、これら主イエスの振る舞いに戸惑う人々の言葉が記されています。洗礼者ヨハネの弟子たちの言葉です。14節《そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った》。ヨハネの弟子たちは賑やかに飲み食いするのではなく、静かに断食をすることが信仰者にとって大切な姿勢であると考えていました。
確かに、断食という振る舞いは尊いことです。ただし、一人ひとりが、神さまの目から見て「かけがえなく」貴いという福音の真理を目に見えるかたちで表すには、断食ではなく、祝宴こそがふさわしい、ということができます。神の国の福音という《新しいぶどう酒》を入れるには、断食という《古い革袋》ではなく、祝宴という《新しい革袋》がふさわしい。
主イエスが共にいてくださる食卓においては、一人ひとりが、神さまの目にかけがえのない存在として尊重されています。一人ひとりに、居場所があります。自分が尊厳をもった存在として大切にされているという確かな実感が、ここにあります。主イエスが共にいてくださる食卓は、何と喜びと輝きに満ちた場であることでしょうか。《そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く》(イザヤ書51章3節)。私たち一人ひとりが、この喜びの食卓へと招かれています。
花婿が奪い去られる時
本日の聖書箇所においては、主イエスは同時に次の言葉をそっと加えられます。15節《イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い去られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。…」》。
ここで暗示されているのは、この先に起こる主イエスの十字架の死です。祝宴の喜びの中で、同時に、主イエスは御自分が奪い取られる時が来るということを予告されました。それは、周囲の人間から神さまからの尊厳が徹底的にないがしろにされるという経験でした。
一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえなく貴い。それは主イエスが私たちに伝えてくださっている変わることのない真理です。その喜びを表すには、祝宴がふさわしい。
同時に、私たちの生きる世界では、その神さまからの尊厳がないがしろにされている現実があります。主イエスの祝宴に招かれた人々も、また一歩その外に出れば、不条理な差別の現実にさらされたことでしょう。主イエスはその悲しい現実から目を逸らすことなく、その現実のただ中にご自分の身を投じてゆかれました。そうしてご生涯の最期には、ご自身が、徹底的に尊厳をないがしろにされる経験をされました。
受難節はこの主のご受難に私たちの心を向ける時です。この悲しい現実を表すには、祝宴ではなく、断食がふさわしいことでしょう。《しかし、花婿が奪い去られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる》……。
主イエスが伝えてくださっている喜びと悲しみ
主イエスが私たちに伝えてくださっている喜びと悲しみは、矛盾するものではなく、共に同じ一つの事柄から生じているものです。神さまの目から見て一人ひとりが尊いということ。その真理と、喜びを主イエスは伝えてくださっています。同時に、私たちの生きる世界には、その真理が見えなくされている現実があります。神さまからの尊厳がないがしろにされている現実があります。その現実の中を生きる私たちの嘆き悲しみを主は伝えてくださっています。
受難節のこの時、私たちはこれら嘆き悲しみから目を逸らすことなく、見つめてゆくことが求められています。しかし同時に、私たちはこの悲しみだけで私たちの人生が終わるのではないことを知らされています。私たちの人生には、悲しみだけではなく、消えることのない喜びがあるということ。主が共にいてくださる祝宴は、いつも私たちの目の前に広がっていることを。
この喜びを知らされているので、私たちはいま目の前にある悲惨な現実に向かい合ってゆくことができます。神の国の真理と喜びが、私たちに再び立ち上がる力、目の前の現実に向かい合ってゆく力を与えてくれます。主イエスが伝えてくださっている祝宴の喜びは、どれほど悲しい出来事が私たちを襲ったとしても、私たちの間から取り去られることはありません。この失われることのない喜びを約束してくださる日が、イースターです。
受難週のこの時、いま目の前にある悲しみから目を逸らすことなく、同時に、イースターの喜びを希望としつつ、共に歩んでゆきたいと願います。