2018年10月21日「栄光の光、尊厳の光」

20181021日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヨハネの黙示録724節、912 

栄光の光、尊厳の光

 

 

信教の自由

 

「信教の自由」という言葉があります。「ある特定の宗教を信じる自由」を意味する言葉ですね。皆さんもよくご存じのように、信教の自由は憲法でも保障されています。日本国憲法第20条第1項《信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない》。

 

《信教の自由は、何人に対してもこれを保証する》という文言は、言い換えれば、「どんな宗教も信じる自由が、すべての人に対して認められる」という意味の言葉です。ここには、「信じる自由」だけではなくて、「信じない自由」も含まれています。ある特定の宗教を「信じる/信じない」は個人の自由に属することなのですね。「信教の自由」は「思想・良心の自由」(日本国憲法第19条)と共に、私たちが「人間らしく」幸せに生きてゆくための欠かすことの出来ない権利の一つです。

 

 ある宗教を信じているがために、差別されることがあってはならないのは、もちろんのことですね。また、信じる意思のない人に、ある宗教を無理やり信じさせようとすることも、あってはならないことです。

 

 私たちが生きている日本の社会では、「信教の自由」が認められています。しかしそれは当たり前のものではなくて、長年にわたる努力の成果として勝ち取られてきたものです。ヨーロッパの歴史において、長年の闘いにより「信教の自由」が少しずつ勝ち取られてきたことはよく知られている通りです。また私たちの生きている社会で「信教の自由」が保障されているといっても、それがいつ危うくなるかは分からないことです。たとえば、自民党の方々の作った「日本国憲法改正草案」を見ていますと、先ほどの第20条第1項が《信教の自由は、保障する。…》となっており、もともとあった《何人に対しても》という文言が削除されています(自民党の『日本国憲法改正草案』全文は自民党憲法改正推進本部のHPよりダウンロードできます。http://constitution.jimin.jp/draft/)。もしかしたら、今後、国家が一部の人の信教の自由を制限する、ということが起こってゆくかもしれません。そのようなことにならないよう、私たちは今後も一人ひとりの「信教の自由」が守られるために力を合わせてゆくことが求められています。

 

 

 

「潜伏キリシタン」の信仰の遺産

 

私たちが生きている日本では現在は基本的に「信教の自由」が認められていますが、過去において、信教の自由が認められない時代がありました。というより、日本において信教の自由が保障されるようになったのは比較的最近のこと、この140年くらいのことです。

 

たとえば、皆さんもよくご存じの通り、江戸時代にはキリスト教が禁止されていました。1614年に江戸幕府が全国に禁教令を出し、キリスト教が公に禁止されることとなりました。キリスト教を信じること自体が禁止された、すなわち、「信教の自由」がまったく失われていたわけです。さらには、キリスト教徒であることが発覚すれば、拷問を受けたり、殺されるということまで起こってゆきました。このようなことは、現代の視点からすると、決してあってはならないことであることはもちろんのことです。

 

 一部のキリスト教徒たちは、自分たちがキリスト教徒であることが発覚しないよう、様々な苦心をしながら、密かに信仰を守り続けました。これら人々が現在、「潜伏キリシタン」と呼ばれているのは皆さんもよくご存じの通りです。「キリシタン」とは「キリスト教徒」という意味です。1873年に明治政府がキリスト教禁制の高札を撤廃するまで、およそ250年もの間、「潜伏キリシタン」となった人々は水面下で懸命に信仰を守り続けました。

 

どのようにして信仰を守り続けたのかというと、たとえば表面上は仏教徒を装ったりなどして、幕府の監視の目を逃れていたという解釈があります。スクリーンをご覧ください。これは何に見えるでしょうか。仏教の観音菩薩像ですね。「潜伏キリシタン」の人々は、これを幼子イエスを抱いた聖母マリアに見立てて祈りを捧げていたと言われます(マリア観音と呼ばれています。長崎県浦上村のもの)。このような「潜伏キリシタン」の遺物が、日本の全国に残されています。道具一つ一つの背後に、まさに血の滲むような、「潜伏キリシタン」となった人々の懸命なる信仰の物語があります。

 

その信仰の遺産が稀有なものとして評価されて、今年の夏には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 

 

 

「このような悲惨なことがもう二度と起こることのないように」

 

東北にも「潜伏キリシタン」ゆかりの地はたくさんあります。私たちの住む岩手にも「潜伏キリシタン」の遺跡があります。たとえば、一関市の藤沢町には大籠(おおかご)キリシタン殉教公園があります。この大籠の地では、300人以上のキリスト教徒が殉教(信仰のために命を失うこと)したとされています。現在は殉教公園として整備されています。私も数年前、妻と一緒にこの殉教公園を訪ねました。公園内には、東北のキリシタンの資料館や彫刻家の舟越保武さんが設計した礼拝堂もありました。

 

 私がこの殉教の地を巡りながら胸の内でつぶやいていたことは、「このような悲惨なことがもう二度と起こることのないように」ということでした。大籠をはじめ、キリシタンの殉教地には多くの方々が訪れます。そうして、命を賭して信仰を貫いた先人たちの姿に触れ、胸を打たれることでしょう。私も、殉教した人々に最大限の敬意を抱いています。先人たちの懸命なる信仰があったからこそ、いま私たちのもとに信仰のともしびが手渡されているのだと思っています。そのことを踏まえた上で、しかし、いま私たちが祈るべきことは、「私たちもこのような強い信仰を持とう」ということではなく、「信仰を理由に人が殺されるという悲劇が、二度と繰り返されないように」ということなのではないかと思っています。私にとって、殉教地とはその決意と祈りを新たにする場です。

 

たとえば、キリシタンの時代においては江戸幕府の責任こそ問われるべきです。人々から「信教の自由」をはく奪し、キリスト教を信じているというだけで多くの人を死に追いやった江戸幕府。権力者たちの政策こそ、厳しく問われるべきことです。人を殉教にまで追いやるということそのものが、決してあってはならないことです。

 

 

 

『ヨハネの黙示録』が書かれた時代 ~ローマ帝国による迫害

 

「信教の自由」とキリシタン時代のことについて少しお話しました。聖書が記された時代にも、やはり、キリスト教徒への迫害がありました。本日の聖書箇所である『ヨハネの黙示録』も、キリスト教徒が差別や迫害を受ける状況の中で書かれたものです。キリスト教を信じているというだけで人が迫害されるということが、当時も起こっていたのですね。そのような、緊迫した状況の中で、この『ヨハネの黙示録』は記されています。

 

『ヨハネの黙示録』には何だかちょっと怖いような、不思議なイメージがたくさん出てきます。どのように読み解けばよいのか分かりづらい難解な書ですが、背後に、ローマ帝国による迫害という苦しみがあることを踏まえれば、少し理解をすることができるようになってくるかもしれません。当時はまだローマ帝国によるキリスト教徒への大々的な迫害というのは行われていなかったようですが、散発的にいやがらせや迫害が行われたり、教会の指導者が捕らえられたり、時には殺されたりすることが起こっていたと考えられます。

 

先ほど、「潜伏キリシタン」の人々が幕府の監視の目を逃れるために様々な苦心をしていたということを述べました。この『ヨハネの黙示録』でも、抽象的な表現を用いつつ、ローマ帝国への抵抗を暗に表現しています。不可解なイメージや暗号などを用いて、間接的に、ローマ帝国にこの先、神からの裁きが下ることを宣言しているのですね。そうして、この文書を受け取った人々に、目の前にある苦難を耐え忍ぶよう励ましているのです。キリストは必ず悪に勝利して下さる。自分たちキリスト教徒を神の王国に招き入れてくださる。だから、何とかしてこの苦難に耐え忍ぶようにとヨハネ黙示録の著者は呼びかけています。

 

ローマ皇帝への批判が暗号として記されている有名な例は、「666」という数字でありましょう。欧米では悪魔の数字とされ、ホラー映画にも出て来るものですが(映画『オーメン』など)、元々はこの『ヨハネの黙示録』に出て来る数字です1318節)。『ヨハネの黙示録』では「獣の数字」として出て来ます。この暗号は、解読すると「皇帝ネロ」の名前になると言われています。ローマ皇帝ネロはキリスト教徒を迫害したことで有名な皇帝ですが、この皇帝ネロが再び現れることへの注意が呼びかけられているのですね。

 

 

キリストが私たちの目から涙がぬぐってくださる時

 

『ヨハネの黙示録』の著者たちは、苦しみの中で、信仰を通して神の王国のビジョンを垣間見ていました。本日の聖書箇所にもその光景が描かれています。《この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、/大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」/また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、/こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」7912節)。玉座に座っている神の傍らにいる小羊とは、イエス・キリストのことです。人々が玉座に座る神とキリストに一心に目を注ぎ、力の限りの賛美をささげている様子が描かれます。

 

また、続く1617節では胸を打たれる記述が続きます。《彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。/玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである》。キリストは必ず私たちを命の水の泉に導き、私たちの目から涙をことごとくぬぐってくださる。信仰のまなざしを通して見ることが出来る希望が語られています。いまは私たちは涙を流さざるを得ないのだとしても、キリストが必ず私たちの目から涙をぬぐい取ってくださる。必ず、その日は来る――この信仰と希望の言葉は途切れることなく受け継がれ続け、いま、私たちのもとに手渡されています。

 

 

 

神の国は私たちが生きるこの世界のただ中に

 

私たちはこのともしびを受け継ぐと共に、人々が信仰を理由に迫害されたり殺されたりする悲劇を繰り返してはならないことを心に刻むことが求められています。

 

神の国とは、この世界を超えたどこかにあるのではなく、私たちが生きるこの世界のただ中に到来するものだと私は受け止めています。主の祈りでも「御国が来ますように」と祈っていますね。一人ひとりの「信教の自由」が確かに保障される世界、一人ひとりが「より人間らしく」喜びをもって生きることができる世界の実現を願い、私たちが一歩一歩歩んでゆくことを通して、キリストは私たちの目から涙をぬぐい取ってくださるでしょう。

 

『ヨハネの黙示録』は神さまの栄光の光に懸命に目を注ぐことの大切さを伝えてくれています。と同時に、いま、私たちは神さまからの尊厳の光にも目を注ぐことが求められています。私たち一人ひとりに与えられている、神さまからの尊厳の光です。この光は、私たちの存在が神さまの目から見て、かけがえのない存在であることを伝えています。決して失われてはならない存在であることを伝えています。この栄光と尊厳の光が、私たちに苦難に耐え忍ぶ力のみならず、目の前の現実を少しずつ変えてゆく力を与えてくださると信じています。

 

 私たちの目から涙がぬぐわれる瞬間が、私たちがいま生きているこの世界に実現してゆきますように、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと願います。