2018年8月5日「平和の福音」
2018年8月5日 花巻教会 平和聖日礼拝説教
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章14-22節
「平和の福音」
平和聖日
本日は平和聖日礼拝をごいっしょにささげています。平和への祈りを共にささげる日です。
8月は、私たちが平和を考える上で、忘れてはならないさまざまな出来事があります。皆さんも心に刻んでおられるように、今から73年前の1945年8月6日、アメリカ軍によって広島に原子爆弾が投下されました。3日後の8月9日には長崎に原爆が投下されました。また同日、中国東北部の旧満州ではソ連軍が侵攻を始め、そこに住んでいた多くの日本人の住居と命が奪われました。またここ花巻でも、8月10日にアメリカ軍による空襲がありました(花巻空襲と呼ばれています)。そのような悲惨な出来事を経て、8月15日に私たちの国は敗戦を迎えました。
これら出来事を心に刻みつつ、共に平和への想いを新たにしてゆきたいと思います。
平和 ~一人ひとりが大切にされること
改めて「平和」ということについて考えてみたいと思います。「平和」の反対語としては、一般に、「戦争」を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。「戦争がない状態」、それが平和であるということができるでしょう。
と同時に、平和は「戦争がない状態」だけを指すものではありません。国と国との間に戦闘行為が生じていない場合でも、平和ではない状態というのは起こり得ます。たとえば、私たちの生きる社会に格差や、抑圧や差別が生じているとしたら。それは平和ではない状態だということになります。また、身近なところで、私たち自身が対立していたり、互いに傷つけあったりしてしまっているとしたら、そこでもやはり平和は失われてしまっているということになるでしょう。その意味で、まことの平和とは、「戦争がないこと」を意味するのみならず、「一人ひとりが大切にされること」を指すのだと受け止めることができるのではないでしょうか。
私たちの生きる社会には現在、さまざまなところで、平和ではない状況が生じています。たとえば、原発の問題、沖縄に対する問題。私たちの社会にはさまざまなところで、平和ではない状況があります。これら平和ではない状況は、一人ひとりが大切にされていないことから生じているのだということもできるでしょう。そして、一人ひとりが大切にされないことの最たるものが、戦争というものです。
イエス・キリストのメッセージ ~神の目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い
イエス・キリストが私たちに伝えてくださっているメッセージがあります。それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」ということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく大切であるということをイエス・キリストは伝えてくださっています。
「かけがえがない」という言葉は私たちも普段の生活の中で使うことがありますね。「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえがない存在=替わりがきかない存在である。だからこそ、大切な存在であるのです。
一人ひとりの存在は、かけがえがないものである。替わりがきかないものである。私自身も、私の周りにいる一人ひとりも、すべての人が、替わりがきかない存在である――。このことを私たちがしっかりと心に刻み込むところから、少しずつ、平和が創り出されてゆくのではないでしょうか。
主イエスはおっしゃいました、《平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる》(マタイによる福音書5章9節)。私たちはそれぞれ、平和を実現する使命をイエス・キリストから託されています。
《敵意》の中に含まれる問題
一方で、わが身を振り返って見ますと、私たちはこの大切なことを忘れてしまっていることが多いものです。一人ひとりの存在がかけがえなく大切だ、ということを気が付くと忘れてしまっているものです。
心に余裕がないとき、イライラしているとき、激しい怒りを感じているとき……。本当は自分にとって大切な存在であるはずの人々に対して、私たちは関心を払わなくなってしまっていたりします。または、周りの人々に攻撃的になってしまったり、自分から距離をとって遠ざかってしまったりもします。
本日の聖書箇所には《敵意》という言葉が出てきました(エフェソの信徒への手紙2章14節、16節)。私たちは他者に対して、時に《敵意》を抱いてしまうことすらあるでしょう。相手を自分の敵として憎んでしまう気持ちです。
もちろん、私たちは人に対して反感を抱いたり、「苦手だな」「嫌だな」と感じることはよくあることです。日々の生活の中で、どうしても自分と考えが合わないと思う人も出て来ることでしょう。そのような想いや感情自体は否定されるべきものではありません。私たちが心でどう感じるかは、誰からも拘束されるものではありません。また、もし相手に批判されるべきことがあるなら、私たちは率直に批判をするべきでしょう。
そのことを踏まえた上で、少し立ち止まって考えてみたいのは、私たちの《敵意》の中に含まれている、「相手の存在を否定しようとする想い」です。私たちは誰かに《敵意》を抱くとき、激しい感情にとらわれる中で、その人が「いないほうがいい」「いなくなってしまえばいい」と思ってしまうことがあります。そのとき、私たちは、相手の存在そのものを否定してしまっていることになります。これは、大きな問題なのではないでしょうか。先ほど言いましたように、平和はすべての人がかけがえのない、替わりがきかない存在であるという認識から創り出されてゆくと思うからです。
自分に嫌いな人がいたとして、その想いを受け止めながらも、しかし、嫌いなその相手の存在までは否定しない、という姿勢が求められているのではないかと思います。この点をあいまいにしてしまうとき、私たちは自ら平和を創り出す機会を放棄してしまっているのではないでしょうか。
ある人のことが「嫌いだ」という感情と、その人もまた「神の目に大切な存在だ」という認識は、両立することなのです。私たちは日々立ち止まり、このことを自分の内で両立させてゆくことが求められているように思います。もちろん、それはなかなか簡単にできることではないかもしれません。時に時間がかかることもあるでしょう。だからこそ、私たちはイエス・キリストのお姿に立ち戻る必要があるのだと思います。
キリストは私たちの平和
本日の聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙は、イエス・キリストは「私たちの平和」であり、ご自身の体において「敵意という隔ての壁を取り壊してくださった」と語ります。
《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました》(2章14-17節)。
イエス・キリストにも生前、考えの異なる人々がいました。主イエスはそれら人々に対し、「おかしい」と思うところは率直に指摘なさいました。とりわけ、一方的な物差しをもって人に優劣をつける考え方に対しては厳しく批判をなさいました。主イエスは常に、神の目に一人ひとりが大切な存在であるという視点に立って言葉を発し、行動されていたからです。
けれども、主イエスはそれら考えの異なる人々に対して《敵意》を抱くことはありませんでした。激しく怒ることはあっても、考えがあわない人々を憎むことはなさらなかった。なぜなら、自分とは考え方が異なる人々もまた、神の目に大切な存在であることを確信されていたからです。
考えが異なる人々のところに自ら入ってゆくこと
間違った考え方をしている部分は、はっきりと、変わっていってもらわねばなりません。その間違った考え方によって傷つけられている人々のために、また他ならぬ、その間違った考え方をしている人々のためにも――。そのために主イエスはなさったことは、自分とは考えが異なる人々のところに自ら入って行くことでした。そうしてそれら人々と同じ存在となることでした。それら人々の考え方を自らの血肉とし、それら人々の存在をなくてはならない自分の一部(自らの半身)としていったのです。それが出来たのは、他ならぬ主イエスの目に、それら人々の存在が決して失われてはならない、かけがえのないものとして映っていたからに他なりません。
そのようにして他者の存在を自らの一部としながら、自らの体に刻み付けながら、変わるべき部分は共に変わろうと呼び掛けてゆく。主イエスはそのような姿勢で一人ひとりと関わってくださいました。
《新しい人》 ~神の目に大切なすべての人の存在が刻み付けられた体
ここには一切の敵意はありません。あるのは、愛です。一人ひとりの存在をかけがえのないものとして、ご自分の体に刻み付けようとする神の愛です。主イエスはこの神の愛を、身をもって現してくださいました。ご自分の生き方を通して、十字架にかけられたご自分の体を通して、敵意という隔ての壁を取り壊し、まことの平和を実現してくださったのです。
聖書はイエス・キリストを《新しい人》(15節)と呼んでいます。この《新しい人》の体には、神の目に大切な一人ひとりの存在が刻み込まれています。わたしの存在も、あなたの存在も、すべての人の存在が、刻みつけられています。決して失われてはならない、かけがえのない存在として。この《新しい人》において、平和は実現されています。
どうぞいま、このキリストの平和の福音に私たちの心を開きたいと願います。