2019年6月23日「キリストに結ばれ、一つに」
2019年6月23日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:使徒言行録2章37‐47節
「キリストに結ばれ、一つに」
まど・みちお『ぼくが ここに』 ~「いること」こそが尊い
私の好きな詩人にまど・みちおさんという人がいます。まど・みちおさんは童謡の『ぞうさん』や『やぎさんゆうびん』『ふしぎなポケット』などの作詞でも大変よく知られています。まどさんの詩の中に、『ぼくが ここに』という詩があります。私は折に触れ、この詩を大切に思い起こすことがあります。このような詩です。
《ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない/
もしも ゾウが ここに いるならば/そのゾウだけ/マメが いるならば/その一つぶの マメだけ/しか ここに いることは できない/
ああ このちきゅうの うえでは/こんなに だいじに/まもられているのだ/どんなものが /どんなところに/いるときにも/
その「いること」こそが/なににも まして/すばらしいこと として》
まど・みちおさんのこの詩において謳いあげているのは、一つひとつの存在が、かけがえのないものとして、大事に守られている世界です。まどさんはこの詩に関連して、インタビューの中で次のように語っています。《この世のありとあらゆるものは、すべてが自分としての形や性質をもっていて、それぞれに尊い。そこにあるだけ、いるだけで祝福されるべきものであり、みんながみんな心ゆくまでに存在していいはずなんですよ。/なのに私たちは、人と自分を比べ、人のマネをして、かけがえのない自分を自分で損なっている》(『いわずにおれない』、集英社be文庫、2005年、17-18頁)。
この詩をはじめ、ご自身の作品を通してまどさんが指し示そうとしているのは、「いること」こそが何よりも素晴らしいとされている世界の在り方です。
一方で、いま私たちが生きている社会を見つめていると、まどさんが指し示そうとした世界の在り方からは、大きく外れた状態にあるように思います。「いること」こそが尊いという考えではなく、私たちは「いる」だけでは駄目なんだという考え方が社会を覆っています。何か社会的に有用な働き、貢献が出来ていないといけない、そうでないと私たちは一人前の人間にはなれない――そのような考え方が私たちの社会を覆ってしまっているのではないでしょうか。いま、多くの人が辛さ、生きづらさを感じつつ、懸命に生活をしているのではないかと思います。
就職活動の経験
私は牧師となるために神学校に行く前、キリスト教の出版社で2年ほどお手伝いをしていました。その出版社に入る前、就職活動として、幾つかの出版社に書類を送ったり、新聞社の入社試験を受けたことがありました。今から十数年前のことです。その頃はちょうど「就職氷河期」の終わり頃で、学生が就職先を見つけるのが困難だった時期でした。バブル経済が崩壊し景気が低迷する中、就職活動をしても結局希望の職種に付けず、いまも非正規雇用または無職になっている30代半ば~40代半ばの人々が数多くいることがいま社会的にも大きな課題となっていますね。いわゆる「就職氷河期世代(4月に『人生再設計第一世代』に名称変更)」と呼ばれる世代です。
当時、周りには、何十もの会社にエントリー(応募)して採用試験を受け続けている友人もいました。中には、100近い会社にエントリーしている人もいたそうです。私はそのように何十社者面接を受けたわけではなく、本格的に就職活動をしたわけではありませんが、それでも、採用試験を受けることがいかに大変かはある程度経験はいたしました。ちなみに、私は希望した会社はすべて第一次選考であっけなく落とされ、半年ほどはいわゆるフリーターとして、ジンギスカン屋さんでアルバイトをして生活をすることになりました。
就職活動をするにあたって、「自己診断シート」というものを書く風習があります。私が学生であった当時もありましたし、いまもあるようです。自己診断シートは自身を分析し、どのような仕事が適しているのかを考える材料として用いられます。シートの中には自分の長所や短所を分析する項目があります。しかしこの自己診断シートとはあくまで就職活動に役立てるためのものであって、そこから本当に自分という人間が見えてくるかはまた別の問題です。むしろ、その過程を通して、各企業が求めているであろう人物像に無理やりにでも自分を合わせてゆくことをしてしまうものではないでしょうか。
ありのままの自分でいることは認められず、「自分ではない誰か」になってゆくことを自他に強要される、というのは私たちにとって非常に辛いことです。自分ではない誰かになる、ということは本来不可能であるにも関わらず、それを強要される。社会に役に立つ、有用な人間であれ、と絶えず無言のプレッシャーにさらされる。
さらに、そのように懸命に社会の求めに自分を合わせているにも関わらず、希望した会社からは試験で落とされる、ということを経験することがあります。また、何とか入社することができても、ある日、突然のリストラに逢うこともあるでしょう。
そのような時、当人は「自分は必要のない人間なのだ」という感覚を抱きます。面接を落とした会社としては、ただ事情があってお断りしただけなのかもしれませんが、当人としては、まるで自分の存在そのものが否定されたような、深刻なメッセージを受け取ってしまうのです。
懸命に社会の求めに合わせようとして、その上で拒絶されるという経験。それがずっと続いてゆけば、いかに私たちの心に深刻な影響を与えてゆくことでしょうか。十数年ほど前、私が学生だった時、何十もの会社の採用試験に落ちた友人が、憔悴しきった顔をして大学の構内を歩いている姿を目にしたことがありました。入社面接や試験に落とされ続ける中で、その友人たちは自分自身を尊ぶ心――自尊心が深く傷つけられていたことと思います。当時といまはまた雇用状況は変化しているとは思いますが、いまも、社会のさまざまな場面において、同様に傷つけられている人々が数多くいることを思うと、心が痛みます。
強いられる「椅子取りゲーム」
就職活動を一つの例として取り上げてみましたが、就職活動の時のみならず、私たちはこの社会で生きてゆく中で、さまざまな場面において自尊心を奪われてゆく経験をします。これが、「現実の厳しさ」というものなのでしょうか。若者は就職活動を通して「現実の厳しさ」に出会って、鍛えられるのだという考え方もあるかと思いますが、わたしはそのように肯定的に捉えることはできません。「現実の社会は厳しい」のではなく、「私たちが生きているこの現実の社会が何だかおかしい」というのが実際のところなのではないでしょうか。この社会の構造がいびつに歪んでしまっているからこそ、いまも多くの若い人々の自尊心が損なわれてしまっているのです。
それはまるで、「椅子取りゲーム」を強いているような状況であると言えます。社会は「素晴らしい人材を求む」という名目を掲げ、有無を言わさず若者たちにこのゲームに参加するように促します。若者たちは自分の椅子を求めて懸命に走ります。しかし肝心のその椅子は一人にひとつずつは確保されてはおらず、数が限られているのです。
ある精神科医の方(北山 修氏)は、陣取りとか椅子取りなどの「居場所を奪う」ゲームは、他のゲームに比べて極めて残酷であることがあまり気づかれていない、と指摘しているそうです(鷲田清一『「聴く」ことの力』、阪急コミュニケーションズ、1999年、253頁)。確かに、椅子取りゲームはワイワイと気楽にする分には楽しいものかもしれませんが、真剣さを帯びると途端に残酷性を帯びたものになる、とハッとさせられます。ゲームの世界であっても残酷であるのに、それが現実の世界においてなされてしまったら、どれほど恐ろしいことでしょうか。しかし現実に、椅子取り争いを人々に強要してしまっているのがいまの私たちの社会です。そのような価値観がどれほど若い人々の心に深刻な影響を与えているのか、あまり意識されることはありません。
このような状況の中で、私たちはだんだんと「自分は大切な存在である」という意識を見失ってゆきます。椅子取り争いについてゆけず、取り残された人々は、「自分の替わりなどいくらでもいる」のだという悲しみ、失望感に心が支配されてゆきます。そうしてこの世界には自分の居場所がないような、心細い気持ちにさせられてゆきます。
聖書のメッセージ ~一人ひとりがかけがえのない存在であり、大切な役割がある
聖書は、私たち一人ひとりは、神さまからかけがえのない存在として創られていると語っています。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たちは一人ひとり、かわりがきかない存在としてこの世界に生れ出た。いまも唯一無二の存在として生きている。だからこそ、大切であるのです。必要のない人というのは、決して存在しません。私たち一人ひとりに、その人にしかできない大切な役割が神さまから与えられています。
ある聖書の言葉をご紹介したいと思います。コリントの信徒への手紙一という書の中の言葉です。この手紙を記したのはパウロという人物ですが、パウロはここで私たちの存在を体とその部分になぞらえて説明しています。
《体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。/足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。/もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。/そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。/すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。/目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。/それどころか、体の中でほかよりも弱く見る部分が、かえって必要なのです》(コリントの信徒への手紙一13章14-22節)。
体の中には手があり、足があり、目があり、耳があり……と多くの部分があります。多くの部分が一つに結ばれ、体は成り立っています。そしてそれぞれの部分が、かけがえのない働きをしています。それと同じように、神さまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として造られ、それぞれに大切な役割を与えてくださっている。そのことをここでパウロは伝えています。パウロはこのメッセージを教会の人々に向けて語りましたが、これは教会の中においてだけではなく、私たちがいま生きている社会全体にとって、とても大切な視点であるということができるでしょう。
神さまは私たち一人ひとりに居場所を確保してくださっている
この世界には本来、「椅子取りゲーム」は存在しません。神さまは私たち一人ひとりに、居場所を確保してくださっている――それが、私たちの世界の本来の姿であると信じています。まど・みちおさんは詩の中で《ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない》《「いること」こそが/なににも まして/すばらしいこと》と語りました。そのように、神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として守り、その居場所を確保してくださっているのがまことの現実の世界であるのだと私は信じています。
一人ひとりに居場所が確保されている場を、パウロは「キリストの体」と呼びました。私たちはキリストに結ばれ、一つにされています。それぞれに違いがあり、かけがえのない存在として、一つにされています。本日の聖書箇所でも、イエス・キリストを信じる人々がみな、一つになっている姿が描かれていました(使徒言行録2章44‐47節)。
この一つなる体においては、私たちは誰かに「あなたは私にとって必要はない存在です」と言うことできません。目が手に向かって「あなたは要らない」と言えないように、頭が足に向かって「あなたは要らない」とは言えないように。私たちは一つの体の中でそれぞれが固有の役割を担っています。これが私たちの世界の本来の姿です。
それぞれに与えられた役割というのは、必ずしも社会が求めている事柄と対応しているものではないでしょう。その人の存在からにじみ出るものとして、その人の存在と切っても切り離せないものとして、大切な役割がそれぞれに神さまから与えられています。効率や生産性を過度に重視する現代社会から見ると、一見役に立たないように見える働きであっても、実は、それが「キリストの体」全体において大切な役割を果たしていることが数多くあります。自己診断シートでは見えてこない、私たちそれぞれが本来もっている素晴らしい賜物があるのです。
一人ひとりが大切にされる社会、一人ひとりが喜びをもって自分らしく生きることができる社会を求めて、自分にできることをご一緒に行ってゆきたいと願います。