2020年1月12日「神の小羊」
2020年1月12日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29-34節
「神の小羊」
イランとアメリカ間の緊張
新しい年になってから、イランとアメリカとの間の緊張が高まっています。8日にはイランのテヘランから飛び立ったウクライナ航空機が墜落し乗客乗員176名全員が亡くなるという大変痛ましい事件が起こりました。アメリカ側はイランが誤ってミサイルで打ったためであるとの見方を強め、昨日イラン側もその責任を認めました。軍事的な緊張が高まる中で、まったく無関係の方々の命が奪われてしまいました。皆さんも心を痛めていらっしゃることと思います。いま悲しみの中にいる方々の上に主の慰めを祈ると共に、報復が報復を呼ぶ連鎖がこれ以上深刻化してゆくことのないよう祈りを合わせてゆきたいと思います。このような中、日本では自衛隊を中東海域に送ることが計画されています。大変気がかりです。
皆さんもよくご存じのことであると思いますが、このように唐突に軍事的な緊張が高まった直接的な要因は、3日にアメリカ軍が無人機でイランの国民的英雄であるソレイマニ司令官を殺害したことにありました。このことの報復として8日、イランの革命防衛隊はイラクの米軍基地へミサイル攻撃を行いました。これにより両国間の緊張が著しく高まりましたが、8日夜、トランプ大統領は軍による報復攻撃は行わない方針を示し、武力衝突は免れました。初めからそのような腹積もりであったのかもしれません。しかしその時すでにウクライナ航空機は誤って攻撃されてしまっていたのです。
そもそもなぜ、トランプ大統領はこのような極端な挑発行為を行ったのでしょうか。11月の大統領選を前に自身の指導力や「強いアメリカ」を改めてアピールする狙いがあったのだと考えられます。特に、自身の重要な支持基盤であるキリスト教福音派の支持者をつなぎとめる狙いがあったのではないかという指摘があります。
アメリカの福音派とトランプ大統領
「福音派(英語ではエヴァンジェリカル)」はアメリカの人口のおよそ4分の1を占めるとも言われるアメリカにおける最大の宗教勢力です。福音派は何か特定の教派や教団を指している呼称ではありません。たとえば私たち花巻教会は教派で言うとプロテスタント、教団で言うと日本基督教団に属していますが、福音派はそのような特定の教派や教団・グループを指す言葉ではなく、同じ信仰理解、同じ神学的な立場にある人々の総称です。ですので、その信仰理解にも多様性があり一言で説明することは難しいですが、信仰理解がいわゆる「保守的」であるところにその特徴の一つがあります。対する言葉は「リベラル」ですね。
福音派に属する人々は、聖書の一つひとつの言葉を「文字通り」に受け止める傾向があります。聖書の一つひとつの文言を神の言葉として、文字通りに受け止める信仰をもっていらっしゃるのですね。また、聖霊の働き、聖霊による「再生(ボーン・アゲイン)」の体験をとりわけ重視するという特徴もあります。
そして伝統的な価値観、倫理観を重視する、というのもその特徴の一つです。「古き良きアメリカ」の価値を守ろう、という立場です。このような立場に立つ福音派の人々が現在、アメリカにおける最大の宗教的勢力となっています。
もちろん、人を「保守」か「リベラル」か、「共和党」か「民主党」か、いわゆる「右」か「左」か……など、そのような属性で判断しようとすることには注意が必要です。福音派といっても、一人ひとり、様々な違いあるでしょう。私たちの内面は本来、ひとくくりにすることはできないものです。そのことを踏まえた上で、あえて福音派の傾向や特徴を述べるとしますと、いま言った通りになります。そして共和党およびトランプ政権の主要な支持基盤となっているのが、この福音派に属する人々であるのです。
ただし最近、この関係性に変化が生じてきています。昨年12月、アメリカ福音派の有力紙「クリスチャニティ・トゥデイ」にトランプ大統領の罷免を求める社説が掲載され、大きな話題となりました。重要な支持基盤であったはずの福音派の一部の人々から支持が失われている状況があるようです。ウクライナ疑惑を始めとする権力の乱用、大統領にあるまじき不道徳性は、もはや福音派の信仰に照らし合わせて許容することができない、というのがその主要な理由のようです。伝統的な価値観や倫理観を重視する福音派であるからこそ、トランプ大統領の不道徳性を許容することができない、という面があったのではないでしょうか。
このように福音派の支持者の一部が離れてゆこうとしている中、その支持をつなぎとめようとして行ったのがこの度のイランのソレイマニ司令官の殺害である可能性もあります。トランプ大統領はソレイマニ司令官を殺害した同日、フロリダ州マイアミの教会で福音派の支持者を対象とする集会を行いました。この日の演説の中でトランプ氏はイランの司令官を殺害した成果を改めて強調した上で、《「アメリカ人は神から多くの祝福を受けているが、その中でもっともすばらしいのは世界最強の軍隊に守られていることだ」と述べ、みずからの指導力をアピールし》たとのことです(NHKウェブニュース、2020年1月4日付、https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200104/k10012235181000.html)。不道徳性を非難される中、自身の指導力や強大な軍事力を改めてアピールし、そこに人々の目を向けさせて支持をつなぎ留めるつもりなのかもしれません。
このように、大統領選を控えたトランプ氏が自身への支持をつなぎ留めるために取った行動がこの度の武力行使であるとしたら。そしてその影響で航空機が狙撃され、無関係の多くの市民の命が奪われたのだとしたら――。その罪責は極めて大きいと言えるでしょう。
神の小羊
イランとアメリカの情勢に関連し、アメリカの福音派について少しお話ししました。
改めて、本日の聖書箇所を見てみたいと思います。本日のヨハネによる福音書1章29-34節は、洗礼者ヨハネがイエス・キリストについて証言をしている部分です。洗礼者ヨハネとは、イエス・キリストが公の活動を開始するより前に、ヨルダン川にて「悔い改めの洗礼」を授ける活動をしていた人です。主イエスご自身も、このヨハネからヨルダン川にて洗礼を受けました。ただしこのヨハネの洗礼にはまだ「クリスチャンになる」という意味はありません。
洗礼者ヨハネは、自分の方にイエス・キリストが近づいてこられるのを見て、こう言いました。29-30節《「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。/『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。…」》。
ここでヨハネは主イエスのことを《神の小羊》と形容しています。主イエスこそは、世の罪を取り除く神の小羊である、というのですね。
イエス・キリストは伝統的に小羊で表現されることがあります。スクリーンに映しているのは、神の小羊が描かれたステンドグラスです。十字架の旗をもっていますね。
もう一枚、次は絵を紹介いたします。ヤン・ファン・エイクという画家の絵です(スクリーンの画像を参照)。祭壇画の一部で、ヨハネの黙示録(5章1-14節)のビジョンを絵にしたものです。ヨハネの黙示録5章6節《わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た》。中央の玉座に小羊が立っています。よく見ると、小羊は胸から血を流しています。この描写から、屠られた小羊は特に十字架におかかりになったキリストの象徴であることが分かります。
「小羊」と聞くと、私たちは小さく、か弱いイメージを思い浮かべるのではないでしょうか。神の子、救い主なるイエス・キリストが、ヨハネによる福音書やヨハネの黙示録では、か弱いイメージを伴う小羊で表現されています。力強い救世主像とは真逆のイメージです。
先ほど言及しましたように、トランプ大統領は自身の指導力や「強いアメリカ」をアピールしたいがためにイランの司令官を殺害するということまでしました。そのような、軍事力による「強さ」を誇る在り方とはまったく異なる視点がここにはあります。
最も無力な十字架の主
屠られた小羊――この小羊は十字架におかかりになったイエス・キリストを表しています。主イエスは無実であったのに死罪を言い渡され、十字架に磔にされました。
十字架に磔にされた主イエスはもはやご自分で動くこともできない、無力なお姿になられました。しかし聖書は、この最も無力な十字架の主イエスこそが、神の子であり救い主であると語ります。この主のお姿の内に、神の栄光が現れていると証ししています。
この十字架の主のお姿は、私たちの普段の価値観を逆転させるものです。確かに私たちは普段、ついつい「強いもの」に目が行ってしまいがちです。それは軍事的な強大さのみならず、経済力の強大さに対してもそうでしょう。社会的な地位や、特定の能力の高さも、ある種の「強さ」であるでしょう。そのような「強さ」に頼ろうとしてしまう私たちに、この主のお姿は切実な問いを投げかけています。
「強さ」の論理においては必ず敗者が作り出され、犠牲者が作り出されます。そこからはまことの平和は生まれ得ず、替わりに、憎しみや敵意が生み出されてゆきます。憎しみは憎しみを呼び、報復はさらなる報復を呼びます。私たちは今、この憎しみの連鎖、報復の連鎖を断ち切ってゆくことが求められています。
力は弱さの中でこそ十分に発揮される
新約聖書のパウロの手紙の中に、このような言葉がありました。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》(コリントの信徒への手紙二12章9節)。
パウロはある時、十字架におかかりになった主イエスから語り掛けられるという経験をしたようです。主イエスは十字架におかかりになったお姿で、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とおっしゃいました。
弱さは否定すべきものではない。むしろ、キリストの力が宿るためになくてはならないものだということにパウロは気づかされました。まことの力とは、私たちが弱さを受け入れ、互いに支えあう中で与えられてゆくものなのだ、と。だからむしろ大いに喜んで自分の弱さを誇るのだとパウロは語ります。
《見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ》――。「強さ」が支配しようとするこの状況の中で、今一度、神の小羊なる主のお姿に私たちの心を向けたいと思います。どうぞ私たちが「強さ」の論理を乗り越え、この自分の足元から平和を創り出してゆくことができますように。