2020年10月18日「目標を目指して」
2020年10月18日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章7-21節
「目標を目指して」
体を動かす機会が減り……
新型コロナウイルスの影響によりこの半年、私たちは外出をする機会が減りました。それに伴い、私を含め、多くの人が運動不足になっていることと思います。私ももともと運動不足を自覚しておりましたが、この半年、ますます体を動かす機会が減ってしまいました。健康のためにも、意識的に体を動かさなくては、と改めて思っているところです。
そのような私ではありますが、中学・高校時代は陸上部に所属し、毎日のように走っていました。主な種目は400メートル。短距離の中ではもっとも距離が長い種目です。特に最後の直線100メートルのラストスパートはとても苦しく、ゴールした後は地面に倒れ込んでしまいそうになるほど気力と体力を消耗しました。いま思うと、よくもあんなにしんどい種目を走っていたなと思いますが、当時は私なりに懸命に陸上に打ち込んでいました。
大学生になると陸上は辞めてしまいましたので、もうずいぶん長い間、全力で走ること自体をしていないことになります。大人になると、そもそも日常の生活において、走る機会はほとんどありませんよね。急いでいる時は駆け足になることはあるかもしれませんが、それもそれほど長い距離ではありません。
復活の場面 ~喜びのあまり走り出す
聖書において、登場人物が走っている姿が描かれることはそんなに多くはありません。ただし、「走る」ことと関連して、私がいつも思い起こす場面があります。福音書の中でも特に重要な場面、イエス・キリストが復活した際の場面です。福音書には、イエス・キリストが復活したことを知らされた人々が「走り出す」様子が描かれています。
たとえば、マタイによる福音書は、墓を訪ねたマリアたちが天使から「主が復活したこと」を知らされ、恐れながらも大いに喜んで走り出す姿を描いています。《婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った》(マタイによる福音書28章8節)。復活の知らせを受け、朝の光の中を走ってゆく女性たちの姿が印象的ですよね。
ヨハネによる福音書でもやはり、マリアたちから主の復活の知らせを受けたペトロともう一人の弟子がそれを確かめに、墓へ向かって走ってゆく姿が記されています(ヨハネによる福音書20章2-4節)。
イエス・キリストの復活の場面と「走る」動作が結び合わされていることは、偶然ではないと思います。幼い頃、私たちは嬉しいとき、思わず走り出してしまったことがあったのではないでしょうか。大人になると、そのようなことはなくなってしまいますが、たとえ実際に走り出すことはなくても、私たちは喜びの知らせに接したとき、やはり心が躍動し、走り出してゆくことはあるでしょう。喜びのあまり、また、この喜びを誰かに知らせたくて……。
イエス・キリストの復活の知らせに接した人々は、思わず、走り出してゆきました。喜びのあまり、そしてこの喜びの知らせを一刻も早く人々に知らせたい一心で――。
それまでは、残された人々は、主イエスが十字架刑で殺されてしまったことの悲しみと失意の中にいました。悲しみの中で座り込んでいたその人々の魂が再び起き上がり、走り出したのです。そしてその先に待っていて下さったのが、復活のイエス・キリストご自身でした(マタイによる福音書28章9節)。《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。……》。
このように、人々が「走る」姿は、私の中では聖書の復活の場面と結びついています。
目標を目指して
本日の聖書箇所にも、「走る」ことと関連した言葉が出てきました。フィリピの信徒への手紙3章13-14節《兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、/神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです》。
ここでは具体的に、陸上競技がイメージされているようです。手紙の著者であるパウロはここで、自分たち信仰者の歩みを陸上競技にたとえています。パウロは別の手紙でも陸上競技をたとえとして使っています(コリントの信徒への手紙一9章24-27節)ので、パウロという人は意外と(?)スポーツ好きで、「体育会系」であったのかもしれませんね。
パウロはイエス・キリストについて、人々に教える立場にあった人です。でも自分はまだまだ旅の途中であると思っていたようです。陸上競技でたとえると、ゴールを目指して一生懸命走っている途中。自分もまだ一競技者として、目標を目指して懸命に走っている最中なのだ、というのがパウロの率直な想いであったのでしょう。パウロ自身、自分はまだまだゴールには達していない、と思っていたのですね。
ではパウロにとっての目指すべき目標とは何だったのでしょうか。10-11節にはこのように書かれています。《わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、/何とかして死者の中からの復活に達したいのです》。
ひたむきに走り続けるパウロが一心に見つめているのは、やはり、復活のイエス・キリストであることが分かります。主イエスが死者の中から復活されたように、自分もいつか、死者の中からの復活に達したい――永遠の命に結び合わされたい――との願いが吐露されています。しかしそれまでは、十字架の主に結ばれて、そのお苦しみにも与ってゆくのだ、とのパウロの決意もあわせて述べられています。
大切な人々と共に、復活の主と共に
私たちもまたそれぞれ、人生の旅路を歩んでいます。パウロは自身の旅路を陸上競技にたとえていますが、それはパウロならではの表現でもありますので、みんながみんなパウロと同じようになる必要はないでしょう。必要に応じて休みつつ、ゆっくり、一歩一歩、自分なりのペースで進んでゆけばよいのだと思います。
パウロが本日の聖書箇所において伝えたかったのは、自分たちはまだゴールはしていないし、完全ではないということ。共に、復活というゴールを目指して一生懸命走っているんだ、との想いであったのでしょう。
私たちは独りで走っているのではありません。大切な人々と共に、そして私たちの前におられる復活の主とともに、この命の光の道を進んでいます。
喜びの中で、日々新たに
私たちの肉体は、時と共に、だんだんと衰えてゆくものです。けれども、たとえ体は衰えてゆくとしても、私たちの《内なる人》は衰えてゆくことなく、日々新たにされてゆくとパウロは語っています。《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます》(コリントの信徒への手紙二4章16節)。
喜びに出会う度、私たちの魂は日々新たにされてゆきます。復活の知らせを思い起こすとき、そして私たちの目の前におられる復活の主のお姿に出会うとき、私たちの《内なる人》は新たにされます。復活の知らせを受けて走り出した弟子たちのように、私たちの魂も復活の朝の光の中を、前へ向かって再び走り出してゆくことができるでしょう。
今日はこれからMさんの洗礼式を執り行います。これまでのMさんの歩みを主がいつも共にいて支えて下さり、そして今朝、洗礼式へと導いて下さったことを心より感謝いたします。Mさんがこれから、ご自分の目標に向かって、力強く歩んでゆくことができますよう祈っています。また私たちがこれからも、互いに支えあい祈り合いながら、この旅路を共に歩んでゆくことができますように。