2020年11月15日「預言者を通して語られる神の言葉」
2020年11月15日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:申命記18章15-22節
「預言者を通して語られる神の言葉」
新型コロナウイルスの「第三波」……?
この1週間、全国で新型コロナウイルスの感染が増大しています。昨日は過去最多のPCR検査の陽性者が確認されました。岩手においてもこの1週間で感染判明者が増大しています。「第三波」が到来したとの見方もあるようです。皆さんも不安の中を過ごしていらっしゃることと思います。
これからますます寒さが本格化し、温度の低下や換気の減少などの影響で感染が起きやすくなることも懸念されています。それぞれできる範囲で、改めて感染予防に努めてゆきたいと思います。
「予言」と「預言」
さて、聖書の中には「預言者」と呼ばれる人々が登場します。旧約聖書ではイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者が有名ですね。新約聖書では洗礼者ヨハネも預言者(旧約聖書からの流れを受け継ぐ最後の預言者)として位置づけられています。
耳で聞くと同じですが、若干表記の異なる言葉に「予言者」があります。この「予言」と「預言」を日本語訳聖書では使い分けていますので、少しご説明したいと思います。
「あらかじめ」という表記が冒頭につく「予言」は、「未来をあらかじめ語る」こと意味します。未来を予知する意味での予言ですね。予言と聞きますと、私どもの世代ではノストラダムスの預言をパッと思い浮かべます。
対して、「あずかる」という表記が冒頭につく「預言」は、「言葉を預かる」との意味をもっています。誰の言葉かといいますと、神の言葉です。「神の言葉を預かる人」のことを聖書は預言者と呼んでいるのですね。預言者は未来のことを語ることもありますが、あくまで「神の言葉を預かり、人々に伝える」のが第一の預言者の役割です。
本日の聖書箇所にも預言者が出てきました。本日の聖書箇所では、この先、モーセのような預言者がイスラエルの民に与えられることが告げられています。18節に預言者の役割を端的に表している一文がありますので、改めてお読みしたいと思います。
申命記18章18節《わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう》。
預言者の姿勢 ~神の正義と公正に根ざして
もう少し聖書における預言者についてお話したいと思います。聖書には――特に旧約聖書には預言者たちの様々な言葉が記されています。それらの言葉には共通項があります。一つは、目の前の現実に対する率直なる批判の言葉であった、という点です。
預言者たちは特に、権力者たちに対して、鋭い批判を展開してゆきました。どんな権力をもった相手であっても、たとえ王であっても、腐敗した現実があるのであれば、預言者たちは臆することなく神の言葉を取り次いでゆきました。
この預言者たちの毅然とした姿勢の土台となっているのは、神の正義と公正です。預言者たちは、神さまは不義や不正をけっして見過ごしになさらないことを繰り返し語っています。たとえば、社会的に弱い立場にある人々が不当に扱われたり、ないがしろにされることを、神さまはおゆるしにならない。神さまのこの想いを、神さまに代わって人々に伝えるのが預言者の役割でありました。
旧約聖書の預言者の一人であるアモスは次のような神の言葉を取り次いでいます。《公正を水のように/正義を大河のように/尽きることなく流れさせよ》(アモス書5章24節、聖書協会共同訳)。預言者の姿勢とそれが根ざす精神が端的に表現されている一文であると思います。
先ほど、預言者は未来のことを語ることもある――「予言」をすることもある――ことを述べました。それら言葉は未来を予知する言葉というよりは、目の前の腐敗した現実の当然の結果としてこの先このようになる、との意味で語られた言葉でした(参照:『新共同訳 聖書辞典』「預言者」、キリスト新聞社、1995、590頁)。その意味で、未来を語る言葉であると同時に、やはり目の前にある現実への率直なる批判の言葉であると受け止めることができます。
預言者の信仰 ~神の約束への信頼と希望
預言者たちの言葉には、もう一つ、共通項があります。預言者たちは現実に対する厳しい批判精神をもっていましたが、それだけではなく、信頼と希望の言葉も語っています。それは、神の約束への信頼と希望の言葉です。預言者たちは厳しい裁きの言葉だけはなく、神さまの約束の言葉も人々に取り次ぎました。たとえ困難な現実や不条理な現実が目の前にあったとしても、この先、必ず神の救いの約束が成就してゆくことをも語っているのです。
預言者イザヤは、たとえば、このような希望の約束の言葉を人々に語っています。《エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる》(イザヤ書11章1-5節、新共同訳)。
切り倒された切り株から、この先、一つの《若枝》が育つ。その人が、この世界に神さまの公正と正義を実現し、この世界を平和と和解へ至らせることが語られているのです。キリスト教会は、この《若枝》こそ、救い主イエス・キリストであると受け止めてきました。
イザヤの預言で心に留めておきたいことは、希望を語りつつも、目の前にある現実から目を逸らすことをしないことです。自分たちの目の前には、まるで大樹が切り倒され、切り株だけになってしまったかのような、悲惨な現実がある。イザヤはこの現実を直視することから始めています。イザヤたちが直面していたのは、国家の滅亡、民族の離散という悲劇でした。
しかし、悲惨な現実は悲惨なだけで終わるわけではない。悲惨に思えるその現実のただ中から、きっと希望の芽がもえ出でる。必ず、ひとつの《若枝》が育ってゆくのだ、との希望の言葉が紡ぎ出されています。困難な現実を直視することを通して、その先に、神さまの約束のビジョンを「視る」――旧約聖書の預言者たちはこの信仰の在り方を私たちに伝えてくれています。
預言者の言葉に学びつつ
私たちはいま、教会の暦で降誕前節の中を歩んでいます。聖書の御言葉を学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をしてゆく期間です。本日はご一緒に聖書における預言者の言葉を学びました。神さまの正義と公正に根ざした預言者たちの言葉、そして、神さまの約束への信頼と希望に満ちた預言者たちの言葉は、いまもなお多くのことを私たちに語りかけてくれているのではないでしょうか。
メッセージの冒頭で、いま国内外で新型コロナウイルスの感染が再び拡がっていることを述べました。健康への不安、生活への不安、なかなか先のことが見えないことの不安が私たちの内にあります。困難の中にありますが、そのような中にあるからこそ、神さまの正義と公正に常に立ち還ることを忘れないでいたいと思います。神さまは、弱い立場にある人々が不当に扱われたり、ないがしろにされることをおゆるしにならない。
たとえば、コロナのことで言いますと、感染した人や関係者を追い詰めるような、心ない言葉を発することが決してないよう、改めてその点を配慮したいと思います。人を責める言葉ではなく、互いにいたわり合い、配慮しあう言葉を発してゆきましょう。
またもしも弱い立場にある人が不当に扱われている現状があるのなら、勇気をもってその現状に「否」を唱える姿勢ももってゆきたいものです。いまの私たちの社会は、弱い立場にある人がますます追い詰められていってしまうような、そのような歪みが生じてしまっているのではないでしょうか。本当に支援が必要な人に、支援が行きわたらない。一部の人の利益がまず優先されてしまっている現状があります。
神さまの目に大切な一人ひとりが尊重される社会が少しずつ実現されてゆくことが、神さまの願いであると信じています。
すでに希望の芽はもえ出でている
そしてもう一つ、預言者が私たちに伝えてくれている神さまの約束への信頼と希望を、今一度ご一緒に思い起こしたいと願います。
私たちの目の前にはいま、困難な現実があります。特に、いま新型コロナに感染して入院や自宅療養をしている方、重症化して治療を受けている方、そのご家族、医療に従事している方、また、仕事を失ったり経営が破綻しそうになっている方々は、どれほど大変な状況でいらっしゃることでしょうか。またここに集った皆さんも一人ひとり、それぞれ様々な困難や辛さを抱えつつ、懸命に生活をしていらっしゃることと思います。いま困難の中にある一人ひとりに、神さまからの支えがありますようご一緒に祈りを合わせてゆきましょう。
そして、この困難のただ中にあっても、神さまの約束は消えることはないことをご一緒に信じ、歩んでゆきたいと思います。この大変な状況の中からも、きっと希望の芽がもえ出でる、《若枝》は育ってゆく――いや、すでに、イエス・キリストを通して与えられる希望の芽はもえ出でているのだと信じています。