2020年4月12日「復活の日の朝」

2020412日 花巻教会 イースター礼拝説教・教会学校と合同 

聖書箇所:ヨハネによる福音書20118

復活の日の朝

 

 

 イースター礼拝

 

本日はイエス・キリストが復活したことを記念するイースター礼拝をご一緒におささげしています。2月末から始まった受難節を経て、今朝、私たちはイースターを迎えました。

 

 玄関にイースターガーデンを飾っているのをご覧になられたでしょうか。イエス・キリストが十字架におかかりになったゴルゴタの丘と、イエス・キリストのご遺体が葬られたお墓を再現したものです。3月の教会学校の分級の時間に、教会学校の皆さんに作ってもらいました。イースターを迎えるにあたって、今回お花も新たに植えました。

 

写真の左側の十字架が立っているのが、ゴルゴタの丘です。右奥の大きな石がお墓です。石のふたもちゃんと外されていますね。復活の日の朝、この石のふたが取り除かれていた。そしてお墓の中が空になっていた、と福音書は記しています。

 

 

 

復活の日の朝

 

改めて、本日の物語をご一緒に振り返ってみたいと思います。復活の日の朝、まだ夜明け前の暗い時に、一人の女性がイエス・キリストのお墓に向かっていました。マグダラのマリアという女性です。

 

マリアがお墓に着くと、墓穴をふさぐ石は取り除かれていました。そして、墓の中は空になっていました。主イエスのご遺体が見当たらなくなってしまっていたのです。マリアは途方に暮れ、ポロポロと涙を流します。せめて傷付いた主イエスのお体に油をぬり、丁寧に葬りの儀式をしてさしあげたかったのに、それができなくなってしまった。愛する主のお体が誰かに運び去られてしまった。このときマリアは主イエスの復活について思いは至らず、誰かが主イエスのご遺体を持ち去ってしまったのだと勘違いしたようです。

 

するとお墓の中に二人の天使が現れました。《婦人よ、なぜ泣いているのか13節)、天使たちはマリアに問いかけました。マリアは《わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません》と答えました。

 

 マリアがそう言いながら後ろを振り向くと、誰かが立っているのが見えました。復活されたイエス・キリストご自身でした。ただしその瞬間は、マリアはその方が主イエスであるとは分からなかったようです。主イエスであるとは気づかず、誰かお墓の庭を管理する人だと思った。涙で視界がぼやけ、はっきりとお顔が見えなかったのでしょうか。

 

 主イエスは泣いているマリアに語りかけられます。婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか15節)。後ろに立っているのが庭の管理人だと勘違いしていた彼女は、《あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります》と訴え、また暗い墓穴の方に視線を戻します。

 

 主イエスは復活されたのに、その主イエスがすぐ後ろにいるのに、マリアはそのことにまだ気づいていませんでした。復活について思いは至らず、心の中は失望と悲しみで一杯になっていたのです。

 

 

心の中はまだ受難節のまま……

 

受難節を経て、今日、私たちはイースターを迎えました。喜びの日を迎えました。一方で、私たちの社会はいま、困難の中にあります。新型コロナウイルスの影響が深刻化する中、皆さんも強い不安を抱きながら過ごされていることと思います。都市部では緊急事態宣言も出され、その状況がまずは56日まで続きます。感染の不安を抱きながら生活をする日々。様々なことを休止せざるを得ない日々。このような生活がいつまで続くのか、先が見えない状況があります。緊急事態宣言の対象となっている地域では、教会に行ってイースター礼拝をささげることができず、自宅で祈りをささげている方もたくさんいらっしゃいます。まるでまだ受難節が続いているかのような心境でいる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。一人ひとりの健康と生活が守られますよう、これ以上の短期的な爆発的感染が食い止められるよう切に願うものです。

 

私たちがいま置かれている状況というのは、墓穴の前で涙を流しているマリアと通ずるものがあるのかもしれません。喜びの日であるイースターを迎えたのに、心の中は悲しみや不安で占められている。イースターが訪れたことが実感できず、心の中はまだ受難節のまま……。

 

 

「マリア」

 

復活された主イエスがすぐそばにいることに気づかず、墓穴の前で涙を流すマグダラのマリア。そのマリアに次に起こったこと、それは、マリアが主イエスから自分の名前を呼ばれる、ということでした。《イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である16節)

 

名前を呼ばれた瞬間、マリアは後ろに立っているのは主イエスだと気づきます。マリアはハッと振り返って、「ラボニ(先生)!」と叫びます。

 

たとえ涙で視界がぼやけていても、自分を呼ぶ声が愛する主の声であることをマリアははっきりと気づいたのです。マリアは主イエスが復活されたことを知りました。愛する人が自分の名前を呼ぶ声というのは、私たちの記憶の最も深いところに大切に刻みつけられているものなのかもしれません。

 

復活の主のお顔を見つめるマリアのもとへ、朝の光が差し込みます。眩い光がマリアの全身を包み込んでゆきます。復活の朝の光が――。

 

 

 

一人ひとりの名前を呼んで下さる復活の主

 

 墓穴の前で途方に暮れ、涙を流していたマリア。私たちもまた生きてゆく中で、そのような状況に直面することがあります。困難の中で途方に暮れ、涙を流す他ない状況。いままさに、世界中で多くの人が、そのような状況のただ中にいます。

 

 途方に暮れる私たちのすぐそばで、しかしいま、復活の主は私たちに語りかけて下さっている。私たち一人ひとりの名前を呼んで下さっています。私たちに再び立ち上がる力を与えようとしてくださっています。

 

たとえまだ視界が涙でぼやけ、その喜びを実感できなくても、心はまだ不安や悲しみで一杯であるとしても、主イエスは確かに復活され、いま、私たちと共にいてくださっています。共に涙を流しながら、私たちの名前を呼んで下さっています。イースターを迎えた本日、このことをご一緒に心に刻みたいと思います。

 

 イースターの恵みと喜びがここに集ったお一人お一人と共に、またそして、集うことのできなかったお一人お一人と共にありますように。