2020年4月26日「復活の主との出会い」
2020年4月26日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1-14節
「復活の主との出会い」
復活の主との出会い
私たちはいま、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。いまお読みした聖書箇所は、復活されたイエス・キリストが弟子たちの前に現れる場面です。
舞台はティベリアス湖畔。ティベリアス湖というのはガリラヤ湖の別名です。ガリラヤ湖は福音書に何度も登場する湖で、楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしているのが特徴です。多くの魚が生息しており、当時から漁業もさかんであったようです。スクリーンに映しているのはガリラヤ湖に生息するセント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペトロの魚)という魚です。
主イエスが弟子のペトロたちと初めて出会ったのが、このガリラヤ湖畔でした。有名な山上の説教を語られたのも、この湖に面する丘陵地です。主イエスと弟子たちにとって、最も思い入れのあった場所がこのガリラヤ湖畔であったのかもしれません。主イエスと弟子たちにとって、いわば原点のような場所です。
主イエスが十字架刑で亡くなられてから、弟子たちはいったんエルサレムから故郷のガリラヤに戻っていたようです。そしてその日、弟子たちはガリラヤ湖畔に集まっていました。自分たちの原点であるこの場所に、もう一度皆で集まりたいという思いがあったのでしょうか。
夜になると、リーダーであるペトロは「わたしは漁に行く」と言いました。食べる物を調達する必要があったのです。すると他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と応じました(ヨハネによる福音書21章3節)。ペトロやヨハネたちは主イエスの弟子となる前は漁師として生計を立てていましたので、漁をする腕は確かであったことでしょう。しかしその晩、あいにく魚はまったくとれませんでした。
だんだんと夜が明けてきます。夜通し漁をして疲労困憊していたペトロたちは、朝もやにかすむ岸辺に誰かが立っていることに気が付きました(4節)。一体誰だろう……? 岸辺に立つその人はペトロたちに声をかけてきました。「子どもたち、何か食べるものがありますか?」(5節)。ペトロたちは「ありません」と答えました。もう朝になってしまったのに、一匹も魚がとれていないのです。これではこの後に皆で朝食をとることもできないでしょう。
岸辺に立つその人は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずです」とまた声をかけてきました(6節)。その言葉の通り網を打ってみると、網を引き上げることができないほどの大量の魚がかかりました。
そのとき、一人の弟子が、岸辺に立つ人がどなたであるかに気づきました。「主だ!」。岸辺に立つ方は、イエス・キリストその方でした。ペトロはその言葉を聞き、裸同然であった体に上着をまとって湖に飛び込みました(7節)。一刻も早く、主イエスが立っておられる岸辺まで泳いで行きたいと思ったのでしょうか。他の弟子たちは、大量の魚がかかった網を引いて、舟で岸辺まで戻りました(8節)。
陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。主イエスが朝ご飯の準備をしてくださっていたのです。炭火の上には魚がのせられており、パンもありました(9節)。魚の焼ける匂いが弟子たちの鼻をくすぐります。夜通し漁をしてお腹がペコペコであった弟子たち。思わずお腹がグーッと鳴ってしまった弟子もいたかもしれません。
主イエスは弟子たちに今とった魚を何匹か持ってくるよう頼みます。ペトロが舟に乗り込んで網を引き上げると、153匹もの大きな魚で一杯でした。この153匹という数には、何か象徴的な意味が込められているのでしょう。当時の知られていた魚全種類の数であるという説もあります。弟子たちがこれから先、あまねくすべての人に神の国の福音を伝え、救いをもたらしてゆくことになることがここで暗示されているのだと解釈することもできます。
主イエスは弟子たちに《さあ、来て、朝の食事をしなさい》(12節)とおっしゃいました。主イエスはパンを取って弟子たちに分け与えて下さいました。魚も同じように分け与えて下さいました(13節)。
パンを分け合う聖餐式を思い起こさせる動作ですが、同時にこれは日常的な朝の食事の風景としても受け止めることもできるでしょう。おそらく生前、主イエスは弟子たちとこのようなかたちで、いつも一緒に朝食をとっておられたのではないでしょうか。主イエスと弟子たちの朝の食事の様子を彷彿とさせるような場面です。復活の主が弟子たちと出会ってくださったのはこれでもう三度目である、と福音書は記します(14節)。
日々の生活を共にしてくださる主
さて、本日の聖書箇所をご一緒に振り返ってみました。最後の食事の場面が印象的ですね。主イエスが自ら炭火を起こし、朝食の準備をしてくださっていた。疲労困憊していた弟子たちの心に湧き上がってきた喜びと安心感はいかばかりのものであったことでしょう。そうして弟子たちは主イエスと共に、朝の食事をしたのです。
皆さんも今朝、朝ご飯を食べてこられたことと思います(私は食べないことが多いのですが……ちゃんと食べないといけませんね!)。食事をとる、というのは私たちが生きてゆく上で欠かせないことです。主イエスは私たちが今日必要なものを、ちゃんと備えてくださる。私たちと食卓を共にしてくださる。そうして今日も1日、元気を出して生きるようにと励ましてくださっている、本日はそうご一緒に受け止めたいと思います。
《さあ、来て、朝の食事をしなさい》――復活の主は私たちの日々の生活を共にしてくださり、今日も元気を出して生きるようにと励まして下さっています。
ゴールデンウィークに入りました。しかし、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、この連休は外出を控え、自宅で過ごしている方が多くいらっしゃることと思います。本日も礼拝に来ることができず、ご自宅で祈りをささげている方々がたくさんいらっしゃいます。
皆でまた共に礼拝をささげることができる日が来ることを待ち望みつつ、同時に、私たちの生活の場のただ中に、いつも主は共にいてくださっていることを心に留めたいと思います。
本日の聖書箇所において主イエスが弟子たちと食卓を共にしてくださったように、主イエスは私たちと食卓を共にしてくださっている。復活の主は教会の礼拝においてだけではなく、日々の生活の中で、いつも私たちと出会ってくださっているのだと信じています。
「キリストよ、共にいてください」
さきほどTM2‐23「キリストよ、ともにいて」という賛美歌をギターとピアノで演奏をいたしました。ケルトの伝統的な美しいメロディにのせて、「共なるキリスト」への祈りを謳う曲です。歌詞は教会に受け継がれてきた祈りの一つ、「聖パトリックの祈り」(の一部)を基にしています。
1番はこのような歌詞でした。《キリストよ ともにいて/見守ってください。/前うしろ 内と外/はなれずに いつでも》(日本基督教団讃美歌委員会編『Thuma Mina つかわしてください――世界のさんび2』、日本キリスト教団出版局、2011年、30頁)。
原詞ではこのような詞になっているそうです。《先だってください、後ろにいてください、前にいてください、後ろにいてください、中にいてください、右にいてください、左にいてください》(30頁解説)。より詳細な表現となっています。
「聖パトリックの祈り」を基にした原詞の言葉に少し言葉を足して、祈りの言葉をつくってみました。最後にそれを朗読してメッセージを閉じたいと思います。
キリストよ、共にいてください。
《先立ってください》。明日が見えない中にあって。
《後ろにいてください》。誰一人、取り残されることがないように。
キリストよ、共にいてください。
《前にいてください》。不安と恐れの中にあって。
《後ろにいてください》。誰一人、見失われることがないように。
キリストよ、共にいてください。
《中にいてください》。家の中でも、私たちと共にいてください。
《右にいてください》。私たちのすぐ隣にいてください。
《左にいてください》。誰一人、孤立することのないように。
キリストよ、共にいてください。
私たちの心に平和をお与え下さい。