2020年5月17日「しかし、勇気を出しなさい」

2020517日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:ヨハネによる福音書162533 

しかし、勇気を出しなさい

 

 

 《しかし、勇気を出しなさい》

 

 励まされる聖書の言葉、というと、皆さんならどの聖書の言葉をパッと思い浮かべるでしょうか。読むと励まされる聖書の言葉は、本当にたくさんありますね。いまご一緒にお読みした聖書箇所もその一つであると思います。《しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネによる福音書1633節)。これまでたくさんの人々がこの言葉に励まされ、力づけられてきたことでしょう。

 

 この言葉はもともとは、イエス・キリストが十字架におかかりになる直前、弟子たちに対してお語りになったものです。少し前の部分から改めて引用してみたいと思います。《これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。

 

途中に《あなたがたは世で苦難がある》という言葉がありました。これから弟子たちが様々な苦難を経験するであろうことが、ここであらかじめ告げられているのですね。あなたがたはこれから、様々な大変な経験をするかもしれない。しかし――《しかし、勇気を出しなさい》と主イエスは弟子たちを励ましてくださっています。なぜなら、主イエスは《既に世に勝っている》からです。

 

 

 

周囲からの憎しみにさらされる中で

 

 先週の説教では弟子たちがこの先、周囲からの憎しみにさらされることになると主イエスが予告される部分を取り上げました。弟子たちが経験する苦難とは、具体的には、周囲の人々から憎しみを向けられ、迫害される経験だと言えるでしょう。

 

 先週の説教では愛と憎しみ、ということについてもお話ししました。聖書が語る愛とは、相手の存在を極みまで重んじること。対して、聖書が語る憎しみとは相手の存在を軽んじ、排除しようとすること。この憎しみがエスカレートしてゆくと、遂には相手の存在そのものを否定し、抹殺するにまで至ることがあるとお話ししました。

 

弟子たちはこれから先、そのような激しい憎しみにさらされる経験をしてゆくことになります。そして他でもない主イエスご自身がこの対話の直後に、激しい憎悪にさらされ、十字架刑によって殺されてしまうこととなるのです。まるで主イエスと弟子たちの周囲を深い闇が覆っているような、非常に深刻な状況の中で本日の言葉が語られていることが分かります。

 

恐れにとらわれている弟子たちに対して、主イエスは《しかし、勇気を出しなさい》とお語りになりました。なぜなら、《わたしは既に世に勝っている》。

 いまは憎しみの力が勝っているように見えるかもしれない。しかし、主イエスの愛は、すでに憎しみに勝利している。主イエスの十字架を通して現わされる神さまの愛は、すでにすべてのことに打ち勝っている。そのように主イエスは宣言をしてくださっています。

 

 

 

憎しみの背後にひそむ「ねたみ」の感情

 

 本日の聖書箇所において弟子たちが直面しているのは、自分たちの命が危険にさらされているという、非常に緊迫した状況です。それほど差し迫った状況ではなくても、私たちは周囲から怒りや憎しみを向けられる経験をすることがあるでしょう。自分が軽んじられる経験、というのは誰しもがしたことがあることと思います。そしてそれはひどく心が傷つけられる経験です。

 

仲間外れにされたり、不当に攻撃を受ける経験をすることもあるかもしれません。一部の人からの怒りや憎しみを向けられることは、私たちの心身に著しいダメージを与えます。そうして私たちの内から大切な力を失わせてゆきます。生きてゆく上で欠くことのできない、大切な力が奪われていってしまうのです。

 

 人の心身に深刻なダメージを与える憎しみ。これは一体、どこから生じているものなのでしょうか。

 

マタイによる福音書では、主イエスが迫害され十字架刑に引き渡されたのは周囲の人々の「ねたみ」によるものだった、と記されています。《人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである(マタイによる福音書2718節)

憎しみの背後にあるのは、ねたみ(羨望)――。主イエスを十字架の死に追いやったものの背後にあった一つは、まさしくねたみであったのでしょう。

 

また私たちの身近なところでも、それが当てはまるケースは多くあるかもしれません。誰かを軽んじ傷つけたいという衝動の背後には、ねたみが潜んでいる場合があります。

 

 

 

ねたみは何も良いものを生み出さない

 

 福沢諭吉は人間の素質の中で、良いところがなにもないのが「怨望」だと語ったそうです。作家の大江健三郎さんが子どもたちに向けて書いたエッセイの中で紹介されていました。その部分を引用したいと思います。

 

《たとえば、乱暴な資質の人には――福沢は、粗暴と呼んでいますが――、勇敢な、という良い素質がある。軽薄な人には、利口なところがあるといってもいい――福沢の言葉では、怜悧――というのです。

 しかし、怨望という素質だけは――人をうらやむ、人に嫉妬する、ということですが――、良い素質とつながっていない。なにか良いものを生み出すところがまったくない、といいます。

 いまはほとんど使われることのない、この怨望という言葉ですが、皆さんの頭のすみにしまっておいていただきたい、と思います。そして将来、とても困った人物となにか一緒にしなければならなくなった時、相手にこの言葉とぴったりするところを見つけたら、本気で怒ったり悲しんだりしないことにすればいいのです》(「意地悪のエネルギー」、『「新しい人」の方へ』所収、朝日新聞社、2003年、8586頁)

 

 福沢諭吉が指摘するように、確かに「怨望」(羨望、ねたみ)は本来的に、肯定的な力に変換することができないものなのかもしれません。ねたみは何も良いものを生み出さない。ねたみは怒りや憎しみを引き起こし、相手を陥れようと働くものである。相手の内にある良きものを傷つけ、そして相手から生きる力を奪うようにと働くものである。

 

大江さんは大人の世界の「怨望」に近いものが、子どもが理解できる言葉で言い換えると「意地悪さ」なのではないか、と記しています。そして、もしもあなたに意地悪を言ったりしたりすることを続ける人がいれば、《よし、ぼくは(私は)この人のいったりしたりすることに、本気で怒ったり、悲しんだりはしない》と自分に言えばいい、と子どもたちにアドバイスをしています。とても大切なアドバイスであると思います。

 

 

 

ねたみに無自覚なままでいる危険性

 

私たちの社会で起こっている様々な問題の背後にも、やはりこのねたみが関わっていることが多いことを思わされます。

 

たとえば最近、新型コロナウイルスの影響が広がる中、他者に自粛を強要する人々――いわゆる「自粛警察」と呼ばれる人々が登場していることが話題になりました。営業しているお店のシャッターに苦情を貼り付けたり、SNSを通じて通報すると脅したり。他者に自分の中の「正しさ」を過剰に押し付ける言動の背後にも、やはりねたみが存在しているのではないでしょうか。自分はこんなに我慢しているのに、あの人たちは何なんだ、という感情ですね。そのねたみの感情が激しい怒りや憎しみを引き起こし、相手の足を引っ張り、相手を陥れるようと駆り立ててゆきます。

 

もちろん、多かれ少なかれ、ねたみに類する感情は誰しもの心に生じるものです。ねたみ(羨望)が生じること自体を否定する必要はないでしょう。ねたみから完全に自由な人、というのはいないのではないでしょうか。しかし、ねたみが自分の内に生じているとき、一度立ち止まり、少し離れたところから客観的に心の状態を見つめることはできるでしょう。そうしてねたみが怒りや憎しみに転じて、誰かを傷つけてしまうことを未然に防ぐことはできます。

 

ねたみの感情が生じること自体は特に責めるべき事ではありません。ただし、ねたみは容易に怒りや憎しみに転じてしまいやすいものであり、そして実際に人を傷つける言動となって表出してしまい得るものであることを注意したいものです。ねたみの存在に無自覚なままでいると、時に自分でも気づかない内に自分も他人も深く傷つけてしまっている危険性があります。

 

 

 

主の愛に根ざし、勇気を出して

 

 改めて本日のイエス・キリストの言葉をお読みいたします。《これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。

 

 ただお一人、ねたみから自由であった人。憎しみから自由であった人、それがイエス・キリストです。主イエスの言動は憎しみではなく、愛に根ざしています。そのご生涯と十字架を通して、私たちに神さまの愛を伝え続けて下さっています。私たち一人ひとりの存在を極みまで重んじて下さるのが、神の愛です。

 

先ほど述べましたように、憎しみは私たちの内から生きる力を失わせてゆきます。対して、愛は私たちに生きる力を与えてくれます。私たちの内に生きる勇気を呼び覚ましてくれるものこそ、愛です。主イエスは十字架におかかりになったお姿で、この神さまの愛を私たちに現わし続けて下さっています。

 

主の愛に根ざし、勇気を出して、また今日という日をご一緒に歩んでゆきたいと願います。