2020年9月13日「御子イエス・キリストの内に」
2020年9月13日 花巻教会 聖霊降臨節第16主日礼拝
聖書箇所:ヨハネの手紙一5章10-21節
「御子イエス・キリストの内に」
アメリカ同時多発テロから19年
先週の前半はまた真夏のような暑さとなりました。特に火曜日は大変暑く、県内各地で猛暑日となりました。ようやくこの数日、暑さが和らいできましたが、皆さんはお身体の調子はいかがでしょうか。
暑さが和らいできた一方で、各地で大雨が発生しています。皆さんもお車での運転、また河川の増水や土砂災害にはくれぐれもお気を付けください。
一昨日9月11日、アメリカ同時多発テロから19年を迎えました。2001年9月11日、アメリカのニューヨークで、アルカイダという国際テロ組織による同時多発テロ事件が起こりました。アルカイダのメンバーが乗っ取った飛行機2機がニューヨークの世界貿易センタービルに衝突、ビルの中にいた二千九百数十名もの人が亡くなりました。世界貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像、ビルが崩れ落ちる映像を皆さんも鮮明に記憶しておられることと思います。
この9・11の出来事を受けて、同年、アフガニスタン戦争が起こり、2年後の2003年にはイラク戦争が勃発してゆきました。共和党のブッシュ大統領(当時)は、自国アメリカを「悪を滅ぼす十字軍」のリーダーと宣言。イラクへの侵攻開始に際しては、スピーチの最期に「神のご加護があらんことを」と祈りました。キリスト教の「神」の名のもとに、戦争が開始されてゆきました。
イラク戦争による民間人死者数はある統計では10数万人、別の統計では50~60万人以上になるとも言われています。アメリカを中心とする有志連合軍による攻撃によって、イラク国内の多くの人々の尊い命が奪われました。
当然ながら、イスラム過激化組織によるテロ行為は許すことはできないものです。けれども、その報復として何十倍、何百倍もの暴力を振るい続けた有志連合軍の行為も決して許すことのできないものです。
また、アメリカ軍が使った劣化ウラン弾などの有害兵器の環境汚染により、イラクではいまも多くの子どもたちの命と健康が傷つけられ続けている現状があります。
イラクとの戦争を開始するにあたって、アメリカ政府は大量破壊兵器の存在をその主要な理由としました。しかし、皆さんもご存じの通り、実際には大量破壊兵器は実際には存在しなかったし、「アルカイダ」とのつながりもなかったということがその後明らかになりました。虚偽のもとに始まった戦争であったわけですが、当時の小泉政権はアメリカの武力攻撃に対する全面的な支持を表明していました。そしてイラク特措法を制定し、自衛隊を現地に派遣することもしました。これら日本政府の一連の対応について、いまだ本格的な検証は行われていないままです。
「二分法的」なものの見方と信仰理解
ブッシュ元大統領は熱心なクリスチャンでした。ブッシュ氏の有力なブレーンもクリスチャン、ブッシュ氏を支持する有力な母体となっていたのも一部のキリスト教会であったと言われています。その意味において、イラク戦争におけるキリスト教会の責任ということも私たちは受け止め、検証してゆく必要があるではないでしょうか。
キリスト教の特徴の一つは、非常に多様性があることです。同じキリスト教でも、教派によって、また個々人によって、ずいぶんと考え方が異なります。いわゆる「右」から「左」まで、さまざまな考えをもった人がおり、それぞれ大切にしたいことの強調点も異なっています。
ブッシュ氏らは、どのような信仰理解を持っていたのでしょうか。その言動から垣間見えてくることの一つは、「二分法的な」信仰理解です。
まず「二分法的」という言葉について説明したいと思います。少し分かりづらい言葉ですが、ものごとを白か黒か、全か無か、など二分して捉える見方のことを言います。白か黒か、0か100かなど、両極端にものごとを捉えるところが特徴です。対人関係で言いますと、あの人は「味方」、あの人は「敵」という風に二分して認識する傾向があります。「あの人は欠点もあるけれど、良いところもある」という風な見方にはならないわけですね。あくまで人を「敵」「味方」にはっきりと分けます。
このような「二分法的な」ものの見方に基づいて、ブッシュ氏らは聖書を受け止めていたのではないかと考えられます。神は人を二通りに造られた。一方は「善人」、もう一方は「悪人」。一方は「救われる者」、もう一方は「滅ぶべき者」……。そのように、信仰に基づいて他者を二つのグループに分ける捉え方をしていたのではないかと思われます。そしてこの信仰理解において大前提となっているのは、そう言っている自分たちは「善人」の側であり、「救われる者」の側に立っている点です。
このような両極端なものの見方および信仰理解は、私たちにとって分かりやすいものであると同時に、時に危ういものとなる可能性をもっています。排他的になってしまう可能性、独善的になってしまう可能性があるのです。そもそも、人を「善人」「悪人」と二分することはできるものなのでしょうか。また、私たちがあの人は「救われる者」、あの人は「滅ぶべき者」と判断できるものでしょうか。いや、それができるのは神さまだけでありましょう。私たち人間にはそもそも判断自体が不可能なことです。
9・11以降、ブッシュ元大統領は「二分法的な」、両極端な信仰理解に基づいて、自分たちアメリカは「善」、敵対する勢力は「悪」であると見做してゆきました。自分たちアメリカは「悪」を一掃するために神によって選ばれた「神の国」なのだという認識さえ持っていたようです(参照:栗林輝夫氏『ブッシュの「神」と「神の国」アメリカ』、日本キリスト教団出版局、2003年)。
先ほど述べましたように、二分法的なものの見方においては「敵」「味方」がはっきりと分けられます。これが信仰と結びつくと、自分と同じ神を信じている人々は、「味方」、その他の人々は「敵」というふうに認識してしまう危険性があります。そうして始められたイラク戦争が、無関係の人々に、どれほどの惨禍をもたらしたかは先に述べた通りです。
二分法的なものの見方をしているという点においては、9・11を引き起こした国際テロ組織アルカイダも同様です。彼らもまた、自分たちの立場を絶対化し、自分たちに味方しない者たちはすべて「敵」だと見做していたのでしょう。同じ世界観を共有している点においては、ブッシュ元大統領とアルカイダは似ているということもできるかもしれません。
現在、こうした世界観に共鳴する人々が世界的に増えてきています。いまも自らISなどの過激派組織に身を投じようとする若者が後を絶たないようです。
時に自ら「二分法的な」ものの見方に身を投じてしまう私たち
私たちの日本の社会においても、たとえばネット上において、二分法的な言説があふれている現状があります。自分の意見に賛同・共感してくれる人は「味方(いい人)」、自分の意見に賛同してくれない人は「敵(悪い人)」だと決めつけてしまう。また、それまで「味方」とみなし賞賛していた相手に対しても、自分の思い通りの言動を返してくれなかった途端、全否定し「敵」とみなしてしまう。そうして一度「敵」だと決めつけた相手とは、対話すること自体を拒絶してしまう。そのような傾向がより顕著になってきているように思います。
私たちは幼い頃はみな、このような「二分法的な」ものの見方をしていたのではないでしょうか。しかしさまざまな経験を積んでゆくなかで、この世界は様々な要素が複雑にからみあって成り立っていることを知らされてゆきます。物事は簡単に白と黒では割り切ることはできないことを知らされ、少しずつ自らを相対化することをも学んでゆきます。二分法的なものごとの見方というのは、このように成熟を続けてゆくことを私たちが自ら拒否することから生じるものでもあると思います。私たち自身、時に自ら二分法的なものの見方に身を投じてしまうことがあるのではないでしょうか。
理由の一つとして、それほどまでに私たちが直面している現実が辛いものである、ということがあるかもしれません。目の前の現実が辛すぎる、また、自分自身が抱えているものが重すぎるように感じる。ですので、じっくりと腰を据えて目の前の現実や他者に、そして自分自身に向かい合うための余裕がそもそも残っていないのです。確かに、複雑なものに向かい合うということは忍耐を必要としますし、めんどうだし、時に自分にとって辛い作業となります。見たくない現実に向かい合わなければならない場合があるからです。
いま私たちの社会が、白か黒か敵か味方かなどの両極端なものごとの見方をする傾向が強まっているのだとしたら、それは極端なものの見方にとどまることを選択せざるを得ないほど、痛みや生きづらさを抱えている人が増えていることの表れだと受け止めることができるかもしれません。
御子イエス・キリストの内に ~あるがままにいま
本日はアメリカ同時多発テロについて、二分法的なものの見方および信仰理解についてお話をしてきました。
本日の聖書箇所であるヨハネの手紙一も、二分法的な信仰理解が含まれていることが指摘されている書です。読んでみて、ものごとをはっきり二つに分ける傾向が強い文章であることをお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。たとえば、《御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません》(5章12節)、《わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです》(5章19節)などの文章には、はっきりと二分法的なものの見方が認められます。聖書の本文自体に、二分法的なものの見方が含まれていることを私たちは受け止める必要があるでしょう。
ヨハネの手紙一がこのような二分法的な表現を用いているのは、ヨハネの教会が当時、それほどまでに厳しい現実に直面していたことも関係しているでしょう。以前お話したことがありましたが、キリスト教が誕生して間もない頃、その固有性を守るため、初代のキリスト者たちは厳しい姿勢に徹し続けました。そのような時代背景を受け止めた上で、現代に生きる私たちはこれらの二分法的な聖書の表現をただ文字通りに受け止めるのにとどまるのではなく、より成熟した聖書の受け止め方、私たちの在り方を目指してゆくことが求められています。
本日の聖書箇所の最後では、こう語られています。ヨハネの手紙一を締めくくる言葉です。《わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です》(20節)。
誰が「敵」か「味方」か、誰が「救われるか」「救われないか」に目を向けるのではなく、他ならぬ、この「わたし」が御子イエス・キリストの内にいる。外ならぬこの自分自身がいま、真実の神、永遠の命に結ばれている。この大いなる愛と恵みに目を向けることが大切であることを本日はご一緒に受け止めたいと思います。
たとえ私たち自身が痛みや生きづらさのゆえに、自分や他者に対して両極端なものの見方をしてしまっていても。神さまはそのような私たちを――痛みも、生きづらさも、そのすべてを――受け止め、あるがままにいま、愛する神の子たちとしてくださっています。
神さまの目に、「善人」も「悪人」もありません。「敵」も「味方」もありません。神さまの前では一人ひとりが、かけがえのない、決して失われてはならない大切な存在であるのだと信じています。