2021年10月10日「神に由来する権威」

20211010日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:ローマの信徒への手紙13110

神に由来する権威

 

 

各地で強い地震

 

この1週間、各地で地震が相次ぎました。6日には岩手県沖を震源とする地震がありました。青森県階上町では震度5強を観測しました。人々が寝静まった深夜での突然の揺れ。皆さんも驚いて目を覚まされたのではないでしょうか。

7日には千葉県北西部を震源とする強い地震がありました。埼玉県の一部地域や東京都足立区では震度5強を観測。交通や電気・水道等のライフラインにも様々な影響が出ました。

今後もいつ大きな地震があるか分からない状況です。改めてご一緒に防災の意識を高めてゆきたいと思います。

 

 

 

「皇帝のものは皇帝に」

 

先ほどお読みいただいたマタイによる福音書221522節の中に、《皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい21節)というイエス・キリストの言葉が記されていました。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(口語訳聖書)の表現でも知られている箇所です。カイザルとは、ローマ皇帝のことです。

 

「皇帝のものは皇帝に」。この言葉はことわざのように、「物事を、ふわさしいところに戻す」意味で用いられることがあります。日常生活の中で使用されることのある聖書の言葉の一つですね。この言葉はさまざまな解釈が可能であると思いますが、まずはこの言葉がどのような状況の中で語られたものであったのかをご一緒に確認したいと思います。

 

 

 

ローマ皇帝への納税の問題

 

物語は、ファリサイ派の人々が主イエスの言葉じりをとらえて罠にかけようと相談するところから始まります15節)。相談の結果、彼らはその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に主イエスのところに遣わして、主イエスを試すために次のように尋ねさせることにしました。先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。/ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか1617節)

 

 最後のところで問題にされている「税金」とは、ローマ皇帝に納める税金のことを指しています。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はイスラエルの人々に対して人口調査を実施し、町によっては登録された者のすべてに人頭税と呼ばれる税金を課していました。所得に関係なくすべての人に一律に課されるこの税金はイスラエルの人々に大きな負担を強いるものでした。

この課税は経済的な負担のみならず、イスラエルの人々に精神的な負担を与えるものでもありました。税を納める度ごとに、自分たちがローマ帝国に支配下にあることを思い起こさずにはおられなかったからです。

 

またそして、イスラエルの人々が特に耐えがたく感じていたことに、当時のローマ皇帝が自らを「神」とし崇拝することを人々に求めていたことがありました。皇帝を崇拝することは、イスラエルの人々にとっては、「神ならぬものを神とし、礼拝する」最も重い罪、偶像礼拝の罪に当たりました(十戒第一戒、第二戒参照)。イスラエルの人々の中には、ローマ皇帝の支配下にあることは偶像崇拝につながるとして、深く憂慮していた人も多数いたようです。

 

 

 

適切な答えを言うのが難しい問い

 

 本日の物語に出てくるファリサイ派の人々は、皇帝への納税を信仰の問題として捉え、税を納めることに関しては否定的な立場を取っていました。本日の物語で出てくるもう一つのグループ、ヘロデ派はむしろこれを政治的な問題として捉えていたようです。生き残るためにはローマ皇帝への従順が必要であるとし、税を納めることを容認する考え方であったようなのですね。

本日の物語ではこの両者が結託し、主イエスを罠にかけるために先ほどの問いを投げかけたのです。《お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか17節)

 

 もしも主イエスがローマ皇帝への人頭税を「納めるべきではない」と言ったら、ローマに対する反抗を企てる者として告発するつもりであったのでしょう。あるいは、もしも主イエスが「納めるべきだ」と言ったら、イスラエル民族としての誇りを失いローマ皇帝に従順である者として厳しく批判するつもりであったのでしょう。

 

 いずれにせよ、どちらの返事をしても主イエスにとっては不利な結果となることが予想されます。適切な答えを言うのが難しい問いというのは、私たちの社会にもあるものですよね。何が正解であるのかが分からない事柄、あるいは正解がない事柄はいまの私たちの社会にもあります。「イエス」と答えても「ノー」と答えても、何らかの課題や問題が残ってしまう事柄があります。言葉じりをとらえようと思えば、いくらでもとらえることができるでしょう。当時のイスラエルの社会においては、ローマ帝国への納税の問題がそのような難しい議題の一つであったのですね。当時の人々にとっても、できるなら普段の生活の中では話題にするのを避けたい議題であったのかもしれません。しかしここでファリサイ派とヘロデ派の人々は主イエスを窮地に陥れるのにうってつけのものとしてこの話題をあえて主イエスに投げかけることをしたのです。

 

 

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

 

 主イエスは、ファリサイ派とヘロデ派の人々が悪意をもってこの問いを投げかけてきたことを見抜いておられました。その上で、次のようにおっしゃいました。1819節《偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。/税金に納めるお金を見せなさい》。

 

「イエス」か「ノー」かの返事を期待していたファリサイ派とヘロデ派の人々は意外に思ったのではないでしょうか。不可思議に思いながらも、彼らは主イエスが指示された通り、税として納めるデナリオン銀貨を持ってきました。

デナリオン銀貨はローマ帝国で使用されていた貨幣です。当時のコインの表面には皇帝ティベリウスの肖像と、「神であるアウグストゥスの子、ティベリウス・カエサル・アウグストゥス」の言葉が刻んでありました。「皇帝は神である」ことが貨幣にも記されてあったのですね。

 

1922節《彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、/イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。/彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」/彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った》。

主イエスは彼らが持って来たデナリオン銀貨を指して、「これは、誰の肖像と銘か」と言われました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスはおっしゃいました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。彼らはこの主イエスの答えを聞いて驚き、その場から立ち去ってしまいました。

 

 

 

私たちは神さまのもの

 

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》。ここでの《皇帝のもの》とは、ローマの貨幣のことを意味しています。ローマ貨幣には皇帝の「像」が刻まれている。つまりローマ貨幣は皇帝のものであるのだから、それは皇帝に返したらよい。主イエスはここで機転を利かせ、あるいはある種の皮肉をもって、そのようにお答えになったことが分かります。

 ファリサイ派の人々が問うたのは「ローマ皇帝に税金を納めるべきか、納めるべきではないか」でした。主イエスは実際のローマ貨幣を手に取り、そこに皇帝の肖像と銘があることを確認させ、「皇帝のものである貨幣は、皇帝のもとへ返すべき」という話へと意図的に移行させたのです。

 

 ただし、ここで重要なのは、むしろその後に続く後半部です。《皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》。加えて言及されている《神のもの》とは、何でしょうか。色々な解釈が可能であると思いますが、本日は、私たち人間のことを指していると受け止めたいと思います。私たちはみな、神さまのもの――主イエスはここでそのことをお語りになっているのだとご一緒に受け止めたいと思います。

前半部の答えだけだと、ファリサイ派の人々はその機転の利いた回答に驚きはしたとしても、そのまま引き下がることはしなかったのではないでしょうか。彼らは納税問題を信仰に関わる事柄として捉えていたからです。主イエスはそのことを踏まえ、信仰の問題としてもご自身の考えを述べられました。

 

「ローマ貨幣は皇帝のもの、私たち人間は神さまのもの」――。私たちは神さまのものであるのだから、他のどんな権力も私たちを支配することはゆるされない。主イエスはそのように信仰の観点からもお答えになったことが分かります。ファリサイ派の人々はローマ皇帝への偶像礼拝を懸念していましたが、主イエスもまたここで、ローマ皇帝の権威をしりぞけておられるのです。

「ローマ貨幣は皇帝のもの、私たち人間は神さまのもの」――。予想だにしない方向から、しかも本質的な答えが返って来て、ファリサイ派とヘロデ派の人々も驚きの中で、ただ黙って引き下がるほかなかったのではないでしょうか。

 

 

 

神の「像」が刻まれた私たち

 

創世記の第1章には、《神は御自分にかたどって人を創造された127節)と記されています。神さまご自身の「像」が、私たち人間には刻まれているというのですね。ローマの貨幣にはローマ皇帝の「像」が刻まれていました。しかし、私たち人間には、神さまご自身の像が刻まれています。主イエスがデナリオン銀貨を手に《皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》とおっしゃったとき、おそらくこの創世記の人間の誕生の場面を思い起こしていらっしゃったのではないかと思います。

 

私たちは神さまのもの。私たちを創られた神さまのもの。他の何ものも、私たちを支配することはゆるされない。王であっても皇帝であっても、私たちを支配することはゆるされない。そしてその根拠は、私たち一人ひとりに神さまの像が刻まれていることである、と。

 

 

 

まことの権威は神さまお一人にある

 

説教の冒頭でローマの信徒への手紙13110節をお読みしました。1節に次の言葉がありました。《人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです》。

 

権力者への従順を教えるこの箇所は受け止め方が難しい箇所です。著者であるパウロがどのような状況でこのようなことを手紙に書いたのは後世の私たちにははっきりとは分かりません。文脈から切り離して用いることに注意が必要な箇所だと言えるでしょう。詳しい説明は時間の関係上本日はできませんが、「権威とは本来、神に由来するもの」であることを心に留めたいと思います。社会的に権威をもつ立場の人も、あくまで神さまから委託を受けているに過ぎず、まことの権威は神さまお一人にあるのです。

 

それは言い換えれば、「人が人を支配することを認めない」という考え方です。ローマ皇帝であっても、王であっても、大祭司であっても、人が人を支配することはゆるされない。まことの権威者は神お一人であるからです(参照:上村 静氏『旧約聖書と新約聖書――「聖書」とはなにか』、新教出版社、2011年、67頁)。この考え方は聖書全体を貫いているものです。

 

 

私たちはさまざまな場面で、他者を支配とコントロール下に置こうとする力と出会うことがあります。他者を所有し、支配しようとする否定的な力と出会うことがあります。そのような中、私たちは神さまのものであり、他のどんなものも私たちを支配することはゆるされないこと、一人ひとりが神の像が刻まれたかけがえのない存在であること、その真理を今一度ご一緒に心に留めたいと思います。