2021年10月24日「人の創造」

20211024日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:創世記24節(後半)~9節、1525

人の創造

 

 

 

降誕前節

本日から教会の暦で「降誕前節」に入ります。聖書の御言葉を学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をしてゆく期間です。今年は1128日(日)からアドベント(待降節)に入ります。クリスマス礼拝は1219日(日)を予定しています。気が付けばもうクリスマスに向けて準備をする時期、早いものですね。

 

 先週は上空に流れ込む寒気の影響で、肌寒い1週間となりました。岩手山も雪化粧をし始めていますね。教会の会堂も、例年より早く床暖を付けました。皆さんもどうぞお体にはくれぐれもお気を付けください。

 

 新型コロナウイルスの感染者数は県内では13日連続ゼロが続いています。東京都内の感染者数も7日連続で50人を下回っているとのことです。この状況を受け、長らく中断・制限を余儀なくされていた様々な活動が再開され始めています。花巻教会でも本日は久しぶりに賛美歌を全節歌うことにいたしました。一時的にではありますが、これまでの日常が取り戻されつつあります。またそして、状況が落ち着いているいまだからこそ、これまでの対応を振り返り、改善すべきところは改善してゆくことが求められているように思います。

 

 一方、イギリスでは感染が再拡大しているとの報道もあります。感染者数増減のメカニズムはいまだ不明な部分が多いですが、国立感染症研究所発表の最新の資料では、感染の波と変異株の拡大・収束とがかなり密接に連動していることが示されているそうです。この発表を踏まえ、ある医師の方は、《一つの有力株がひとつの波を形成する》のではないかと分析しておられました。そしてその波はおよそ2か月で拡大し、その後2か月かけて収束するのではないか、と(森田洋之/一つの株が一つの波を形成する - 南日本ヘルスリサーチラボ mnhrl.comより)。もちろん、感染者数の増減にはその他にも様々な要因が関わっているでしょう。冬になるとまた何らかの感染の波は生じるのでしょうが、この先発生するであろう新たな変異株が猛威を振るうことなく、少しずつでもこの状況が沈静化へと向かってゆきますよう切に願うものです。また、私たち自身も過度に不安になるのではなく、心落ち着けて、目の前の状況に向かい合ってゆけたらと思います。

いま療養中の方々の上に主の癒しがありますように、困難の中にある方々の上に主の支えがありますように祈りつつ、御子のご降誕に向けて準備をしてゆきたいと思います。

 

 

 

人の創造 ~二つの人間観

 

 説教の冒頭で、創世記249節、1525節をお読みしました。アダムとエバが神によって創造される場面です。とても有名な場面ですね。前半の249節ではまずアダムが創造される場面が描かれています。《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった7節)

 

印象的なのは、土(アダマ)の塵から人(アダム)が形づくられるところですね。その鼻に命を息を吹き入れられることによって、アダムは生きる者となりました。このアダムの誕生の後、彼のあばら骨からエバが創造される場面が続きます2123節)。このアダムとエバの誕生物語の特徴は、私たち人間があくまで神によって創られたもの=被造物であることを強調する点です。

ちなみに、ここでの「アダム」は人の名前ではありません。「人(人類)」の意味でこの語は使われています。

 

このアダムとエバの物語の前に、もう一つ、人の創造の場面があります。創世記22627節です。面白いことに、創世記には二通りの人間の創造の場面が記されているのですね。このもう一つの人の創造の場面で印象的なのは、神にかたどって、神に似たものとして人がつくられるところです。《神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。男と女に創造された127節)

 

もちろん、これらの記述は現代の科学の視点からすると事実とは言えない部分があるでしょう。現代に生きる私たちはこれらの記述を、事実をそのまま描写したものとして受け止めるのではなく、古代イスラエルの人々の人間観(人間をどのように捉えているか)が表現されたものとして受け止めることがふさわしいでしょう。

 

 その視点で創世記の二つの人の創造の場面を受け止めてみて興味深いことは、それぞれが異なった人間観を提示していることです。「人は神によって創られた」という点は共通していますが、人間の理解の仕方はそれぞれ異なっているのです。

 

 

 

私たちは「神によって生かされている」存在である

 

 本日の聖書個所であるアダムの創造の場面においては、私たち人間はあくまで被造物であること、「神によって生かされている」存在であることが強調されていると受け止めることができます。私たちは神によって創られた存在であって、私たち自身は神ではない。この創造の場面は、私たちに謙虚さを教えてくれるものではないでしょうか。人が土の塵から創られる描写からも、神の前での謙虚さを決して忘れてはならない、との古代イスラエルの人々のメッセージを読み取ることができます。

 

 

 

私たちは「神の目に貴い」存在である

 

 対して、人が神の似姿として創造される場面においては、私たちは神に似たものとして創られた存在であること、すなわち、それほど「神の目に貴い」存在であることが強調されていると受け止めることができます。私たちは神の目に価高く貴い(イザヤ書434節)存在であって、決して軽んじられてよい存在ではない。このもう一つの創造の場面は、私たちに自尊心を持つことの大切さを教えてくれています。

 

 

 

謙虚さも自尊心もどちらも大切なもの

 

《土の塵》から造られた存在として人を捉える視点も、《神の似姿》として造られた存在として人を捉える視点も、どちらも大切なものですね。私たちにとっては、謙虚さも自尊心も大切です。どちからが欠けても、バランスが崩れてしまいます。双方の人間観も必要なものなので、創世記ではこの視点の異なる二つの創造場面をあえてそのままに保存しているのかもしれません。

 

気が付けば高慢になってしまっている私たち。他の人よりも――時に神さまよりも(!?)――自分を高く位置づけようとしてしまうこともあるでしょう。そのようなとき、私たちは《土の塵》としての自分を思い起こすことが必要です。神さまの愛と恵みに「生かされている」者としての謙虚さを取り戻すことが大切であるでしょう。

 

一方で、私たちは気が付けば自分を過度に卑下してしまうこともあります。他の人よりも自分を低く位置づけ、時に自分は何の価値もない存在であるかのように思ってしまうこともあります。そのようなとき、私たちは《神の似姿》としての自分を思い起こす必要があるでしょう。私たち人間は神さまに「似たもの」として造られたこと、それほどまでに大切な存在であること。神さまの目に「価高く貴い」者としての自尊心を取り戻すことが大切であるでしょう。

 

神さまに生かされている存在としての謙虚さ。神さまの目に貴い存在としての自尊心。この謙虚さと自分を尊ぶ心の両方が育まれる中で、私たちは身の丈以上でも以下でもない、等身大(あるがまま)の自分であることができるようになってゆくのだと思います。

 

 

 

対等なパートナーとして

 

 本日の聖書個所の後半部である創世記21525節についても述べておきたいと思います。エバが創造される場面です。《主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。/そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた22122節)

 

「アダムのあばら骨から女性が造られた」という表現に、女性を下に見る意識があるのではないかとの指摘があります。このような表現に違和感を覚える方も多くいらっしゃることと思います。

聖書の中には確かに、男性優位な視点から書かれている表現が多くあります。たとえば旧約聖書の律法の中には、男性中心的・男性優位的な掟が数多く見出されることでしょう。新約聖書のパウロの手紙の中にも、男性中心的であると批判されている言葉があります。聖書の表現の中には男性優位的な文言が数多くあるということは、受け入れねばならないはっきりとした事実です。

 

一方で、聖書の中には男性と女性の平等を伝える文言もあります。本日の創世記の場面でいうと、アダムのあばら骨からエバがつくられる直前に、次のような記述があります。《主なる神は言われた。/「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」218節)

 《彼に合う助ける者》と訳されている語は、原文のヘブライ語では、「彼に向き合う助ける者」という意味です。「向かい合う者」という言葉が使われているところに注目したいと思います。この表現から、対等なパートナーとして女性が造られたことを読み取ることができるからです。創世記のこの箇所に限っては言えば、男性と女性の「平等」を伝えることを意識して書かれていると解釈することができるでしょう。

 

 

 

互いに等身大の自分であること

 

 対等な関係性が重要であることは、恋人や夫婦の関係においてだけではありません。私たちの人間関係において、対等な関係であることは、最も基本的かつ重要な事柄の一つです。そしてそのように対等な存在として向かい合う上で大切となってくるのが、お互いに等身大の自分であることです。

 自分が相手よりも高い位置で見下ろしていても、相手より低い位置で見上げていても、それは対等な関係性にはなりません。相手が自分より高い位置にいても、相手が自分より低い位置にいても、対等な関係性にはなりません。上下の関係があるところには、主従関係や、支配とコントロールの関係性もまた生じやすいものです。そうではなく、神に造られたあるがままの「わたし」として、互いに向かい合っていることが大切です。

 

 そのためにも求められるのが、神さまに生かされている存在としての謙虚さと、神さまの目に大切な存在としての自分を尊ぶ心ではないでしょうか。この謙虚さと自尊心の両方を持ち、互いに等身大の自分であることで、私たちは他者との対等な関係性を築いてゆくことができるようになってゆくのだと思います。少しずつ、互いを対等な存在として重んじてゆくことが出来るようになってゆくのだと思います。

 

 

 

「向き合う助ける者」として、共にいてくださる主

 

 本日から教会の暦で降誕前節の中を歩んでゆきます。聖書は、神さまが私たち一人ひとりにいつも対等に向き合ってくださる存在を与えて下さったことを伝えています。それが、イエス・キリストその方です。

 主イエスは「向き合う助ける者」として、いつも私たちと共にいてくださいます。私たちを支配とコントロールから解き放ち、私たちに神さまからの尊厳を取り戻すため、いつも働いてくださっています。そうして、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)と語り続けて下さっています。

 

 

私たちがまことの謙虚さと自分を尊ぶ心を育んでゆくことができますよう、主が私たちを重んじて下さっているように、私たちも互いを重んじてゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。