2021年11月21日「主は心によって見る」

20211121日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書101731節、テモテへの手紙一11217節、サムエル記上16113

主は心によって見る

 

 

謝恩日、収穫感謝日

 

明後日は日本の祝日では勤労感謝の日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は本日を「謝恩日」とし、牧師を引退された先生方のお働きを感謝する日としています。また、その感謝の思いを具体的に謝恩日献金というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えすることもしています。謝恩日献金は現職の牧師の隠退後の生活を支えるためにも用いられます。お祈りに覚えて、おささげいただければ幸いです。

 

また本日は、神さまから与えられた収穫の恵みを感謝する「収穫感謝日」としても定められています。教会によっては秋の収穫物を講壇の前に並べ、礼拝をささげるところもあります。先ほどはご一緒に収穫感謝の讃美歌「刈り入れの主を」(讃美歌21387番)を歌いました。《刈り入れの主を ほめたたえよ。/ハレルヤ歌え、声の限り。/四季折々の 恵みおもい、/よろこび歌え、実りの主を》。神さまの恵みによって、私たちの命と生活とが日々支えられていることへの感謝の想いをご一緒に新たにしたいと思います。

 

 

 

サムエル記

 

冒頭で、ご一緒に旧約聖書のサムエル記16章をお読みしました。サムエル記は普段なかなか読む機会がないかもしれませんが、旧約聖書の中のいわゆる「歴史書」の一つです。それまで王さまがいなかったイスラエルに、遂に王が立てられ、中央集権としての王朝がつくられてゆく過程を描く書です。

 

タイトルは、イスラエルの指導者サムエルからとられています。サムエルは最後の士師(英語では『judge(裁き人)』)であり、同時に、預言者となった人物です。幼いサムエルが神の呼びかけに耳を澄ませている「幼きサムエル」の絵はよく知られているものですね(ジョシュア・レイノルズ画、1776年、ファーブル美術館蔵)

 

私たちがもっている聖書では、サムエル記は上巻と下巻に分かれています。内容として第一部から第六部にまで分かれています(参照:W・ブルッゲマン『現代聖書注解 サムエル記上』、中村信博訳、日本キリスト教団出版局、2015年)。先ほどお読みしました16113節は、第三部のはじまりに位置する箇所です。第三部はのちにイスラエルの王となるダビデが登場する、物語の中でも重要な部分です。

 

 

 

メシア ~油注がれた者

 

改めて、サムエル記上16113節を見てみたいと思います。その日、サムエルはサウル王に替わって新しく王となる人物に油を注ぐべく、ベツレヘムに赴いていました。神さまから、「ベツレヘムの町に暮らすエッサイという人物の息子たちの中に、王となるべき人物がいる。その者に油を注ぎなさい」との言付けがあったからです1節)

当時のイスラエルには、王や大祭司を任職する際に高価な油を注ぐという風習がありました。「油注がれた者」はヘブライ語では「メシア」と言い、この「メシア」のギリシャ語訳が「キリスト」です。キリスト教においては「キリスト」は「救い主」の意味で使われていますが、もともとは「油注がれた者」という意味なのですね。

サムエルは神さまから託された真の目的を胸の内に秘めつつ、エッサイとその息子たちをいけにえの会食に招きます。

 

 

 

主は心によって見る

 

はじめ、サムエルはエッサイの長男のエリアブに目を留め、彼こそ《主の前に油注がれる者》ではないかと思います。容姿や背の高さに、人よりも秀でたものがあったからです。しかし、神さまはサムエルに言われます。《容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る7節)。外見ではなく内面によって――心によって人を見ることの大切さを教えてくださったのですね。

私たちはつい目に見えるもので、ものごとや人を判断してしまうものです。しかし、目には見えない部分にこそ本質があり、私たちにとって大切なものであることを改めて思わされます。

 

その後、エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせましたが、サムエルは油を注ぐべき人物を見出すことはできませんでした10節)。サムエルはエッサイに尋ねます。《「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」11節)。一人羊の番をしていた末っ子、その子が、のちにイスラエルの王となるダビデでした。

エッサイは人をやって、サムエルの前にダビデを連れてこさせます。《彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」12節)

まだ少年であったダビデが初めて登場した場面です。神さまはサムエルに、この少年こそが油を注ぐべき人物であることを告げます。主の言葉の通り、サムエルはダビデに油を注ぎました13節)。メシア(油注がれた者)が誕生した瞬間です。以降、ダビデの上には神さまの霊が激しく降るようになります。

 

 

 

《聞き分ける心》 ~善と悪を判断する賢明さ

 

 本日は、ご一緒にサムエル記上16章のダビデが初登場する場面をお読みしました。王となる人物を見出す中で、神さまは「心によって見る」方であることも教えられました。

 では、王となる人物が持つべき心とは、どのようなものなのでしょうか。神の目に適う心のあり方とは、どのようなものなのでしょうか。

 

 ダビデの次にイスラエルの王となることになるソロモンは、後に、次のような祈りを神にささげています。《どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください(列王記上39節)

自分にではなく神さまの力により頼むソロモンの謙遜さが心に残る箇所ですが、ここではソロモンが神さまに祈り求めた事柄に心を向けたいと思います。ソロモンは善と悪を判断することができるようになるために、《聞き分ける心》を与えてくださいと神さまに祈っています。目に見えるものによって判断するのではなく、しっかりと本質を見つめ、悪しきものと善きものとを識別することができるために、人々の訴えを《聞き分ける心》を与えてくださいと祈っているのです。この《聞き分ける心》は「分別」、あるいは「善と悪を判断する賢明さ」と言い換えることができるでしょう。この賢明さを心の内に持つことは、「油注がれた者」となる人物にとって不可欠のことではないでしょうか。

 

 

 

蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい

 

「善と悪を判断する賢明さ」を持つこと。このことは、次のイエス・キリストの言葉ともつながっています。《蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい(マタイによる福音書1016節)

 ここでの「蛇のように賢く」は善悪を見分け、悪しきものを注意深くしりぞける賢明さを持つことを意味しています。「鳩のように素直に」は、悪しき意図に操作されることのない純真さと自由とを心の中に持つことを意味しています。この賢明さと純真さとを心の中に持つことは、どのような役職や立場にあっても、私たち一人ひとりにとって大切なことであると思います。

 

 

 

まことの「油注がれた者」であるイエス・キリスト

 

私たちは来週1128日(日)から、教会の暦でアドベントを迎えます。イエス・キリストのご降誕を待ち望み、その日に向けて準備をする期間です。

先ほど、「メシア(油注がれた者)」のギリシャ語訳が「キリスト」であると述べました。イエス・キリストこそは、神の目に適う心をもって、私たちを正しく裁き、治めてくださる方です。

 

キリスト教において伝統的にイエス・キリストの到来を預言していると受け止められてきたイザヤ書11章はこう語ります。《エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる》。

 このイザヤの言葉の中には、《目に見えるところによって裁きを行わず……》との文言もありました。まことの「油注がれた者」である主は、目に見えるところによって判断をなさらない。ものごとの本質を見つめ、善と悪とを判断してくださる方であることが語られています。そうして、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人々を公平に弁護してくださる方であることが語られています。

 

 

 アドベントを迎えようとするこの時、私たちもまた目に見えるところによってではなく善悪を判断する賢明さを持つことができますように、《聞き分ける心》をもって神さまと隣り人に誠実に向かい合ってゆくことができますように、神さまにご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。