2021年12月12日「荒れ野に道を備えよ」

20211212日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書118節、ペトロの手紙二3814節、イザヤ書40111

荒れ野に道を備えよ

 

 

 

アドベント第3

 

 私たちは現在、教会の暦で「アドベント」(待降節)の中を歩んでいます。アドベントはイエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ち望み、そのための準備をする時期です。本日はアドベント第3主日礼拝をご一緒におささげしています。

 

先ほどご一緒に讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』を歌いました。教会ではアドベントの時期に、毎週一本ずつロウソクに火をともしてゆく風習があります。3番はこのような歌詞でした。3番《主を待ち望むアドヴェント、第三のろうそく ともそう。主の恵み 照り輝き、暗闇を照らす。/主の民よ、喜べ。主は近い》(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』、1997年)

アドベント第3主日は伝統的に「喜びの主日」と言われます。ここでの「喜び」とはもちろん、イエス・キリストがこの世界にお生まれになったクリスマスの喜びのことを指しています。《主の民よ、喜べ。主は近い》――私たちはいよいよ、来週にはクリスマス礼拝の日を迎えます。

 

 

 

新型コロナウイルスの世界的感染拡大から2

 

新型コロナウイルスの世界的感染拡大から2年近くが経とうとしています。この2年、私たちはウイルス感染拡大に伴う困難に直面し続けてきました。現在、日本国内では、有難いことに感染者数が大幅に減少しており、私たちの住む岩手県でもこの2か月ほど、ほぼ感染者数がゼロの状態が続いています。昨年度と今年度、当教会でも皆さんが懸命なる感染対策を続けてくださっていますこと、心より感謝いたします。

 

当初は未知のウイルスであった新型コロナウイルスも、2年近くが経って様々なことが明らかになりつつあります。明らかになったことの一つは、この度のウイルスは50代以上の世代、特に70代以上の高齢の方々にはリスクが高いウイルスである一方で、子どもや若い世代にとってはリスクは少ないウイルスであることです。もちろん、若年層でも深刻な後遺症が残る事例は報告されており、その影響が懸念されることには変わりありません。ただ、子どもや若い世代においては感染してもそのほとんどが無症状または軽症で回復に到ることも事実です。

現在はオミクロン株の感染拡大が懸念されていますが、今回の変異株は感染力は強いものの同時に弱毒化もしており重症化のリスクは少ないとの指摘もあります。いずれにせよ、過度に不安になることなく、状況を注視しつつ、適切な感染対策を講じてゆくことが肝要でありましょう。

 

 

 

ワクチンの副反応、後遺症について

 

そのような中、国内でもワクチンの3回目の接種(ブースター接種)に向けて準備が進められています。すでにこの12月から、医療従事者の方々を対象とする先行接種が始まっています。この度のワクチンについては発症の予防・重症化のリスクを抑える効用があるとされる一方で、その副反応への懸念が指摘されていることはご承知の通りです。

 

1回目、2回目のワクチン接種を終えて、その副反応の実態について、少しずつマスメディアでも取り上げられるようになってきました。たとえば、10代・20代の男性が接種後にまれに心筋炎・心膜炎が生じる可能性があるということは、報道等を通して皆さんもご存じのことと思います。武田/モデルナ社ワクチンの方が頻度が高いとされますが、ファイザー社ワクチンでも同様の副反応は生じています。123日開催の専門家会議では、心筋炎・心膜炎は《重大な副反応》に位置付けられました。

 

また、ワクチン接種により起こりうる症状は心筋炎・心膜炎だけではありません。ツイッターなどのSNS上では、長期的な免疫力の低下、倦怠感、様々な体調不良などの「ワクチン後遺症(コロナワクチン後遺症)」で苦しむ方々の声が数多く投稿されています。今後は、テレビや新聞などのメディアでも、その深刻な実態について取り上げられるようになってゆくでしょう。

 

ワクチン接種を巡っては様々な考え方があり、難しい問題です。以前にもお伝えしたことがありましたが、私としてはこの度のワクチン接種に関しては慎重な立場を取っています。心臓の炎症に限らず、ワクチンの健康への影響の不安を払拭できないというのがその理由の一つです。

特に心配であるのは、若い世代の方々への影響です。私は、少なくとも10代・20代の若い方々は接種をする必要はない、と考えています。感染しても重症化リスクが少ない若い世代の人々にとっては、ワクチンを接種することの健康への影響の懸念の方がむしろ大きいと思うからです。

 

 

 

推奨ではなく、検証を

 

国内での感染拡大が沈静化しているいま、厚労省や専門家の方々にまず喫緊の課題としてしていただきたいことは、3回目接種の推奨ではなく、これまでの1回目と2回目の接種の検証です。今回のワクチン接種により、実質的にどれくらいの感染防止・発症防止および重症化防止の効果があったのか。そして、その副反応として、人々の健康と生活にどのような影響が出ているかを詳細に調査していただきたいと思います。その上で、今後の接種の方針を検討すべきでありましょう。場合によっては、これまでの方針を大きく軌道修正してゆくことも必要です。この2か月の日本国内の急激な感染者数減少はワクチンが主要な要因ではないことは専門家の方々の多くも認めていらっしゃることだと思います。

 

 

 

3回目の接種に関して

 

もちろん、ワクチン接種自体を否定しているわけではありません。各人が懸命に考え、判断されたことを、敬意をもって尊重し合ってゆきたいと思っております。ただ、私自身の願いとしては、3回目の接種には、できる限り慎重であっていただきたいと思っています。1回目と2回目の接種を経て、副反応についても様々な点が明らかになりつつあります。大規模接種が始まった当初、私たちの多くが認知できていなかったその健康への影響が明らかになりつつあります。

 

ここにいらっしゃる皆さんの多くはすでに2回の接種を終えていらっしゃることと思いますが、3回目の接種は急ぐ必要はなく、引き続き感染対策を心掛けつつ、しばらく状況を注視しておいていただきたいと思っています。来年の1月からは、65歳以上の方々を対象とした一般接種も始まってゆきます。感染拡大がほぼ沈静化している現在、できるならば、接種の判断はまだ保留にしておいていただきたいと思っています。この度のワクチンは、若い世代の方々のみならず、すべての世代の方々において、健康への影響の懸念があまりに大きいと思うからです。

 

 

 

私自身の経緯

 

今年の6月に接種券が届いた当初は、私自身も接種を検討していました。ワクチンの副反応への懸念はありましたが、教会の牧師としてまた学校の教師として、接種する責務があると考えていたからです。

ワクチンというものに対する懸念をもともと持っていたのは、上野秀雄さんの薬害についてのご講演を聞いていたことが大きかったと思います。副反応への懸念から、妻には接種しなくても良いと伝えていましたが、自分は立場上、受けざるを得ないのではないかとも考えていました。

 

色々と迷いを抱きつつ、しかし近々、自分が接種するかもしれないことも念頭に置いて、改めてコロナワクチンについて本を取り寄せ、自分なりに色々と調べることをしました。調べるうちに、この度のmRNAワクチンがいかに私たち人類にとって未知のものであるか、不確定な要素が強いものであるか、健康への影響が懸念されるものであるが分かってきました。

 

そのような中、少し体調を崩し、体に湿疹や蕁麻疹が出るようになりました。きっかけは暑い日のさ中、庭の草取りをしていて肌がかぶれたことで、もちろんワクチンとは関係はありません。が、自分の体調に自信がないこともあり、接種の予定はいったん保留にすることにしました。

その後、さらに本を読んだりして色々と思案した結果、ワクチンは接種しないことを決めました。ワクチンに対して強い不安を感じている、その自分の気持ちをまず尊重したいと思ったのです。同じくワクチンに対して懸念を持っている友人たちとの対話を通して、その決心はさらに固いものとなりました。いま振り返ると、自分の体が不調を通して何かサインのようなものを発していたのかもしれないとも思います。

 

それからしばらくは、その決意は自分の中だけにとどめ、自分からすすんで人に話すことは避けていました。コロナが収束することを願って、愛する人々の健康が守られることを願ってワクチンを接種した皆さんの切なる想いも痛いほど分かっていたからです。あえて意見が対立するようなことは話題にすべきではないと思っていました。接種をし終えた皆さんの体調が守られるよう、副反応が軽微なもので済みますようにと、ただ祈るばかりでした。

 

しかし、この2か月ほど、国内の感染者数が大幅に減少したことに伴い、ウイルス後遺症だけではなく、ワクチンの後遺症に苦しむ人々の声が少しずつ、自分の耳に届くようになってきました。その深刻なる被害の一端を、私自身、理解し始めているところです。

その被害の実態を受け、これは、自分の中で決意しているだけではなく、はっきりと自分の懸念を皆さんにお伝えすべきだと思い、1017日の礼拝説教で、初めてワクチンについて自分の考えをお話ししました。本日の説教ではさらに踏み込んだ内容をお話ししています。この度のワクチンに対して自分なりの懸念を表明することが、牧師として、宗教者としての責務なのだといまは受け止めています。

 

 

 

神さまの目に、一人ひとりが替わりがきかない存在

 

これまで述べてきましたことは、あくまで私個人の見解です。決して私の考えを皆さんに強要するものではありません。しかし、愛する皆さんの健康に関わる事柄でありますので、あえて述べさせていただきました。

 

私たちは一人ひとり、神さまの目に大切な存在です。かけがえのない、替わりがきかない存在です。誰一人、その生命と尊厳が軽んじられることがあってはなりません。大勢のために、一部の人が犠牲になることも決してあってはなりません。神さまの目に、私たち一人ひとりが替わりがきかない存在、決して失われたり傷つけられたりしてはならない存在であるからです。

 

イエス・キリストが私たちに伝える道は、「自分を大切にし、隣人を大切にし、そして神さまを大切にする道」であることを心に留めたいと思います。神さまを大切にするには、隣人を大切にしなければならない。隣人を大切にするには、まず第一に、自分自身を大切にしなければならない。自分を大切にすることが他者を大切にし、そして神さまを大切にすることにつながるのだということを、いま一度、共に思い起こしたいと思います。

 

 

 

荒れ野に道を備えよ

 

 冒頭で、イザヤ書40章の御言葉をお読みいたしました。その中で、次の言葉がありました。3節《呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ》。神さまのために、荒れ野に道を整え、荒れ地に広い道を通すよう呼びかける言葉です。この言葉と深いつながりがある人物として、洗礼者ヨハネがいます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが公の活動を始めるより先に、ヨルダン川にて人々に「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人です。

新約聖書は、この洗礼者ヨハネをイエス・キリストの「先駆者」として位置づけています。これから到来されるイエス・キリストの道を準備する者として、イザヤが預言した通りに、ヨハネが神さまから遣わされたのだと受け止めているのです。

 

マルコによる福音書はこのように記していました。《預言者イザヤの書にこう書いてある。/「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。/荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」/そのとおり、/洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた(マルコによる福音書124節)

ヨハネが準備した主イエス・キリストの道。その道とは、「自分を大切にし、隣人を大切にし、神さまを大切にする道」であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。私たちはいま一度、この道を整え、その道筋をまっすぐにすることが求められているのではないでしょうか。

 

人々に呼びかけるヨハネの声は、マルコ福音書では《荒れ野で叫ぶ者の声》と形容されています。この《荒れ野で叫ぶ者の声》とは、言い換えると、私たち一人ひとりの内にある「良心の声」としても受け止めることができます。私たちがまことの意味で自分を大切にし、隣人を大切にし、そして神さまを大切にするために、主の道に立ち帰るよう促す、内なる呼び声です。

 

 

主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ》――。いまご一緒に主の道に立ち帰り、主が来られるための道を準備したいと思います。