2021年2月21日「荒れ野にて」
2021年2月21日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書4章1-11節
「荒れ野にて」
受難節
2月17日(水)より教会の暦で受難節に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。本日は受難節第1主日礼拝をご一緒におささげしています。受難節は4月3日(土)まで続きます。そして翌日の4月4日(日)、私たちはイースター(復活日)を迎えます。
礼拝が始まる際、講壇の前に並べている7本のロウソクの内の1本の火を消したことにお気づきになった方もいらっしゃると思います。受難節の礼拝では伝統的に、並べた7本のロウソクの火を毎週一本ずつ消してゆくことがなされることがあります。消火礼拝とも呼ばれます。洗足木曜日礼拝をおささげする4月2日(木)には、7本すべての火が消えることとなります。クリスマス前のアドベントの礼拝では毎週1本ずつロウソクに火をともしてゆきますが、その反対の作業ですね。
ロウソクの火がだんだんと消えてゆくことによって、私たちの目の前からは光が失われてゆきます。そうしてかわりに暗闇が生じてゆきます。この暗闇は、イエス・キリストがその受難の道において経験された暗闇を指し示しています。先が見えない暗闇の中、主イエスは十字架への道をただお一人で歩んでゆかれました。
新約聖書の福音書には、主イエスの十字架の道行きが詳細に記録されています。受難物語とも言われるものですが、福音書はこの受難物語に最も多くの分量を割いています。それほど、新約聖書において受難物語は重要なものであるのだと受け止めることができます。
と同時に、福音書はこの受難物語で終わるのではありません。受難物語の次に、復活の物語が続きます。暗闇の向こうから差し込む復活の光を指し示して福音書は閉じられます。
イエス・キリストのご受難を心に留めつつ、またそして、その先にあるイースターの光を希望としつつ、この受難節の中をご一緒に歩んでゆきたいと思います。
荒れ野の誘惑
本日の聖書箇所は、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面です。主イエスが荒れ野にて40日間断食をした後、悪魔から様々な誘惑を受けられたと福音書は記しています。「石をパンに変えてみたらどうだ」との悪魔の誘惑に、主イエスが「人はパンだけで生きるものではない(人はパンのみで生くるにあらず)」との聖書の言葉を引用してその誘惑を退ける場面はよく知られていますね。
主イエスが断食をなされた《荒れ野》がどの辺りであったのか、具体的な場所は定かではありません。パレスチナには、死海に向かって拡がるユダの荒れ野と呼ばれる一帯があります。一年中ほとんど雨が降らない砂漠のような地域です。主イエスが悪魔から誘惑を受けられたのはこのユダの荒れ野のいずこかであったのでしょうか。主イエスはこれから神の国の福音を伝える活動を始めるにあたって、まず荒れ野にて断食をし、悪魔から誘惑を受けられました。
「(悪魔)サタン」という存在は聖書に何度も出て来きますが、サタンとはもともとはヘブライ語で「告発する者」や「敵対する者」を意味する呼び名です。聖書では神さまに敵対する存在としてこの悪魔が登場します。
本日の聖書箇所は悪魔が出てきたり、映画のように舞台が次々と変わったりするので、現代を生きる私たちにはファンタジーのように感じられるかもしれません。しかし一方で、この場面において悪魔が提出している問いは私たちにとってリアリティのあるもの、とても現実的なものであるように思います。
40日間の断食を終え、疲労と空腹の極みにあった主イエスに対して、悪魔は三つの提案をしました。一つは、「神の子なら、石をパンに変えてみたらどうか」との提案です(マタイによる福音書4章3節)。二つ目の提案は「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみせたらどうか」(6節)。三つ目の提案は、「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄とを与えよう」(9節)。主イエスはこれらの誘惑をすべて、聖書の言葉をもって斥けられました。
第一の誘惑と第二の誘惑に共通している点があります。それは、石をパンに変える、神殿の屋根から飛び降りても天使が支える、などの「奇跡的な出来事」に価値を置いている点です。これから主イエスは人々に神の国の福音を伝える活動を始めようとされています。その際、驚くべき奇跡を見せつければ、人々は否応もなくあなたに従うだろう。神の子なら、それができるはずだから、奇跡をどんどんと見せつけてゆけばよい、と悪魔は提案したのですね。
なぜ悪魔はこのようなことを提案したのでしょうか。その悪魔の隠された意図は、最後の第三の誘惑において明らかにされます。「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄を与えよう」――。すなわち、悪魔は主イエスを自分の支配下に置き、コントロールすることを企んでいたのですね。
奇跡をどんどんと起こすがよい。たくさんの人があなたに服従する。そうすれば、この世のあらゆる権力も、繁栄も、あなたに与えられる。私が提案することに従いなさい……。悪魔はそのように主イエスの耳元でささやいたわけですが、その提案に従うことは、悪魔の支配とコントロールの下に置かれてしまうことに外なりませんでした。主イエスは決然とした態度で、この悪魔の提案を斥けられました。
異なる価値観のぶつかり合い
この悪魔の誘惑の場面では、異なる価値観がぶつかりあっていることが分かります。まったく相容れない二つの価値観――悪魔の価値観と主イエスの価値観とが火花を散らすようにしてぶつかり合っているのです。
悪魔の価値観の根本にあるものとは、一言で言うと、「自分の利益のみを第一とする」姿勢であると言えるのではないでしょうか。すべては自分自身のため。自分が大いなる権力を得るため、物質的な繁栄を得るため。そのために、大勢の人を従わせることが必要、大勢の人を支配しコントロールすることが必要。そのために、「奇跡的な出来事」を起こして人々の目を惹き夢中にさせることが必要不可欠なのだと悪魔は考えています。
対して、主イエスの価値観の根本にあるのは、「神の国とその正義を第一とする」(6章33節)姿勢でした。私なりに言い換えますと、一人ひとりの生命と尊厳とを第一とする姿勢です。
自分の利益だけを求めるのではなく、神の目に大切な一人ひとりが尊ばれるあり方を求めてゆくこと。そのためには、自分の利益ばかり考えるのではなく、その自分の執着からいったん離れ、まず神の言葉に聴こうとする姿勢が重要となります。そして、人を無理矢理支配しコントロールするのではなく、その人の主体性を尊重することが大切。奇跡的な出来事は必ずしも不可欠のものではなく、むしろ、苦しんでいる人に寄り添い、共に生きようとする姿勢こそが必要。そのように主イエスは考えていらっしゃったのではないでしょうか。
福音書を読みますと、確かに主イエスが奇跡を起こされる場面がたくさん出てきます。しかしそれは主イエスが苦しむ人に寄り添い共に生きようとされた結果、付随的に引き起こされた出来事なのであり、奇跡に第一の価値が置かれているわけではないのだと思います。
また、奇跡を通して否応なしに人々を信じさせることも主イエスはなさっていません。主イエスはあくまで私たち一人ひとりの自由な意志――自由な信仰、自由な良心――に委ねてくださっていたことをも福音書の記述から読み取ることができます。
悪魔との対決によって、主イエスはご自分が大切にしてゆきたいことを、改めてご自分の中ではっきりと確認することができたのかもしれません。荒れ野での誘惑を終え、主イエスはガリラヤにて公の活動を本格的に始められることになります(4章12-17節)。
十字架上の最後の誘惑
本日は荒れ野の誘惑の場面をご一緒にお読みしました。悪魔の誘惑をはっきりと退けられた主イエス。主イエスはそのご生涯の最期の受難の道においても、そのご自分の姿勢を貫き通されました。最後に主イエスが十字架におかかりになる場面を見てみたいと思います。
十字架にかけられた主イエスを取り囲む人々は、口々に主イエスを嘲笑し、ののしりました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」(27章40節)、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(27章42節)。
十字架を取り囲む人々のこれらの言葉は、先ほどの悪魔の誘惑の言葉と重なり合います。「神の子なら、十字架から降りてみたらどうだ」……。けれども主イエスはその言葉には何も答えることはなさらず、十字架から降りることをなさいませんでした。
「十字架から降りない道」を
「十字架から降りる」ことは「奇跡的な出来事」が起こるということです。その奇跡を目の当たりすれば、我々はあなたを信じるだろうと人々は嘲笑います。確かにそれはその通りであったかもしれません。もしも奇跡がいま起これば――主イエスが神の御子としての圧倒的な力を発揮して、天使たちに支えられながら十字架から大地に降り立てば、人々は主イエスに向かってひれ伏したことでしょう。しかし、主イエスはそのことをなさらなかった。十字架から降りることをなさらなかった。「十字架から降りてみろ」との誘惑の言葉は、「神の国とその正義を第一とする」主イエスの姿勢とはまったく相容れないものであったからです。
このように、主イエスはご自分の信念を、その最期の瞬間まで貫徹してくださったことが分かります。それは外ならぬ、私たち一人ひとりのためでした。私たちの救いのため、神の目に大切な一人ひとりがまことに尊重される世界が実現されるため、主イエスは「十字架から降りない道」を選び取って下さいました。
先週から、私たちは受難節の中を歩み始めています。「十字架から降りない道」を示してくださった主のお姿を見上げつつ、共に寄り添い合い支え合いながら、一人ひとりがまことに大切にされる社会を求めて祈りを合わせてゆきたいと思います。