2021年4月25日「わたしは復活であり、命である」
2021年4月25日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書11章17-27節
「わたしは復活であり、命である」
2021年度主題聖句 ~愛はすべてを完成させるきずな
本日は礼拝後に花巻教会の2021年度の定期総会を行います。諸報告は省略し、審議事項のみを取り上げます。体調を鑑みつつ、ご無理のない範囲で各自出席をご判断下さい。新しい年度の教会の歩みの上に主の導きがありますよう、また新型コロナウイルスの感染が再び拡大している状況の中にあって一人ひとりの健康と生活が守られますよう、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
21年度の教会の主題聖句として選んだのは、新約聖書コロサイの信徒への手紙3章14節です。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。
愛こそが最も大切なものであることを伝えてくれている言葉で、愛唱聖句にしておられる方も多くいらっしゃることでしょう。今年度は聖書が語る「愛」について改めてご一緒に考えてゆきたいと思い、この御言葉を選びました。
聖書における「愛」
聖書における「愛」は、原語のギリシャ語では「アガペー」と言います。聖書におけるアガペーはまず第一に、「神の愛」を指します。私たちから生じる愛というより、神さまから生じている愛を指しています。だからこそ、他の徳目よりも根本的なものとして、愛が位置づけられているのですね。《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容》(13節)などの大切な徳目もみな、この愛から生まれ出ているものです。そしてその愛が、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりの内にも宿されているのだと聖書は伝えてくれています。
アガペーにはもちろん「好き」「大好き」という感情も含まれていますが、それだけを表すものではありません。聖書におけるアガペーは、たとえば、感情的には好きではない相手に対しても使うことができる言葉です。苦手な相手であっても、私たちはその人を「愛する」ことができる。というのも、聖書における愛は、相手を「大切にする」という具体的な姿勢を表すものであるからです。
キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、「愛」という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳したそうです。とても素晴らしい訳であると思います。愛とは、大切にすること。私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして受けとめ、大切にしようとすること」。それが愛することであると受け止めています。このアガペーなる愛は、相手のことが好きか嫌いかを超えて、相手の存在そのものを重んじ、大切にするように働くものです。
川和教会牧師の平良愛香先生が10代の人々に向けて書いた文章の中に印象的な言葉があったので、ご紹介したいと思います。
《僕は一度、幼なじみの女性に「あんたのこと、大嫌いだけど愛している」と言われたことがあります。どうも僕の優柔不断な部分や、考えている「つもり」になる癖があることにとてもイライラしていたらしいのですが、それでも僕を「大切な存在」として見ていた。だから「嫌いだけど愛している」という言葉が出てきたのでしょう。この言葉に、僕はキリスト教が教える「愛」の本当の意味を見たと感じています。「神を愛すること、そして人を愛すること」、それは、必ずしも「好きになること」ではなく、「大切な存在として重んじ、受け入れる」ということなのです》(髙橋貞二郎監修『10代のキミへ いのち・愛・性のこと』、日本キリスト教団出版局、2016年、97頁)。
平良先生が幼なじみの女性に言われた「あんたのこと、大嫌いだけど愛している」(!)、とても面白い表現ですね。この言葉に、平良先生はキリスト教が教える「愛」の本当の意味を見た、と語っておられます。愛とは「好きになる」という感情を表すだけではなく、《大切な存在として重んじ、受け入れる》ことを意味しているのだ、と。
私たちも家族や友人など親しい関係にある人々に対しても、性格のある部分に対してついイライラしてしまうこともあるでしょう。時に、「あなたのことなんて、嫌い!」と思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、それでもなお、その人が自分にとって「かけがえのない、大切な存在」であるのだとしたら、やはりその人のことを私たちは「愛している」のです。大切なその人を、時にぶつかりながらもケンカをしながらも、自分なりに一生懸命「重んじ、大切にしようとし続ける」こと、それがすなわち「愛する」ということなのでしょう。
そしてこのアガペーなる愛は、神さまから生じているものです。聖書は他ならぬ神さまが、私たち一人ひとりをかけがえのない=替わりがいない存在として重んじ、大切にしてくださっていることを語っています。「私の目にあなたは価高く、貴い。私はあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)。そしてその神さまの愛が、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりの内にも宿されているのです。
神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として大切にしてくださっているように、私たちもまた互いを大切にしてゆくこと――これが神さまの願いであると言えるでしょう。
愛はすべてを完全に結ぶ帯
改めて、コロサイの信徒への手紙3章14節を読んでみたいと思います。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。
新しく出版された聖書協会共同訳では、《さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です》と翻訳されていました。
この14節の前半部では、怒りや憤りや悪意、そしりに基づいた言動を「脱ぎ捨て」、憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容さを「身に着ける」ことがすすめられています。人として生きる上で大切な徳目が衣服のイメージで語られているのですね。そのことを踏まえると聖書協会共同訳の「帯」という翻訳もまたふさわしいものであることが分かります。
憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容などの徳目を身に着けるべきことは大切ですが、愛がないと、それらの徳目はまことには身に着かない。それはまるで「帯」がない着物のように、私たちの体からずり落ちてしまう。愛こそは、これらの徳目を私たちにしっかりと結び付け、そのすべてを完全に結ぶ「帯/きずな」であることが語られています。
聖書が語る愛を心に刻み、愛を私たちの「帯/きずな」として、この新しい年度も共に歩んでゆきたいと願います。
《わたしは復活であり、命である》
私たちはいま、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活節は、イエス・キリストの復活を心に留めて歩む時期です。4月4日にはイースター礼拝をご一緒におささげしました。
イースターの喜びを共に分かち合うことができた一方、私たちの内にはいまも様々な不安や悲しみがあります。特に新型コロナウイルスの感染が再び拡大している中、たくさんの人が強い不安を覚えていらっしゃることでしょう。4都府県では3度目の緊急事態宣言が発出されました。一人ひとりの健康と生活とが守られますよう、いま病床の中にある方々の上に主よりの癒しがありますよう、医療に従事しておられる方々の上に主のお支えがありますよう願うものです。
先ほどご一緒にヨハネによる福音書11章17-27節の御言葉をお読みしました。その中に、次のイエス・キリストの言葉がありました。25-26節《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。/生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》。イースターの際によく読まれる言葉です。
「復活」という言葉は、原語のギリシャ語ではもともとは「立ち上がる」「起き上がる」という意味をもつ言葉です。イエス・キリストが暗い墓の中から「立ち上がった」、そのことが「復活した」と訳されているのですね。
岩手県気仙地方の方言で聖書を訳した『ケセン語訳聖書』で知られる山浦玄嗣さんはこのみ言葉を《この俺にァ、人ォ立ぢ上がらせる力ァある》と訳されていました(『イエスの言葉 ケセン語訳』、文春新書、2011年)。「復活」という言葉は原語では「立ち上がる」意味があることを踏まえ、「人を立ち上がらせる力」と表現されているのですね。心打たれる翻訳です。
私たちは生きてゆく中で、心が座り込んだようになってしまうことがあります。もう自分では立ち上がることができない、そのような心境になってしまうこともあるでしょう。新型コロナウイルスによる影響が長期化する中で、多くの人がそのような心境になっているのではないでしょうか。
そのような困難の中にいる私たちですが、主イエスは私たちに対していつも、《私は復活であり、命である》――「わたしにはあなたを立ち上がらせる力がある」と語りかけてくださっていることをご一緒に心に留めたいと思います。
先ほどご紹介した山浦玄嗣さんは、《この俺にァ、人ォ立ぢ上がらせる力ァある》という主イエスの言葉を、震災直後、津波によって破壊された大船渡の街を見つめる中で聴いた体験をされたそうです。
大きな困難や悲惨な経験をしてもなお、私たちは起き上がることができる。再び立ち上がってゆくことができる。復活の主はいま、私たち一人ひとりにその復活の命の力を与えて下さっています。