2021年5月2日「道、真理、命」
2021年5月2日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書14章1-11節
「道、真理、命」
緊急事態宣言が発令されて1週間
ゴールデンウィークに入りましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。せっかくの連休ではありますが、どこにも出かけずにご自宅で過ごしている方も多くいらっしゃることでしょう。
4都府県で3度目の緊急事態宣言が発令されて1週間が経ちました。宣言の期限は11日ですが、専門家の間では「延長は避けられない」との見方もあるようです。特に大阪は変異株の感染拡大に歯止めがかからず、医療体制が非常にひっ迫している状況にあります。大阪市内では患者をすぐに救急搬送できない事例が急増しており、その意味ですでに医療崩壊が起こっているとの指摘もあります。私も大阪には家族や友人がいるので心配をしています。
どうぞ一人ひとりの健康と生活が守られますよう、感染した方々に適切な治療がなされますよう、医療に従事しておられる方々の上に主のお支えがありますよう願うものです。またそして、少しでもこの状況が収束へと向かってゆきますようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
そのような中、昨日の午前10時27分頃、宮城県沖を震源とする強い地震がありました。最大震度5強、岩手県でも釜石市と一関市で震度5弱を記録しました。皆さんのご自宅は大丈夫だったでしょうか。花巻や盛岡は震度4ほど。花巻教会の会堂は特に被害はなく大丈夫でした。県内の諸教会からもいまのところ大きな被害があったとは伺っていません。
この度の地震で宮城県と福島県では3人の方が負傷、住宅地の水道管が破裂するなどの被害が出ていると報道されています。このところ、東北では大きな地震が続き、心配ですね。2月13日、3月20日にも東北地方で強い揺れが観測されたばかりでした。引き続き余震に気を付けると共に、一人ひとりの安全が守られるようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
年間主題聖句 ~愛は、すべてを完成させるきずな
私たち花巻教会は、先週4月25日(日)の礼拝後、2021年度の定期総会を行いました。選挙の結果、新たに3人の方々が役員に選出されました。役員に選ばれた皆さんの上に主のお支えがありますようお祈りください。
21年度の教会の主題聖句として選んだのは、コロサイの信徒への手紙3章14節《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。今年度は聖書が語る「愛」について改めてご一緒に考えてゆきたいと思い、この聖句を選びました。
聖書が語る「愛」は、「好き」という感情だけを指すものではありません。聖書が語る愛は、「相手の存在を重んじ、大切にすること」を指しています。相手のことが好きか嫌いかを超えて、相手の存在を重んじ、大切にするよう働くものが、聖書が語る愛です。
聖書は、他ならぬ神さまが、私たちの存在を重んじ、大切にしてくださっていることを語っています。神さまは私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださいました(ヨハネによる福音書3章16節)。
またそしてイエス・キリストは私たちを愛するゆえ――私たちの存在を極みまで重んじてくださるゆえ、私たちのために命を捨てて下さったことを聖書は証ししています。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(同15章13節)。聖書はこの大いなる愛を私たちに伝えてくれている書です。
愛の反対は、相手の存在を「軽んじる」こと
愛とは相手の存在を重んじ、大切にすること。では、愛の反対は何でしょうか。それは、相手の存在を軽んじることではないでしょうか。「重んじる」の反対は「軽んじる」ですよね。愛の反対にある姿勢は、相手の存在を軽んじること、そして排除することであると言うことができるでしょう。
私たちは人から「軽んじられた」と感じるとき、とても悲しい気持ちになります。心が深く傷つきます。それは子どもも大人も同様でありましょう。これは時代を超え、国境を越えた私たち人間の内にある普遍的な感情です。
たとえ個人的には好きになれない相手であったとしても、その相手を軽んじたり、排除したりすることは本来、あってはならないことです。「愛する」とは、たとえ感情的には嫌いな相手であっても、その人を軽んじる言動は慎むことを自らの内で決意している、その姿勢を指すものでもあります。感情的には好きになれない相手でも、その人を軽んじたり、意地悪をしたりすることは決してしない。そしてその決意と姿勢が、相手の存在を重んじることにもつながってゆきます。
一方で、いまの私たちの社会を見てみると、他者を軽んじ、排除することが至る所で起こっている現状があります。軽んじられ傷つけられた人が、その怒りの矛先を別の人に向けて、相手を軽んじ傷つけてしまっている悲しい現象も生じています。私たちはいかにしたら互いに互いを軽んじることの連鎖を断ち切ってゆくことができるのか――このことは、現在を生きる私たちが向かい合うべき喫緊の課題の一つであると言えるでしょう。
新しい掟 ~《互いに愛し合いなさい》
イエス・キリストはそのような私たちに、新しい掟を与えて下さっています。それは、「互いに愛し合う」という掟です。
《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》(ヨハネによる福音書13章34-35節)。
互いに愛し合うこと――言い換えると、互いに重んじあい、大切にしあうこと。それが、私たちが遵守すべき《新しい掟》であると語られています。
主イエスが私たちを重んじて下さったように、私たちも互いを重んじ合うこと。主イエスが私たちを大切にしてくださったように、私たちも互いに大切にし合うこと。そのことによって、私たちがキリストの弟子であることを周囲の人々が知るようになるのだと語っておられるのです。
日々の生活において、愛に根ざした言葉を発し、行動を起こしてゆくことこそが大切であるのですね。コロサイの信徒への手紙の表現で言えば、《愛を身に着ける》こと。そのことがいかに大切かを改めて思わされます。
この愛の道がキリストの道です。私たちはそれぞれ、この道を歩んでゆくように神さまから招かれています。
イエス・キリストご自身が「道」
本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書14章6-7節に次の言葉がありました。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。/あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている》。
ここで《わたし》と言っているのは、イエス・キリストご自身です。《わたしは道であり、真理であり、命である》――主イエスはここで、ご自身が「道」であるとおっしゃっています。文語訳聖書では《われは道なり、眞理(まこと)なり、生命(いのち)なり》。ちなみに私の名前「道也」はこの《われは道なり》の聖句からとられています。
主イエスを「信じる」こと、それは同時に、主イエスが体現してくださっている愛の道を共に「歩む」ことを意味しています。具体的には、日々の生活の中で「互いに愛し合う」掟を実行してゆくこと。そしてこの愛の道を歩むところに「真理」があること、この愛の道を歩む先に「復活の命」があることを主イエスは伝えて下さっています。
神さまの愛に立ち返り
先ほど述べましたように、私たちの社会においては、互いに互いを軽んじ合うことが起こってしまっています。私たち自身の内にも、相手を軽んじたい気持ち、排除したいという気持ちが生じてしまうこともあるでしょう。そのような気持ちが生じること自体は悪いことではありません。人間として生きている限り、そのような否定的な気持ちが生じてくるのはむしろ当然のことです。
大切なのは、そのような気持ちが生じたとき、その気持ちの赴くままに行動してしまうのか、それとも勇気を出して立ち止まり、自らの内を顧みることができるかでありましょう。たとえ感情的には好きになれなくても、たとえ胸の内が怒りでいっぱいになってしまっているのだとしても、少なくとも、感情にまかせて相手を軽んじたり嫌がらせをしたり排除したりすることはしない。その決意を持ち続けることができるかが大切なことでありましょう。
けれども時には、もう自分の中にそのような力がないように感じられることもあるかもしれません。激しい怒りや深い悲しみの中で、大切なものを見失いそうになるときもあるでしょう。破壊的な衝動に身を任せたくなるときもあるでしょう。そのようなとき、私たちが常に立ち返るべきは、神さまの愛です。キリストの愛です。神さまは私たち一人ひとりを極みまで重んじ、大切にしてくださっている方です。主イエスは私たちを極みまで愛するゆえ、その命をもささげてくださった方です。それほどまでに、神さまはこの私を重んじ、大切にしてくださっている。あなたのことを大切に想ってくださっている――そのことを思い起こしたいと思います。この愛と真理を思い起こし、その光に包まれる中で、次の新しい一歩を踏み出す力と勇気が与えられてゆくのだと信じています。愛に根ざした言葉と振る舞いとが少しずつ、実を結んでゆくのだと信じています。
私たちがキリストの愛と真理の道を共に歩んでゆくことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。