2021年6月13日「世にあって星のように輝き」
2021年6月13日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章12-18節
「世にあって星のように輝き」
ワクチン接種の本格化
高齢者の方々を対象とした新型コロナウイルスワクチン接種が5月以降本格化しています。本日礼拝に出席している皆さんの中には、すでに2回目の接種を終えた方もいらっしゃいます。また今週、接種予定の方もいらっしゃると伺っています。この度のワクチンは副反応も懸念されますが、どうぞ接種した方々のお身体が守られますようお祈りいたします。そして少しずつでも状況が改善し、感染が収束へと向かってゆくよう願うものです。
感染した方々の上に主よりのいやしがありますように、一人ひとりの健康と生活とが支えられますように、引き続きご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
地の塩、世の光
先ほど、マタイによる福音書5章13-16節を読んでいただきました。イエス・キリストの言葉の一つで、「地の塩、世の光」の表現で知られている箇所です。
《あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。/あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。/また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。/そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》。
《あなたがたは世の光である》
まずは《あなたがたは世の光である》(14節)という言葉についてご一緒に考えてみたいと思います。具体的にイメージされているのは、ともし火です。家の中を照らすランプの光ですね。イエス・キリストが生きていた時代は当然ながらまだ電気はなく、夜に屋内を照らすのは燭台の明かりでした。ともし火が家の中のものすべてを照らし出すように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさいと主イエスはおっしゃってくださっています。
ここで気を付けるべき点は、その光を隠さないようにすることです。ランプに火をつけたのに、わざわざその明かりを隠す人はいません。ともし火は燭台の上に置きます。そうすれば、家の中のものすべてを明るく照らし出します。《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》(16節)、そう主イエスは私たちに語りかけて下さっています。
あなたの内にあるその光を、隠すのではなく、人々の前にはっきりと輝かしてください。主イエスはそのように私たちを励ましてくださっているのです。そしてその私たちの行いを見て、人々は神さまを知るようになるのだとも語られています。
その光とは、神さまから私たちに与えられている大切な使命と役割である、と本日はご一緒に受け止めたいと思います。具体的にどのような役割であるかは、一人ひとり異なることでしょう。
神さまの目から見て、私たち一人ひとりはかけがえのない=替わりがきかない存在であり、それぞれに神さまから固有の使命と役割が与えられています。その大切な役割を遠慮して隠しておくのではなく、はっきりと人々の前に輝かしなさい、と主イエスは私たちを励ましてくださっています。
《あなたがたは地の塩である》
《あなたがたは地の塩である》(13節)にも同様のメッセージが込められています。「地の塩」というのは少し不思議な表現ですね。ここでの塩は、岩塩がイメージされているようです。パレスチナの死海の沿岸は岩塩が産出されることで知られています。ソドムとゴモラの物語の由来となったソドム山には岩塩の山もあります。
イエス・キリストが生きておられた当時、塩は生活に欠かせないものでした。それは現代の私たちにとっても同様ですね。塩は料理の味付けをするために欠かせないものであり、また、食べ物の腐敗を防ぐためにもなくてはならないものです。すなわち、ここでは塩は「なくてはならないもの」としてイメージされているのです。
《あなたがたは地の塩である》という言葉には、塩が私たちの生活に欠かせないものであるように、私たち一人ひとりには、かけがえのない大切な役割が託されている、とのメッセージが込められているのだと受け止めることができます。
と同時に、やはり気を付けるべきことについても語られています。それは、塩に塩気がなくなってしまうことです。《だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう》(13節)。ここでは、岩塩が風化や湿気などによって、本来の塩気が失われてしまった状態がイメージされているようです。
塩に塩気がなくなる――本日はこの表現を、本来かけがえのない役割をもっている私たちが、周囲に合わせすぎてしまい、その役割と使命を見失ってしまっている状態を指すものとして受け止めてみたいと思います。私たちが周囲に合わせすぎて、自分の持ち味や自分の使命を見失うことのないよう注意を促してくださっているのです。
あなたには、あなたにしかできない使命がある。その使命と役割を大切にしていってほしい。そう主イエスは私たちを励ましてくださっています。「みんなが同じでなければならない」との同調圧力が強い私たちの社会にあって、この主イエスの言葉は私たちに勇気を与えてくれるものですね。
空気の支配
一方で、私たちにとって周囲に同調しないことは、大変なことでもあります。「みんなが同じでなければならない」との圧力に抗い、自分の考えを貫くのはとても大変なことですよね。
先週の礼拝メッセージでもお話しましたが、日本語特有の表現として「場の空気」という言葉があります。私たちは知らず知らず、場の空気に大きな影響を受けています。私たちが生活している日本は、特にこの「空気の支配」が顕著だとの指摘もあります。
2007年には「KY(『空気が・読めない』」が流行語大賞に選ばれたこともありました。いまの私たちの社会では「空気が読めない」ことが否定的に捉えられ、反対に「空気が読める」ことは賞賛すべきこととして捉えられている傾向があるように思います。
「空気を読む」ことには、確かに良いところもあるでしょう。空気を読んだ言動は私たちのコミュニケーションを円滑にし、一つの方向に皆で一丸となって向かおうとするときに大きな力を発揮します。
一方で、場の空気を過度に重んじることの危険性もあります。人々が場の空気に支配され、主体性が奪われてしまうことの危険性です。それぞれが自分の意見を率直に口にできない状況が続く内に、事態がどんどんと悪化していってしまうことも多々生じていることでしょう。
山本七平氏の『「空気」の研究』(文集文庫、1983年)という本では、日本が太平洋戦争に突入していったことにも空気が大きく影響していたとの分析がなされています。戦争中、私たちの社会全体が、或る空気の支配下に置かれていたのです。
過去の過ちの歴史 ~戦時中のキリスト教会
私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は1967年に『第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白』という文章を発表しています。1967年3月26日のイースターに、当時の教団議長の鈴木正久牧師の名で発表したものです。略して「戦争責任告白」「戦責告白」とも呼ばれます。この戦責告白の中で「地の塩、世の光」の表現が使われている箇所がありますので、ご紹介したいと思います。
《「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。
まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。…》。
いま引用した文章の冒頭に、《「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした》とありました。「地の塩、世の光」であるはずの教会が戦争に同調し、戦争にすすんで協力した罪責について述べられています。戦争中、日本のキリスト教会の多くが「空気」の支配下に置かれてしまっていたのです。
私たち日本のキリスト教会は戦時中、「地の塩、世の光」であることが「できなかった」。私たちはその過去の過ちの歴史を心に刻む必要があると思います。
個人の尊厳とその光
《あなたがたは地の塩である》《あなたがたは世の光である》――。注目したいのは、これらの言葉が現在形で記されているところです。いつか「地の塩となる」「世の光となる」と未来形で記されているのではないのですね。あなたがたはいますでに「地の塩、世の光である」と語られているのです。
《あなたがた》は、「教会」の意味に受け止めることもできますし、また、「私たち一人ひとり」を指すものとして受け止めることもできるでしょう。いまという時代を生きるにあたって、私は、後者の「私たち一人ひとり」の意味に、すなわち「個人」の単位でこの言葉を受けとめることが重要であると考えています。
《あなたがたは地の塩である》《あなたがたは世の光である》。塩もともし火も私たちの生活に欠かせないものであるように、「神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえのない=替わりがきかない存在である」。私たちがこの視点に立ち還ってゆくことが、空気の支配に抗い、主体性を取り戻してゆくための根源的な力になってゆくと考えるからです。
私たちは決して「大勢の中の単なる一人」ではありません。神さまの目から見て、「かけがえのない一人」です。この一人ひとりの代替不可能性(かけがえのなさ)は、言いかえると「個人の尊厳」ということです。私たち一人ひとりが替わりがきかない「個」に立ち帰り、その尊厳を取り戻そうとしてゆくことが、空気の支配に立ち向かう最大の力となってゆくのだと信じています。空気の支配の対極にあるもの、それが個人の尊厳です。
この尊厳の光は、神さまから私たち一人ひとりに与えられています。この光は、神さまご自身が与えて下さっている、決して失われることのない光です。この光は、最小単位であると同時に、最大の力を秘めています。
《あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》(16節)との主イエスの言葉は、すでにともされているこの尊厳の光を、さらに人々の目にはっきりと輝くものとしなさい、との呼びかけの言葉としても受け止めることができるでしょう。
世にあって星のように輝き
私たちの社会は、いまはこの光がはっきりと目に見えるようにはなっていません。むしろこの尊厳の光は隠され、ないがしろにされ、見出すことができづらいものとなっています。だからこそ、私たちは率先して、この光をはっきりと人々の前に輝かせてゆかねばならないのではないでしょうか。
本日の聖書箇所フィリピの信徒への手紙2章12-18節に次の言葉がありました。《そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、/命の言葉をしっかり保つでしょう》(15-16節)。
私たち一人ひとりは、この暗い世にあって、《星のように》輝いているのだと述べられています。神さまの目から見ると、私たち一人ひとりの存在は、そのように輝いて見えているのです。
いま「地の塩、世の光である」者として、これからも、それぞれの使命と役割を果たしてゆけますように願います。