2021年6月20日「イエス・キリストの恵み」

2021620日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二8115

イエス・キリストの恵み

 

 

受けるよりは与える方が幸いである

 

よく知られた聖書の言葉の一つに、《受けるよりは与える方が幸いである》という言葉があります。聖書を読んだことがない方でも、どこかで聞いたことがあるように思う言葉の一つではないでしょうか。人から何かを「受け取る」ことよりも、人に「与える」ことの方が幸せであることを伝える言葉です。愛唱聖句にしてらっしゃる方も多いことでしょう。

 

この言葉は新約聖書の使徒言行録の中に記されています。福音書のイエス・キリストの言葉の中に出てくるわけではないのですが、主イエスが生前おっしゃった言葉として、間接的に引用されています。該当箇所を引用してみたいと思います。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました(使徒言行録2035節)。ちなみに、ここで主イエスの言葉を引用しているのはパウロという人物です。

 

 

 

アンパンマンの顔

 

「与える」こととの関連で、日本に住む多く人が思い起こすのは、アンパンマンの姿ではないでしょうか。アンパンマンの絵本とアニメは赤ん坊からお年寄りまで、多くの人々に愛され続けています。 

皆さんもよくご存じの通り、アンパンマンは自分の顔をちぎってお腹が空いている人に与えます。その分、アンパンマンの顔は無くなってゆき、元気は失われてゆきます。しかしそれでも困っている人を目の前にすると、アンパンマンは自分の顔を与えずにはおられない。それが、アンパンマンというキャラクターですよね。

 

絵本の第一作『あんぱんまん』のあとがきで、著者のやなせたかしさんがこのように述べていらっしゃいました。

《子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです》(フレーベル館、1976年)

 だんだんと顔が無くなってゆくアンパンマンは、確かにかっこよくはないですよね。見方によっては、何とも気の毒で、情けない姿にも見えます。

 

 このアンパンマンの姿からも感じられることは、「与える」という行為は、「無くなる」ことを伴うということです。アンパンマンはまた工場でジャムおじさんに新しい顔を補充してもらえるのだとしても、今日という日に限って言えば、顔はどんどん減り続けています。そうしてついには、すっかり無くなってしまうこともあります。アンパンマンの顔は本来、無尽蔵に湧いて出てくるものではなく、限りあるものなので、私たち読者の胸を打つのでしょう。

 

 

 

与えることは失うことを伴う

 

与えることと無くなることと切り離すことはできない。与えることには失うことを伴います。ですので、私たちにとって、与えることは時にとても難しいものとなります。私たちが持っているものには限りがあるからです。財産も、賜物も、また人生の時間も……。

 もし魔法のように財産や賜物や時間が無尽蔵に湧き出て来るのであれば、私たちはいくらでも惜しまずに与えることができるでしょう。けれども、現実はそうはならない。私たちの手元にあるものには限りがあり、私たちの内にはそれらを惜しむ気持ちが出てきます。 

 

と同時に、だからこそ、人のために自らのものを人に与える姿は尊いのだということができますね。たとえ自分の内から何かが失われても、相手のためになれば、その人が喜んでくれるのであれば、それでよい。そのような振る舞いを日々の生活の中で実践し続けることは、私たちにとって難しいことでもありますが……。

 

 

 

主は貧しくなられ

 

受けるよりは与える方が幸いである》――。冒頭で、この言葉はイエス・キリストご自身の言葉であると述べました。聖書において、「与える」行為は、非常に大切なものとされています。

またそして、聖書が提示する「与える」ことは、やはり「失う」ことと切っても切り離せないものです。何より、まず第一に、神さまご自身がそのようなかたちで与えることを実現してくださったことを聖書は伝えています。

 

 本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙二89節にはこのような言葉がありました。《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》。

 

 ここでは、イエス・キリストの恵みを語るにあたって、その恵みによって私たちが《豊か》になったのみならず、その分、主イエスご自身は《貧しく》なられたことが語られています。

 

 考えてみると、不思議な表現ですね。私たちは、神さまの恵みは限りないもの、無尽蔵なものであるとのイメージを心のどこかで持っているのではないでしょうか。そのイメージは間違いではないでしょう。ただし、ここで語られる恵みはそのようなものではありません。与えた分、無くなってしまうものとして、与えた分、自らは貧しくなられるものとして、語られているのです。どういうことでしょうか……?

 

 この不思議な表現がなされているのは、「神が人となられた」ことが関わっています。聖書は、神の御子が肉体をとって人間となられた、それがイエス・キリストであると受け止めています。神が人間となられたということは、言い換えますと、全地全能である神さまの立場を自ら捨てられたことを意味します。そうして、私たちとまったく同じ肉体をもち、同じ現実を生きることを選ばれた。その肉体とは、弱く傷つきやすい肉体であり、やがては生き物としての死を迎える有限な体です。

 

 主イエスは生前、限りある存在として、ご自分の内にあるものを人々のために与え尽くしてくださったのです。《受けるよりは与える方が幸いである》――。この言葉は、主イエスご自身が生前、どのように生きられたのかを端的に表している言葉であると受け止めることができるでしょう。

主イエスは生前、見返りを一切求めることなく、隣人のために生きようとされました。そうして自らのうちにあるものを与え尽くした末に、生涯を閉じられました。

 

 イエス・キリストの生涯を謳った讃美歌『馬槽のなかに』(讃美歌21280番、作詞:由木康)に、次のような歌詞があります。3節《すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ》。

 すべてのものを与え尽くしたその先に待っていたのは、十字架の死でした。イエス・キリストのご生涯は、見方によっては、まったく報われない生涯、とても気の毒な一生であったと感じられるものであるかもしれません。

 

 

 

私たちが限りあるものを分け合うことによって、限りのない愛があらわれる

 

主イエスがそのご生涯を通して私たちに伝える姿勢とは、限りあるものを、互いに分かちあう姿勢です。限りあるものであるからこそ、私たちはそれを互いに分かち合ってゆくことができます。

 

たとえば、聖書において、パンは「裂いて」分け与えられるものです(アンパンマンと一緒ですね!)。一つのパンが裂かれ、周囲の人々に与えられてゆきます。ひとつのパンを裂いて分け合うと、確かに自分の取り分は少なくなってゆきますが、その分、目には見えない恵みが豊かに増し加えられてゆくのだと聖書は語ります。それは、神の愛です。

この神さまの愛は、限りのあるものではありません。神さまの愛は私たちの目には見えませんが、いつまでも永続するものです。私たちが限りあるものを分け合うことによって、限りのない愛があらわれるのです。

その意味で、与えることは失うことであると同時に、神さまから、まことの恵みが与えられることだと受け止めることができるでしょう。私たちにとって与えることはもはや、単なる自己犠牲を意味しているのではありません。私たちが互いに分かち合うほどに、私たちの間に神さまの愛が満たされてゆくからです。

 

 

 

イエス・キリストの恵み

 

 最後にもう一つ、大切なことを述べたいと思います。それは、主イエスがそのご生涯の最後に、ご自身の命を私たちのために与えてくださったことです。

 

主は十字架におかかりになることによって、その限りある命を、私たちにささげられました。最も大切な、ただ一つの限りある命を、私たちのために与えて下さったのです。そのことを通して、限りのない神さまの愛が私たちに示されました。このイエス・キリストの恵みは、いまも私たちを、この世界を包んでいます。

 

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》。

 

 どうぞ私たちが互いに自らのものを分かち合い、私たちの間をまことの豊かさ――主イエスの恵みと神さまの愛で満たしてゆくことができますように。