2021年7月11日「御言葉を聞いて行う」

2021711日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:使徒言行録191320

御言葉を聞いて行う

 

 

H・Tさん

 

 73日(土)、教会員のH・Tさんが天に召されました。99歳でした。75日(月)午前11時より、花巻教会にてご葬儀を執り行いました。ご葬儀は新型コロナ感染対策のため、ご家族の方々のみで行い、教会からは代表して数名の方々に出席いただきました。

ご遺族の皆様の上に、Tさんにつながるお一人お一人の上に、神さまの慰めがありますようお祈りいたします。

 

Tさんは19472月に花巻教会に転入されて以来、長きにわたって教会を支え続けて下さいました。会計担当の役員もつとめられ、会計面でも教会を支えて下さいました。当教会牧師であった𠮷川文子先生が隠退されてからは、𠮷川先生にかわって教会の看板の題字を書いて下さいました。毎週Tさんが説教題を書き、それをお連れ合いのTさんが届けて下さっていたと伺っております。スクリーンに映していますのは、Tさん筆による看板の題字の実際の写真です。2000年に発行された教会だよりに貴重なお写真が1枚、掲載されていました。

 

私がはじめてTさんにお会いしたのは201212月のアドベント。花巻教会への赴任が決まり、顔合わせをかねてはじめて説教のご奉仕に伺った日のときでした。当時は、TさんとM・TさんとH・Kさんが会堂の一番前の席に並んで座っていらっしゃいました。私が説教をしている間、Tさんがずっとニコニコしながら話を聞いて下さっていたお姿が強く心に残っています。花巻教会での初めての説教のご奉仕で私も緊張していましたが、Tさんの満面の笑みを通して、教会の皆さんが私をあたたかく迎え入れて下さっていることを実感することができました。とても嬉しく、また、心強く思いました。今回、そのときのことを改めて思い起こし、感謝の想いを新たにしております。

 

スクリーンに映していますのは、施設に入居していらっしゃったTさんを2018年に訪問した際のお写真です。Tさんは歌うのが大変お好きな方でした。その日も教会員の皆さんと共に、Tさんの愛唱賛美歌を何曲も歌いました。

次に映しますのは、2019年にお訪ねした際のお写真です。昨年は新型コロナの影響により施設に伺うことができませんでしたので、私がTさんに直接お会いしたのはこの日が最後となりました。

Tさんはいま神さまのもとでお連れ合いのTさんやご家族をはじめ、愛する方々と再会し、平安の中で憩っていらっしゃることと思います。神さまのみもとでTさんとまた再び会える日を希望とし、残された私たちも支え合いながら共に歩んでゆきたいと願います。

 

 

 

九州で記録的な大雨、東京都で4度目の緊急事態宣言

 

昨日の未明から、活発な梅雨前線の影響により、九州南部が記録的な大雨となっています。鹿児島県や宮崎県の各地で観測史上1位の降水量を記録したと報道されています。避難情報の中で最も危険度の高い「緊急安全確保」が発令された地域もあります。どうぞ人々の生命と安全とが守られますよう祈ります。

 

先週は静岡県と神奈川を中心に、豪雨による被害がもたされました。熱海市の伊豆山地区起こった大規模な土石流災害では、いまも19名の方の行方が分からないままになっています。皆さんも心を痛めていらっしゃることと思います。どうぞ1日も早く消息が分かりますように、また、懸命に救出作業に当たられている方々の安全が守られますように願うものです。

 

また、明日から東京都に4度目の緊急事態宣言が出されます。期間は明日から822日まで。宣言が出されることにより、暮らしに甚大なる影響が出る方々がさらに増えることでしょう。新たな変異株の感染拡大も懸念される中にあって、どうぞ一人ひとりの健康と生活とが支えられますよう、少しでも状況が収束へと向かうよう願います。

 

 

 

実によって木を知る

 

先日、ツイッターで偶然、お寺の掲示板の画像を目にしました。スクリーンに映している画像をご覧ください。《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》@renkouzan 2018107日投稿)

東京の妙円寺というお寺の掲示板の言葉です。ノンフィクション作家の久田恵さんの言葉であるそうです。

 

まさにその通り、と思わせられる言葉ですね。どれだけ立派なことを言っていても、やっていることにこそ、その人の内実が現れます。皆さんもこの標語を読んで、テレビの中のある人の顔(!?)や、色々な人の顔が頭に浮かんでいるかもしれません。

と同時に、では自分自身はどうなのだろう、とわが身を顧みてドキッとさせられる言葉でもあります。言葉だけになってしまっていること、実際の行動が伴わないことは、私たち自身にもよくあることです。また、「言っている」ことと「やっている」ことが矛盾していることも、私たちにはよく生じてしまっているものではないでしょうか。

 

 聖書においてもこの標語と共通する内容の言葉があります。たとえば、先ほど読んでいただいたマタイによる福音書71529節に、「羊の皮を被った狼」「実によって木を知る」とのイエス・キリストの言葉がありました。

 

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。/あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。/すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。/良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。/良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。/このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける1520節)

 

「羊の皮を被った(着た)狼」は慣用句にもなっている表現です。表面上はいかにも穏やかで親切、いわゆる「いい人」を装っているが、その内に悪意を隠し持っている人のことを表す言葉です。悪しき意図をもった人は「悪人」の顔をして近寄ってこない。まさにその通りですよね。悪意をもった人は、一見「いい人」の顔をして私たちに近寄ってくるものです。時には立派な言葉や美しい言葉を並べて人々の関心を引こうとすることもあるでしょう。主イエスはそのような人々によくよく気を付けなさい、と警告を発しておられます。

 

主イエスはその人の内実を見分けるにあたって、「その実で見分ける」ことをアドバイスしておられます。木に実る、果実です。《すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。……あなたがたはその実で彼らを見分ける1720節)

ここでの《実》とは、その人の実際の振る舞いや生き方を指していると受け止めることができるでしょう。先ほどの標語の表現を踏まえると、「言っていることではなく、やっていること」です。行動の果実にこそ、その人の内実がはっきりと現れます。果実を見ればその樹が分かるように、その人の「やっていること」を見れば、その人のことが分かる。そのようにして相手の心の中にあるものを適切に見分けるように、と主イエスは述べておられます。

 

 

 

行動の果実なくしては

 

本日の聖書箇所である使徒言行録191320節もこのことに通じる、或る意味、寓話的な物語であると言えるでしょう。主イエスの弟子たちが「イエス・キリストの名によって」悪霊を追い出したり奇跡を行っているのを聞きつけた人々が、それを真似して悪霊を追い出そうとしてひどい目に遭うお話です。

 

ユダヤ人の祭司長スケワという人に7人の息子たちがいました。彼らは悪霊に取りつかれた人に向かって、《パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる》13節)と言って悪霊を追い出そうとします。しかし彼らは反対に悪霊に言い返されてしまいます。《イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ》15節)?  

悪霊には、彼らがただ表面的な言葉によって自分を追い出そうとしていることが分かっていたのですね。そこにあるのは表面的な言葉だけで、内実は伴ってはいなかったのです。7人の息子たちは悪霊に取りつかれた男性に飛びかかられて、ひどい目に遭い、その家から逃げ出してしまいます16節)

 

この寓話的な物語からも、私たちの言葉には内実が伴っていることが大切であることを思わされます。ここでの内実とは、信仰に基づいた振る舞いであり、その生き方であると受け止めることができるでしょう。行動の果実なくしては、イエス・キリストの名だけを唱えても、信仰的な言葉を並べても、目の前の状況がより良い方向に改善してゆくことにはつながらないのです。

 

私自身、自分に向けられている言葉として、このことを心に留めたいと思います。牧師に託された務めの一つは、毎週の礼拝で説教を語り、聖書の言葉を取り次ぐことです。ただし、それが言葉だけのものになってはいないか、あるいは、聖書の御言葉と実際の振る舞いとが乖離してしまったものとなっていないか、常に自身を顧みる必要があることを思わされます。

 

 

 

御言葉を聞いて行う

 

 先ほど参照したマタイによる福音書71529節は、「家と土台」のたとえで締めくくられます。主イエスはここで「家と土台」のたとえを用いて、「御言葉を聞いて行う」ことの大切さを伝えて下さっています。主イエスの教えを聞くだけにとどめておくのではなく、それらの教えを日々の生活で実行することの大切さを語って下さっているのですね。

 

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである2425節)

 

 主イエスはここで、ご自分の教えを「聞いて行う」人のことを、固い岩の上に家を建てた人にたとえておられます。たとえ川があふれ風が吹いても、その家は倒れることはない。確固とした土台があるからです。

聖書の教えと自身の振る舞いとが一致しないでいる内は、私たちの生活はまことに不安定なものとなってしまいます。土台を見失っているので、絶えずユラユラと揺れ動いています。何か困難に遭遇すると、たやすく傾いたり崩れてしまうこともあるかもしれません。と同時に、それが私たちの率直な姿であるのではないでしょうか。

 

主イエスの愛の教えと実際の振る舞いとがなかなか一致しない私たちではありますが、少しずつでもそれが一致してゆくことを願うものです。そうすることで、私たちは日々の生活の中に確固とした基盤を築いてゆくことができるでしょう。

またそしてその土台は、自身を支えるものとなるのみならず、周囲の人々を支えるものともなってゆくのではないでしょうか。御言葉と振る舞いとが合致することによって形作られるその確たる土台は、安息を必要としている人の支えとなり、また、助けや支援を必要としている人の支えとなってゆくことでしょう。

 

 

 どうぞ私たちが御言葉を聞いて行う者となってゆくことができますように、またそのために日々自らの在り方を顧みてゆくことができますよう、聖霊の助けと導きを祈り求めてゆきたいと思います。