2021年7月18日「愛された者と呼ぶ」
2021年7月18日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:ローマの信徒への手紙9章19-28節
「愛された者と呼ぶ」
厳しい暑さ、変異株の急増、オリンピック開幕
梅雨が明け、ここ数日厳しい暑さが続いています。昨日は花巻も35度の猛暑日でした。福島市では今年一番の暑さとなる、36・5度を記録したとのことです。全国各地で35度を超える猛暑日を観測、今年一番の暑さとなりました。
今日も昨日と同様、岩手では昨日以上に暑い一日になるとのことです。花巻では36度、盛岡では37度まで上昇するとのことで、危険な暑さです。皆さんも水分をこまめに補給し、熱中症にはくれぐれもご注意ください。マスクをしているとさらに熱中症の危険性が高まりますね。説教中はマスクを外していただいて結構ですので、適宜マスクを外しつつ、礼拝にご参加いただければと思います。
東京で4度目の緊急事態宣言が発令されてから6日ほどが経ちました。けれども新型コロナウイルスの感染は全国的にまた増加傾向にあります。東京では昨日新たに1410人の感染が確認され、4日連続で1000人を超えました。特に懸念されるのは、デルタ株などの感染力の強い変異株が急増していることです。岩手でもこれから変異株の影響が強くなってゆくことでしょう。
そのような中、今週の23日からいよいよオリンピックが始まります。感染爆発が懸念される中でのオリンピックの開幕。皆さんも不安を覚えていらっしゃることと思います。出場される選手の皆さん、関係者の皆さんをはじめ、どうぞ一人ひとりの健康と安全とが守られますよう、切に願うものです。
《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく……》
この7月から9月にかけて、私たち花巻教会は3名の方の洗礼(バプテスマ)を予定しています。洗礼を志願されている皆さんの上に主のお支えと導きがありますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
聖書の中には、キリスト教が誕生して間もない頃、洗礼式の中で実際に読み上げられていたとされる言葉が残っています。いまからご紹介するガラテヤの信徒への手紙の一節もその一つです。
ガラテヤの信徒への手紙3章28節《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。洗礼を受けてクリスチャンになることを志願する人は、この言葉を告白して、洗礼を受けたと言われています。
この信仰告白の言葉において印象的なのは、キリストに結ばれている者はもはや、民族や国籍からも、社会的な身分からも、性別からも自由であると宣言されているところです。
現代に生きる私たちにとってもなお、この告白文は新しさを感じさせるものですね。現代の私たちもいまだ民族や国籍の違いから自由ではないからです。また、職業や社会的な身分からも、男性か女性かの性の違いからも、自由ではありません。いまも多くの人が様々な不自由さや精神的な苦痛を感じながら生活しています。
もちろん、自分の出自や国籍など、自分という人間を構成する要素に誇りをもつことは大切なことです。これらの要素をなしに、「わたし」という人間はありません。
一方で、それらの要素が時に私たち自身を縛ったり、他者にレッテルを貼るために利用されてしまうこともあります。私たちを構成する大切な要素が、偏見や敵意の壁を作るために利用されてしまうこともあるのです。
国籍で人を判断してしまう。職業で人を判断してしまう。性別で人を判断してしまう、など。他にも、年齢で人を判断してしまう。学歴で人を判断してしまうなど、さまざまにあるでしょう。そのように、属性で人を判断することは、時に差別や偏見にもつながってしまうことです。目の前にいる人を属性で判断してしまって、人の人格、その人自身を受け止めることができていないからです。
差別や偏見の激しい時代の中で
これらのことを思います時、今から2000年近く前のイスラエル社会において、この洗礼式の告白文がどれほど新しいものであったか。現代の私たちが想像する以上に、革新的な言葉だったのではないかと思います。キリスト教が誕生して間もない当時は、いまの私たちの社会よりさらに差別や偏見は激しい時代であったからです。
たとえば、当時のイスラエル社会では、ユダヤ人以外の外国の人に対する差別が非常に激しかったと言われています。また民族間の差別の他にも、職業や社会的な身分による差別、女性に対する差別も激しい時代でした。古代のイスラエルは男性中心的な社会で、女性は日々の生活のさまざまな場面において差別的な扱いを受けていました。
視点を変えますと、だからこそ、先ほどの信仰告白文のメッセージは、不自由さや苦しみを抱えながら生きていた人々の心を力強く捉えたのではないかと思います。《もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。教会が伝えるこの使信は、貧困や差別に苦しむ人々の心を真っ先に捉え、その希望の光となっていったのではないかと想像いたします。
ユダヤ人と異邦人の区別の強調
先ほど、キリスト教が誕生して間もない頃のイスラエルの社会では、外国人に対する差別が激しかったと述べました。ユダヤ人以外の外国人を意味する聖書特有の言葉に、「異邦人」という言葉があります。
「異邦人」は元々は、特に侮蔑的なニュアンスをもった言葉ではありませんでした。けれども、社会がだんだんと排他的になり、ユダヤ人と外国人の区別を強調するようになるにつれ、この言葉に差別的なニュアンスが込められるようになっていったようです。
イエス・キリストが生きておられた時代もまた、ユダヤ人と異邦人の区別が非常に強調されていた時代でした。主イエスが生きておられた時代およびキリスト教が誕生して間もない時代は、社会全体が硬直化し、排他的になっていた時代であったのです。極端な自国民中心主義が吹き荒れる状況の中で、キリスト教はその産声を上げました。
ユダヤの人々は旧約聖書が記された古代より、「自分たちは神さまによって選ばれた民族なのだ」という認識をもっていました。「選民意識」という言葉もありますが、そういう確固とした意識をもっていたのですね。と同時に、この意識は場合によっては、自分たち以外の人々を神に「選ばれていない存在」として軽んじる危険性をはらんでいるものでもありました。旧約聖書の中には自分たちが選ばれた民であることを強調する視点(申命記など)と、選民意識を批判する視点(ヨブ記、ヨナ書など)との双方が共存しています。
ユダヤ人と異邦人の「区別」が過度に強調されてしまうと、現代の私たちの視点からすると、「差別」へつながってしまうこともあり得るでしょう。そうして実際、すでに述べましたように、イエス・キリストが生きておられた時代、ユダヤの一部の人々によって異邦人に対する激しい差別がなされていました。
たとえば、現代の私たちの社会においても、在日外国人の方々への差別があります。そのような差別が当時、より直截的なかたちで存在していたのですね。もちろん、これはあくまで2000年前のイスラエルの社会においての話であって、現在もそうであるということではありません。
「同じ一人の人間」として
改めて、冒頭でご紹介したガラテヤの信徒への手紙3章28節をお読みしたいと思います。《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。
イエス・キリストに結ばれた人はもはや、ユダヤ人と異邦人の違いからも自由である。身分の違いからも、性別の違いからも自由である。では、私たちにとって、どのような視点が大切となるのでしょうか。それは、「同じ一人の人間」として他者を見つめる視点であると受け止めています。
民族や国籍、職業や性別の壁を超えて、同じ一人の人間として互いの存在を見つめ、受け止めあうことが私たちに求められているのではないでしょうか。
イエス・キリストは、私たちを「一人の人間」として受け入れてくださっている方です。主イエスはあなたを国籍や出自で判断せず、職業でも社会的な身分でも判断せず、性別でも判断はなさらない方です。あなたを年齢で判断はなさらず、現在の心身の状態でも判断はなさらない方です。ただあなたを、あなたそのものとして受けとめ、重んじてくださっている方です。
「神に愛された一人の人間」として
私たちにとって大切なこと、それは他者を「同じ一人の人間」として受け止めることだと申しました。最期にもう一つ、聖書が私たちに伝える大切な視点をお話したいと思います。それは、周りにいる一人ひとりは「同じ一人の人間」であり、そして「神に愛された一人の人間」であるという視点です。
聖書は、神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえのない存在であることを伝えています。かけがえがないとは、替わりがきかないということです。神さまはわたしたち一人ひとりを「かけがえのない=替わりがきかない」存在として愛してくださっていることを伝えています。
私たちの隣り人は自分と同じ一人の人間であるとともに、神の目に大切な一人の人間でもあるのです。そのことを心に刻んで、自分自身と他者とに向かい合ってゆくことが私たちに求められているのではないでしょうか。
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙9章19-28節の中に、次の言葉がありました。《神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。/ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。/『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」》。
手紙の著者であるパウロは、旧約聖書のホセア書の言葉を引用しつつ、神さまはイエス・キリストを通して、ユダヤ人だけではなく異邦人にも救いをもたらしてくださったことを語っています。イスラエルの社会においてこれまで、異邦人は神に「選ばれていない存在」、神に《愛されなかった者》であると一般に受け止められていました。しかしいまや、イエス・キリストを通して、まったく新しい見方がもたされています。イエス・キリストに結ばれて、異邦人も、《愛された者》と呼ばれている。キリストに結ばれたすべての人が、神から《愛された者》と呼ばれるのだとパウロは告げています。
神さまはあなたを生まれでは判断せず、職業でも社会的な身分でも判断せず、性別でもセクシュアリティでも判断せず、現在の心身の状態でも判断なさいません。ただ、あなたをあなたとして、あるがままに受け止めてくださっています。あなたという存在をかけがえのない=替わりがきかない存在として、愛してくださっています。クリスチャンであるということは、この神さまの愛といつも固く結ばれていることであると私は受け止めています。
どうぞ私たちが互いを神の目に大切な一人の人間として受け止め、重んじあってゆくことができますように、そしてそのことを通して、私たちの生きるこの社会に和解と癒しがもたらされてゆきますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。