2021年8月29日「復活の命の希望」

2021829日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一153552

復活の命の希望

 

 

8道県で緊急事態宣言が発出、アフガニスタンでテロ事件

 

一昨日の827日、新たに8道県(北海道、宮城、岐阜、愛知、三重、滋賀、岡山、広島)に緊急事態宣言が発出されました。宣言の期限は912日まで。これで計21都道府県に緊急事態宣言が出されたことになりました。岩手は対象地域にはなっていませんが、812日より県独自の緊急事態宣言が出されています。感染力の強いデルタ株が猛威を振るう中、この2週間で医療提供体制の逼迫をいかに解消してゆけるかが最大の焦点となっています。

療養中の方々の上に主の癒しがありますよう、一人ひとりの健康と生活が守られますよう、引き続きご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

826日、アフガニスタンの首都カブールの空港で爆弾テロがありました。アフガニスタン政府当局によると、少なくとも170人が亡くなり、200人以上が負傷したとのことです。イスラーム主義組織タリバンが国家運営の実権を掌握し、国が大混乱に陥る中での、市民を巻き込んだ悲惨なテロ事件。皆さんも心を痛めていらっしゃることと思います。犯行に及んだのはIS(イスラム国)の支部組織「ISホラサン州」だとされています。この度実権を掌握したタリバンとはまた別の組織です。イスラーム急進主義的な立場である点において共通していますが、両者は対立関係にあります。「ISホラサン州」は、タリバンが昨年2月駐留米軍の撤退を目的としてアメリカと和平合意を結んだことを「背教的」であるとして激しく批判していたとのことです。

 

アメリカ政府は翌日27日、アフガニスタン東部ナンガルハル州で無人機による報復攻撃を行いました。テロ行為は決して容認することはできません。と同時に、そのテロに対する報復攻撃も容認することはできないものです。報復はさらなる報復を生み出し、憎しみはさらなる憎しみを生み出します。武力によっては紛争は解決しない、このことは2001911日にアメリカ同時多発テロが起こって以降の終わらない報復の連鎖、混迷を極める状況が証明していることです。この負の連鎖を断ち切り、武力によるのではない解決の道を模索することが国際社会に求められています。またそして、タリバンが実権を掌握したことにより生命の危険を感じている市民の安全の確保、国外に脱出し難民となってしまった人々の支援が現在の何よりの急務であるでしょう。軍事攻撃ではなく、適切な人道的支援がなされることを切に願います。

 

イスラーム(イスラム教会)において、テロ行為や武力闘争を行っているのはごく一部の人々です。イスラームは本来、平和をとても大切にする宗教・教えであることを心に留めたいと思います。イスラム教徒の多くの人々は武力ではない解決の仕方を願い、この地に和解と平和が訪れることを願っています。それは私たちキリスト教徒も同様です。イエス・キリストは《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる(マタイによる福音書2652節)とおっしゃいました。主イエスは武力による解決をはっきりと否定しておられます。いま一度、この主の御言葉に心を向けたいと思います。

 

 

 

身体のよみがえり

 

 キリスト教には、「身体(からだ)のよみがえり」という不思議な教えがあります。礼拝の中でごいっしょにお読みする使徒信条でも、最後のところで《身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず》との文言が出てきます。終わりの日に、私たちが体を伴って復活することを示す言葉です。

 

 ここで不思議に思うことは、なぜ「身体」が出てくるのかということですね。死んでしまったら私たちの身体は消えてしまうはずなのに、なぜだろうと思われる方もいらっしゃることでしょう。

 ここに、聖書の人間観の特徴があります。聖書は私たち人間存在を、心も体も切り離せないものとして捉えています。心も体も魂も合わさって、「私」という一人の人間であると受け止めているのです。

 

 

 

この体も大切に

 

この背後には、目に見えない心や魂だけではなく、目に見える私たちの体も神さまが創ってくださったものなのだとの考え方があります。神さまがお創り下さったものであるので、私たちは体も大切にするのです。そして神さまがお創り下さったかけがえのないこの体であるので、終わりの日に体を伴って復活をするのだと受け止められ続けてきたのでしょう。

 

 先週の礼拝の中で、「目に見えないものに対する希望」についてお話しました。聖書は目に目えるものではなく、見えないものに目を注ぐことの大切さを伝えていることをお話しました。《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(コリントの信徒への手紙二418節)。そしてその永遠に存続する、目に見えない大切なものとは、信仰と希望と愛であることをお話ししました(コリントの信徒への手紙一1313節)

 聖書は、目には見えない信仰と希望と愛に目を注ぐことを私たちに教えてくれていますが、目に見えるものを軽んじているわけではありません。むしろ、目に見えるもの――私たちのこの体、自然、被造世界全体を大切に、守り育むことを教えています。

目に見えるものは確かに、いつかは過ぎ去ってゆくものです。私たちのこの体もいつかこの地上から無くなる日が来ます。しかしその最後の日まで、私たちは神さまが与えて下さったこの体を大切にし、慈しんでゆく。それも、聖書が私たちに伝えてくれている重要なメッセージです。自分の体を大切にすることは、自分自身を愛し隣人を愛する姿勢ともつながっていることでしょう。

 

 

 

心も体も魂もあわさって、その人自身

 

先ほど心も体も魂も合わさって、「私」という一人の人間となると聖書は捉えていることをお話しました。これは私たちの普段の感覚からも実感できることなのではないでしょうか。

 

私たちは、愛する人々の目には見えない内面を愛しています。と同時に、その人の笑顔や、声、体も大切に思っています。愛する人のことを思い浮かべるとき、自然とその人の顔や声色、面影を想い起こすことでしょう。心も体も魂も、それらが全部合わさって、いとおしいその人の存在を創り出しています。かけがえのない、その人らしさを形づくっています。

もちろん、私たちの体は刻々と変化し、そしていつかは消えて無くなってしまうものです。しかし、体を通して伝えられたその人らしさ、「その人がその人であること」の確かさは失われず、私たちの記憶に刻印され続けます。

キリスト教は「身体のよみがえり」ことを大切にしてきたことを先ほど述べました。体もまたその人の「かけがえのなさ」を形づくっているのであるから、終わりの日に魂だけではなく体も復活するとの考えが教会で大切に受け継がれてきたのだと受け止めています。

 

 

 

「もし天国で君と会ったなら……」

 

 終わりの日に体もまたよみがえる。では、どのように……? との疑問が私たちの内にわき上がってくるかもしれません。私たちは、どんな体で復活するのでしょうか。一番若々しかったときの体で復活するのでしょうか、もしくは晩年の体で復活するのでしょうか。できれば若々しい体がよい(!?)と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 キリスト教の歴史においても長らくこのことが議論になってきました。聖書の中には、はっきりとその説明が書いているわけではないからです。冒頭でお読みしたコリントの信徒への手紙一でも、象徴的なイメージで語られるにとどまっています。《わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。/最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます(コリントの信徒への手紙一155152節)

 

 またそして、私たちが知りたく思うのは、神さまのもとに召された愛する人々と再会できるのであろうか、ということです。再会できると信じているとしても、いざ再会した時、私たちは互いに互いが分かるのであろうか。聖書が語るように、私たちが《今とは異なる状態》に変えられるのであれば、いとおしく思っていたその人の面影はもはや失われてしまっているのではないか、とふと不安を覚える方もいらっしゃるかもしれません。

 

 この聖書の言葉を読むとき、思い起こす歌があります。エリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン(天国の涙)』という曲です。愛する息子を、幼くして不慮の事故で亡くしたクラプトンが、その悲嘆の中で記した歌詞がもととなっていると言われています。歌の歌詞は次のように始まります。

 

Would you know my name

If I saw you in heaven

Would it(you) be the same

If I saw you in heaven

I must be strongAnd carry on

'Cause I know I don't belong

Here in heaven

(もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えていてくれるかい。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるかい。僕は強くならなくては、そして生き続けていかなければ。だって僕は、この天国にいるような人間ではないから……)》

 

天国で息子と再会した時、彼は自分を覚えていてくれるだろうか。以前と同じ姿で、同じ関係でいてくれるのだろうか……。誰しもがふと感じる根源的な疑問を言葉にしてくれている歌詞であると思います。これらの言葉から、天国にいる愛する息子が自分からどんどん遠い存在となってしまうのではないか、とのクラプトン氏の悲しみや不安が伝わってきます。この歌のタイトルは『ティアーズ・イン・ヘブン(天国の涙)』ですが、どれほどの涙と共に、クラプトン氏はこの詞を書いたのであろうか、と思います。同時に、その深い悲しみの中で、地上に遺された自分は、しっかりと生き続けねばならないとの決意も歌われています。

 

 

 

復活の命の希望 ~「私が私であること」は失われない

 

「もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えていてくれるかい。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるかい」……聖書にもこの問いに対するはっきりとした答えが記されているわけではありません。私たちにとってそれは、いまだ謎であり続けています。当然のことでありますが、いま生きている人の中で、死を実際に経験した者はいないからです。

けれども、「その人がその人であること」は、決して失われることはない。死をもっても、そのしるしは消え去ることはない――その希望が私たちには与えられています。その希望を端的に表わしている言葉が、「身体のよみがえり」です。

この「身体」という語の中には、愛する人の笑顔、声、手のあたたかさ、この世界でその人と過ごした大切な記憶、それらすべてが込められています。私たちにとってかけがえなく大切なそれらの部分は、消え去ってしまうのではない。終わりの日に、それらのすべてが、神さまのもとへ抱きとめられる。神さまの復活の命の中に抱き入れられ、記憶される、本日はそのようにご一緒に受けとめたいと思います。

 

先ほどお読みしたコリントの信徒への手紙一の続きでは、このことが《この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る》と表現されています1554節)。朽ちるべきものとは、私たちの身体です。私たちの体はいつかは消え去ります。その意味で、はかないものでもあります。対して、朽ちないものとは、永遠の命であられるイエス・キリストの体です。私たちの体ははかないものであっても、イエス・キリストの体はそうではない、と聖書は語ります。朽ちることのないキリストの体が、終わりの日に、私たち一人ひとりの心と体と魂を抱きとめてくださるでしょう。

 

 

キリストの復活の命に抱かれる中で、「私が私であること」のかけがえのなさは、失われることなく守られてゆくのだと信じています。終わりの日に、キリストの命の中に抱かれる中で、私たちはまた再び、いとおしい面影を見出すことができるでしょう。聖書は、その復活の命の希望を私たちに約束してくれています。