2021年8月8日「受けるよりは与える方が幸い」
2021年8月8日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:使徒言行録20章17-35節
「受けるよりは与える方が幸い」
忘れてはならない日
先週8月1日はご一緒に平和聖日礼拝をおささげしました。共に平和について考え、平和への想いを新たにする日です。
8月は平和を考える上で、忘れてはならないさまざまな日があります。一昨日の8月6日、私たちはアメリカ軍による広島への原爆投下から76年を迎えました。原爆が投下された時刻の8時15分に合わせ、広島の平和記念公園をはじめ、各地で祈りがささげられました。明日8月9日には、長崎へ原爆が投下されてから76年を迎えます。
この岩手でも、戦争による被害がありました。長崎に原爆が落とされたのと同日の9日、岩手県の釜石ではアメリカ・イギリス両海軍による艦砲射撃がありました。およそ2時間にわたって3000発近くの砲弾が撃ち込まれたとのことです。7月の艦砲射撃に続いて、2度目の攻撃でした。この攻撃によって300名もの方の命が奪われました。2度の攻撃により、街も廃墟と化しました(参照:加藤昭雄『花巻が燃えた日』、熊谷印刷出版部、1999年)。
私たちの住む花巻では、8月10日に空襲がありました。攻撃したのはアメリカ軍の戦闘機22機。花巻から西南11キロのところにある北上の岩手陸軍飛行場(通称後藤野飛行場)を攻撃したその後、花巻駅を標的とした爆撃でした。この日は朝からじりじりと暑い日で、日中の最高気温は32度まで達していたそうです(参照:同書)。
花巻空襲による死者は少なくとも47名、身元の分からない人々を加えると60名近く、あるいはそれ以上にのぼると言われています。花巻教会は空襲の直接的な被害はありませんでしたが、教会の記念誌には「教会堂の筋向いに爆弾が落ちて会堂の窓ガラスがめちゃめちゃになってしまった」との証言が残されています。
爆撃で最も被害を受けた場所の一つが、攻撃の標的とされていた花巻駅前でした。駅前地区だけでも、少なくとも32名の方の命が奪われました。負傷者も多数、建物等も大きな被害を受けました。また、花巻教会から近い現在の上町・双葉町・豊沢町の辺りは、爆弾によって生じた火災で甚大な被害を受けました。火災によって、673戸もの建物が焼失したとのことです。
この火災で焼失した家屋の一つに宮沢賢治さんの生家がありました。賢治さんは敗戦の年の12年前にすでに亡くなっていましたが、当時の豊沢町の生家には賢治さんのご両親と弟の清六さん、また東京から疎開していた詩人・彫刻家の高村光太郎さんが生活していました。弟の清六さんが賢治さんの原稿を前もって防空壕に移していたおかげで、原稿はすべて焼失を免れたとのことです(参照:宮沢清六『兄のトランク』、ちくま文庫、1991年)。
国内外で、またこの岩手でも多くの惨禍をもたらした戦争。様々な悲惨な出来事を経て、8月15日、私たちの国は敗戦を迎えました。
平和とは ~一人ひとりが大切にされている状態
8月は、私たちが平和について考える上で、さまざまな忘れてはならない日があることを述べました。平和と最も対極にあるものが、戦争です。
と同時に、平和は「戦争がない状態」を意味するだけのものではありません。たとえ国家間に戦闘行為が生じていなくても、たとえば、現在のように、病原性のあるウイルスが爆発的に拡がっていたとしたら、やはりそれは平和ではない状態だと言えるでしょう。
皆さんも大変心配されているように、現在、全国的に新型コロナの感染が拡大しています。この1年半の中で、最も深刻な状況です。都心部では病床がひっ迫し、多くの方が自宅での療養を余儀なくされている現状があります。都内では現在、約18000人の方が自宅療養をしているとのことです。どうぞいま療養中・入院中の方々の上に主の守りがありますよう、一人ひとりの健康と生活とが守られますよう切に祈ります。
平和ではない状況で言えば、差別の問題、貧困や格差の問題、環境問題など、私たちの目の前にはさまざまな課題や問題があります。
これらのことを踏まえますと、平和とは「戦争がない状態」を意味するのみならず、「一人ひとりが大切にされている状態」を指す言葉だと受け止めることができます。
私たちの生きる社会では現在、さまざまな場面で平和ではない状況が生じています。その平和ではない状況は、一人ひとりが大切にされていないことから生じているということができるのではないでしょうか。またそして、人が大切にされないことの究極にあるものが、戦争です。
私たちはそれぞれ、平和を実現してゆくために、神さまから大切な役割が与えられています。
「蛇のように賢く、鳩のように素直に」
平和を実現するために、私たちにはどのような姿勢を大切にしてゆけばよいでしょうか。本日は、二つの聖書の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。
一つは、先ほど読んでいただいたマタイによる福音書10章16-25節に記されていた、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という言葉です。聖書の本文にはこう記されていました。《わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》(マタイによる福音書10章16節)。
《蛇のように賢く》という部分の意味が、少し分かりづらいですね。「賢く」と訳されている語は、原語のギリシア語では「分別のある、思慮深い、賢明な」などの意味をもつ言葉だそうです。
ここで主イエスがおっしゃっている賢さとは、善悪を判断する賢さです。何か「人をだましたりするために、ずる賢くあれ」とおっしゃっているのではないのですね。そうではなく、「善悪をしっかりと判断できるようになるために、注意深く、賢明でありなさい」とおっしゃってくださっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
善悪を見分け、悪しきものを注意深くしりぞける賢さを
悪ははっきりと悪の顔をしては来ないことが多いものです。表面的にはいかにも「いい人」を装って、悪しき意図を隠し持つ人が私たちのもとに近づいてくることもあるでしょう。また、とても魅力的な存在として近づいてくることもあるでしょう。善悪を見極めることは時に、私たちにとって思いの外、難しいものです。悪意は私たちに気づかれぬよう、巧みに隠されているものだからです。だからこそ私たちには思慮深さ、注意深さが必要です。
また、悪意は私たち自身の心の中に潜んでいるものでもあります。善も悪も、良き想いも悪しき想いも共存しているのが、私たち人間の心です。悪意が生じることは誰にでもあることですし、そのような否定的な想いが生じること自体は悪いことではありません。重要なのは、善悪をしっかりと見極めること、そしてやがては自分を呑み込んでしまうかもしれないその悪意を注意深くしりぞけることです。そのことが私たちの内にある良き想い――鳩のように柔和な心を守り育むことにもつながってゆきます。
「蛇のように賢く」とは、善悪を見分け、悪しきものを注意深くしりぞける賢明さを持ち続けること。「鳩のように素直に」とは、悪しき意図に操作されることのない、まことの純真さと自由とを自らの内に保ち続けてゆくこと。そのように「蛇のように賢く、鳩のように素直である」ことの大切さを主イエスは教えて下さっています。この姿勢を堅持してゆくことは、平和の実現に向けて働く上でも非常に重要なこととなってくるのではないかと思います。
悪しき意図 ~他者への支配欲と所有欲
では、悪意とは何でしょうか。どのようなものが、悪意であるのでしょうか。悪意にはさまざまなものがあり、一言で言うのはなかなか難しいですが、そこには或る共通項があるように思います。それは、悪しき想いは平和を破壊する方向へ向かうものであるということです。言いかえますと、一人ひとりが大切にされない状態、人が軽んじられる状態に至らせるものであることです。そのような言動と出会ったとき、私たちはそこに何らかの悪しき想いが含まれていると判断することができます。
より具体的に言いますと、たとえば、他者を自分の思い通りに支配し、利用しようとする意図が隠れているとすれば、そこには悪意があるとみなすことができるでしょう。もちろん、相手を自分の思い通りにしたいという欲求は、誰の心にも多かれ少なかれあるものです。しかしそれが実際に他者に対して直接的に行われるとき、時に相手を深く傷つける暴力ともなり得ます。
他者を自分の思い通りに動かそうとする支配欲。相手をあたかも自分の所有物のようにみなして利用しようとする所有欲。これらの欲求に捉われているとき、人は他者があたかも自分のために存在しているかのように錯覚し、自分の都合の良いように支配・利用しようとしてしまいます。昨今重要な問題として取り上げられることが多くなったハラスメントも、この支配欲と所有欲とが関係していると言えるでしょう。
聖書は、私たち人間が神の似姿として創られたことを語っています(創世記1章27節)。神の目に私たち一人ひとりは価高く、貴い存在であるのです(イザヤ書43章4節)。他者は自分の所有物ではありません。私たちを創られた、神さまのものです。神の目にかけがえのない存在である一人ひとりを軽んじ、自分の意のままに支配し利用することは、本来ゆるされないことなのです。
表面的には「いい人」を装い、いかにも素晴らしい言葉を並べながら、悪意を隠し持った人が私たちのもとに近づいてくることもあるでしょう。私たち自身の心の中にもこの悪意が潜んでいることもあるでしょう。重要であるのは、私たちが自ら、善悪を判断してゆくことです。そして自分の内外にある悪意の実態を見極め、注意深くしりぞけてゆくことです。主がその知恵と勇気を私たちに与えて下さるよう、聖霊なる主の助けを祈り求めたいと思います。
「受けるよりは与える方が幸い」
最後に、もう一つのイエス・キリストの言葉を参照したいと思います。《受けるよりは与える方が幸いである》。イエス・キリストが生前おっしゃった言葉として使徒言行録の中で引用されている御言葉です。《あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました》(使徒言行録20章35節)。
ここでは、与える行為がいかに大切であるかが語られています。受け取るだけではなく、自らすすんで与えること。隣り人のために、自らの手の中にあるものを分け与えること。これは、他者を支配し利用しようとする姿勢とは正反対のものであると言えるでしょう。
悪しき想いは、相手の手の中にあるものを奪い取って自分のものとすることを求めます。対して、良き想いはむしろ相手の幸せを願い、自分の手にあるものを分け与えるよう促すのです。
奪うのではなく、分け与える――ここに、神さまの愛は現れ出ます。私たちの手の中にあるものには限りがありますが、その限りあるものを互いに分かち合うとき、限りのない神の愛が現れます。
またそして、イエス・キリストこそ、その「与える」姿勢を、生涯をかけて貫いてくださった方であることを聖書は証しています。主イエスはそのご生涯をかけて、十字架の死に到るまで、すべてを与え尽くして下さいました。私たちが神さまの愛とまことの平和の中を生きるようになるためです。
平和とは、一人ひとりが大切にされること――。私たちはそれぞれ、平和をこの地にもたらすために、イエス・キリストから大切な役割が与えられています。この地に愛と平和を実現するため、私たちが互いに良きものを分かち合ってゆくことができますように、平和の使者として、それぞれが自分にできることを果たしてゆけますようにと願います。