2021年9月19日「新しい掟」

2021919日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙515

新しい掟

 

 

十戒

 

先ほど旧約聖書の出エジプト記20117節を読んでいただきました。出エジプト記20章は旧約聖書の中でも特に重要な箇所です。十戒について記されている箇所であるからです。十戒とは、神さまがモーセを通してイスラエルの民に与えた「十の戒め(掟)」のことを言います。映画『十戒』では、モーセがシナイ山にて神さまから十戒の板を受け取る場面がクライマックスになっていますよね。

 

どのような掟であったか、改めて文中から抜粋してみたいと思います。

 

 1 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない3節)

 2 あなたはいかなる像も造ってはならない4節)

 3 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない7節)

 4 安息日を心に留め、これを聖別せよ8節)

 5 あなたの父母を敬え12節)

 6 殺してはならない13節)

 7 姦淫してはならない14節)

 8 盗んではならない15節)

 9 隣人に関して偽証してはならない16節)

 10 隣人の家を欲してはならない17節)

 

十戒で特徴的なのは、「あなたは~してはならない」という言い方ですね。十の戒めの内、八つが「~してはならない」という表現となっています。たとえば第一戒では「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。

日本語訳で読むと、何となく一方的に命令されているようにも感じてしまいますが、原文のヘブライ語では少しニュアンスが異なっているようです。原文を見てみると、「あなたは~することはないであろう」との表現となっています。このヘブライ語のニュアンスを活かすならば、「あなたが~することはあり得ないのだ」の意味に近いものとなるとの解釈もあります(参照:鈴木佳秀氏「契約と法」、『旧約聖書を学ぶ人のために』所収、世界思想社、246頁)。第1戒で言うと、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神とすることはあり得ないだろう」。戒めを聴く者へ信頼をもって語りかけているのがこれらの十の戒めの言葉であると受け止めることもできるでしょう。

 

十戒は、大きく前半部と後半部に分けることができます。前半部は「神を愛すること」についての戒め14戒)、後半部は「隣人を愛すること」についての戒め510戒)です。戒めの内容を見て頂くと、前半は神さまとの関係についての戒め、後半は隣人との関係についての戒めが書かれているのがお分かりいただけるかと思います(ただし教派によって戒めの数え方に違いがあります)。

 

また、日本語訳では省略されていますが、原文ではすべての文の頭に「あなた」が入っています。「あなたは殺してはならない。あなたは姦淫してはならない。あなたは盗んではならない……」。戒めを聴く一人ひとりが、神さまから「あなたは……」と親しくかつ熱心に語りかけられているのが十戒であるのですね。

 

 

 

6戒《殺してはならない》 ~人を軽んじ傷つけるいかなる言動もゆるされない

 

 十戒の掟の中で、私たちの社会で特に知られているのは、第6戒《殺してはならない》ではないでしょうか。この第6戒は、人の命の尊さを訴える戒めとして大切にされ続けてきたものです。

 

 主イエスがこの戒めについて言及している箇所がありますのでご紹介したいと思います。《あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる(マタイによる福音書52122節)

 

主イエスはここで第6戒《殺してはならない》を引用しつつ、人を殺める行為だけではなく、人を軽んじる態度や言動を問題にしておられます。確かに殺人は最大の暴力ですが、もしも私たちが怒りにまかせて人に心無い言葉をぶつけたとしたら、それも一つの暴力を働いたことになるのではないでしょうか。たとえ私たちの目には些細に見えるものであっても、その小さな暴力が積み重なることによって、本当に人を死に追いやってしまうこともあるでしょう。あるいは、互いに互いを軽んじる報復の連鎖を招いてしまうこともあるでしょう。人を軽んじその尊厳をないがしろにする言動は、いかなるものであってもゆるされるものではありません。

「最高法院に引き渡される」や「火の地獄に投げ込まれる」などのギョッとするような表現は、古代世界特有の誇張表現であり、もちろん実際にそうしろと言っているわけではありません。より印象深くするためにそのような表現がなされているわけですが、これらの強烈な表現によって、「人を軽んじ傷つけるいかなる言動もゆるされない」ことを主イエスは毅然とした姿勢で伝えて下さっているのだと受け止めたいと思います。

 

 

 

私たちの内にある否定的な想い

 

 人を軽んじ傷つける言動はゆるされない。そのことを頭では分かっていながらも、私たちは普段、つい怒りにまかせ、心ない言葉を発してしまうことのいかに多いことでしょうか。内面の怒りを押しとどめられなくなって、人を傷つける行動に走ってしまうことのいかに多いことでしょう。

 

私たちの心の中には様々な想いが存在しています。肯定的な想いもあれば、否定的な想いもあります。否定的な想い――それは身勝手な怒りであったり、他者を見下す想いであったり、他者のものを渇望する想いであったり、他者への憎しみであったり、また他者の痛みに対する無関心であったりします。これらの内なる想いが現実化し、言動となって現れたとき、時に私たちの人間関係に破壊的な影響をもたらすことがあります。

 

 

 

7戒《姦淫してはならない》 ~渇望する想いへの警告

 

もう一つ、第7戒《姦淫してはならない》についての主イエスの教えも見てみたいと思います。主イエスはこのようにおっしゃいました。《あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである(マタイによる福音書52728節)

 

ここで主イエスは第7戒《姦淫してはならない》を引用しつつ、さらに、その行為を引き起こした内面の想いに焦点を当てておられます。

 この部分を私たちの内にある性欲そのものを否定している言葉であるとする受け取り方がありますが、ここはそういうことを言っているのではないようです。《みだらな思いで》と訳されている言葉は、「他者のものを渇望する」とのニュアンスをもっている言葉です。その意味合いを込めて訳し直しますと、「渇望する想いで女性を見る者は」となります。ここでは性欲そのものが否定されているのではなく、他者を自分のものにしたいという欲求に警告が発されていることが分かります。私たちの内にある他者を渇望する想いは、時に周囲の関係性を傷つけ、私たちを平和を破壊する行動へと到らせることがあります。

 

 

 

私たちが直面する悩みや葛藤

 

一方で、内なる渇望というのは、本人の意志で抑制できない事柄でもあります。「頭ではわかっているけれども……」という事柄ですね。それが倫理的・道徳的にはゆるされないことであると頭では分かっていても、内面の想いを消し去ることはできないこともあるでしょう。考えてはいけないと思えば思うほど、さらに内面の炎は燃え盛ってゆく。駄目だということを理解しているからこそ、内面に激しい葛藤が生じてゆくこととなります。

 

たとえば夏目漱石は作品の中で、三角関係を繰り返し描いています。代表作『こころ』でも三角関係が描かれていますよね。漱石は三角関係やいかんともしがたい人間関係に悩み苦しむ主人公たちの姿を繰り返し描きます。きっとこれらの主題は、漱石自身にとっても切実なる主題であり、作品を通して追求せざるを得なかったのでしょう。これらはいざ自分がそのような状況に直面すると、もはや机上の論理が通用しなくなる、とても難しい事柄です。

 

また、私たちが内面で何を感じようと考えようと、それは自由です。私たちの心を何ものも制限することはできません。またすべきではないでしょう。神さまは私たちに完全なる内面の自由を与えて下さいました。他ならぬ神さまが、私たちに内面の自由を与えて下さっているのです。だからこそ私たちは、その自由ゆえ、日々思い悩みつつ生きています。

 

 

 

目の前にいる相手を「一人の人間として」尊重できているか

 

そのように日々悩んでいる私たちですが、私たちの一つの指針となり得る聖書の言葉があります。ローマの信徒への手紙の中の一節です。《「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。/愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです13910節)

 

 手紙の著者パウロは、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」をはじめとするあらゆる掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記1918節)の掟に集約されるのだと語っています。この隣人愛の掟を私なりに言い換えますと、「隣人を、あなたと同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。パウロが言うように、私たちは常にこの言葉に常に立ち返ることが求められているのではないでしょうか。

 

「悪口を言ってはいけない」「人を裏切ってはだめだ」「他人のものを欲してはだめだ」とただ禁止するだけでは、事柄は解決されることはないでしょう。頭でそう考えて「消し去ろう」としても消すことができないのが、私たちの内なる想いだからです。私たちにできることは、葛藤の中で、のっぴきならない心境の中で、それでも立ち止まってみること、そして祈りの中で自らの心に問いかけてみることではないでしょうか。自分はいま、目の前にいる相手を「一人の人間として」尊重することができているであろうか。自分の内面の想いは、相手を実際に「一人の人間として」大切にする言動へとつながっているであろうか、と。

 

 相手を一人の人間として大切にするということは、相手を人格をもった存在として大切にするということです。相手の想いや主体性を尊重し、いま目の前にいるその人をそのままに大切にすることです。もしも私たちが相手の主体性を奪ってしまっていたり、相手の意に反して自分の想いを押し付けてしまっていたり、あるいは相手を自分の怒りや欲求のはけ口のようにしてしまっているのだとすると、相手を人格をもった存在として大切にできていないことになります。

これらのことから、「殺すな、姦淫するな、盗むな、むさぼるな」という種々の掟の土台となっているのが、目の目にいる人を「一人の人間として」大切にする隣人愛の精神なのだと受け止めることができます。言い換えますと、私たちが相手に愛をもって接するとき、さまざまな掟も同時に全うされてゆくことになります。

 

悩みや葛藤に押しつぶされそうになりつつ、それでも立ち止まって、より良い生き方はないかと模索して歩む姿にこそ、尊いものがあるように思います。私たちは悩みの中でこそ、大切なものを発見してゆくのではないでしょうか。

 

 

 

キリストが私たちを愛して下さったように

 

 冒頭にお読みしたエフェソの信徒への手紙515節の中に次の言葉がありました。12節《あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。/キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい》。

 

 ここでは、私たち一人ひとりが神に愛されている子どもであること、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも愛によって歩むべきことが語られています。

相手を一人の人間として愛するということは、その人を「神に愛された一人の人間」として愛するということです。主イエスこそは、私たちを神に愛された一人の人間として愛して下さっている方です。私たちを愛するゆえ、その命までもささげてくださった方です。

主イエスが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合う(ヨハネによる福音書1334節)。主イエスが私たちを重んじて下さったように、私たちも互いに重んじ、尊重し合うこと。これが、主イエスがその生涯をかけ、その命をかけて、私たちの心の中に刻んでくださった新しい掟です。イエス・キリストの十字架を通して、この掟は確かに私たち一人ひとりの心に刻まれています。

 

キリストが私たちを愛して下さったように、私たちも愛によって歩んでゆくことができますように、ご一緒に祈りをおささげしたいと思います。