2023年10月1日「わたしは復活であり、命である」
2023年10月1日 花巻教会 召天者記念礼拝説教
聖書箇所:詩編23編1-6節、ヨハネの黙示録21章3-4節、ヨハネによる福音書11章17-37節
召天者記念礼拝
本日は天に召された方々を覚えて、召天者礼拝をおささげしています。愛する方々を覚えて、この礼拝に集ったお一人おひとりの上に、神さまの慰めがありますようお祈りいたします。
この1年、私たち花巻教会は愛する方々を神さまのもとにお送りしました。
昨年の12月14日、教会関係者のM・Hさんが天に召されました。12月17日、当教会にてご葬儀を執り行いました。
今年の2月16日、花巻教会員のS・Mさんが天に召されました。2月19日、私の司式により花巻葬祭センターでご葬儀を執り行いました。Mさんは2月11日に、病床にて洗礼を受けられました。
ご遺族の皆さまの上に、M・Hさん、S・Mさんにつながるお一人おひとりの上に、神さまの慰めとお支えがありますようお祈りしております。
また、ここに集った皆さまの中にも、この1年、愛するご家族、ご友人を神さまのもとにお送りした方がいらっしゃることと思います。ここに集ったお一人おひとりの上に、神さまの慰めとお支えをお祈り申し上げます。
《わたしは復活であり、命である》
本日はメッセージのタイトルを「わたしは復活であり、命である」としています。ここでの「わたし」とは、イエス・キリストのことです。先ほどご一緒にお読みしたヨハネによる福音書11章17-37節の中に記されていた言葉です。
《イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。/生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」》(25‐26節)。
イエス・キリストはここで、ご自身の復活について述べ、ご自身の内に永遠の命があることを語っておられます。そして、「このことを信じるか」と問いかけておられます。
この問いに対して、マルタという女性は、《はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております》(27節)と答え、イエス・キリストへの信仰を告白しています。
私たちキリスト教会も、イエス・キリストが十字架の死より三日目に復活されたこと、イエス・キリストの内に命があることを信じ、それを自分たちの希望としてきました。
と当時に、私たちは生きてゆく中で、この希望が揺らいでしまうことを経験することもあります。聖書が語る復活の希望が、どこか遠いもののように感じられてしまうことも私たちにはあるのではないでしょうか。
C・S・ルイス『悲しみをみつめて』
C・S・ルイスというイギリスの作家がいます。日本では『ナルニア国ものがたり』が有名です。本日お集まりの皆さんの中にも、ナルニア国物語のファンだという方もいらっしゃるかもしれません。
このルイスの著作の中に、『悲しみをみつめて』(ルイス宗教著作集6、西村 徹訳、新教出版社、1976年)という本があります。ルイスが最愛の妻を病気で亡くした後、自分の内に浮かんでは消えてゆく様々な想いを率直に綴ったものです。本のタイトルにもなっているように、ご自分の「悲しみを見つめる」中で誕生したのが同書です。
この本の中に、自分が今まで「信仰」と思っていたものは、愛する人の死を前に、はかなく崩れ去ったという内容の言葉が出てきます。自分がいままで「信仰」だと捉えていたものは「トランプで作った家」のようなものだった。C・S・ルイスは文学者であると同時に、すぐれた神学者であり、信徒伝道者として知られていた人でした。そのルイスがそのような言葉を書き記していることは驚きですが、それはルイスのその時の率直な実感であったのでしょう。
私たち教会が希望とし続けてきた復活の信仰。この信仰も、死の現実を前にすると、もろく、はかないもののように思えてしまう瞬間もあるのかもしれません。ルイスの言葉を借りれば、《トランプの家》のように思えてしまう瞬間もあるのかもしれません。私たちは生きてゆく中で、これまで自分が培ってきた信仰や希望が崩れ去ってしまったかのように思う場面に直面することがあります。
一方で、C・S・ルイスは、自分の《トランプの家》が崩されてはじめて見えてくるものがあったことを記しています。これまで自分が培ってきたものが崩されて終わり、ではなく、一度崩されたその先に、新しく見えてくるもの――光があったようなのです。
自分が信仰だと思っていたものが崩された先に、見えてくるもの。その見えてくるものは、一人ひとり違いがあることでしょう。私自身にとって、自分の信仰が崩されて後、それでも見えてくるものは何であろうと思います時、それは、涙を流すイエス・キリストの姿であると受け止めています。
《イエスは涙を流された》
先ほどお読みしましたヨハネによる福音書11章の中には、愛する人(ラザロという青年)の死を前に、涙を流されるイエス・キリストの姿が記されています。
《マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。/イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、/言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。/イエスは涙を流された》(32-35節)。
愛するラザロが病気で亡くなり、マリアや大勢の人が涙を流す中で、イエスさまも共にその死を悲しみ、涙を流してくださった様子が描かれています。
神の御子であるイエス・キリストが涙を流された――これは驚くべき光景です。私たちの生と死についてすべてをご存じのはずのイエスさまが、愛する人の死を前に立ち尽くし、共に涙を流してくださっている。愛する人の死を前に、涙を流すことしかできない私たちとまったく同じように涙を流してくださっている。イエスさまはそのように、私たちと共に悲しみ、共に苦しんでくださることによって、私たちとの間に固い絆を結んでくださっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
《わたしは復活であり、命である》 ~共に涙を流しながら
このイエスさまの涙の直前に記されているのが、先ほどご紹介した言葉です。《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》。
イエスさまはこの言葉を、どこか遠いところから語られているのではないことが分かります。愛する人々の死を前に、私たちと共に涙を流しながら、《私は復活であり、命である》と語りかけてくださっているのです。
たとえ死の現実を前に、私たち自身の信仰は崩れ去ってしまったとしても、それでも消えない命の言葉として、いま、このイエスさまの言葉は私たちの間に響いています。私たち自身は信仰と希望を見失ってしまったとしても、それでもなお、この復活の命の言葉は私たちを見失わず、捉えて離さないでいてくださいます。キリストの復活の命に捉えられ、その命に結ばれている私たちは、《死んでも生きる》のです。天にいる者も、地にいる者も、私たちはこの復活の命の光の中で、共に生き、共に生かされています。
ルイスが経験したこと ~よく晴れた日の朝に
先ほどご紹介したC・S・ルイスの『悲しみをみつめて』の中に、印象深いエピソードが記されていますので、最後にご紹介したいと思います。
その日、ルイスはひときわぐっすりと眠ることが出来たそうです。そうして朝、気持ちよく目覚めることができた。それまでの悲しみに満ちた数週間に比べて、心もいくぶん軽かった。外は良く晴れて、そよ風が吹き渡る中、彼の心を支配していた悲しみが瞬間的に和らいだとき、突如、ルイスは愛する人(ジョイさんという方です)の存在を最もよく思い出すことができたそうです。それはなにか記憶以上のもので、活き活きとした他者として、彼女はルイスの前に現れたそうです。心が悲しみに満たされていたときはよく思い出せなかった彼女を、むしろ悲しみが和らいだその瞬間に、最もよく思い出すことができた。ルイスは、亡くなった彼女の心といっとき相対した、という不思議な経験をしました。
印象的なのは、その再会は、我を忘れるようなドラマティックな再会とは異なるものであったと語られていることです。生前と同じような、まるで日常的な一コマのような再会の仕方であったそうです。《なにか実際上の取決めについて、彼女から電話があったか、電報がきたかにずっと似たもの。格別の「用向き(メッセージ)」があるのでない。ただ理知の目が注がれているだけ》であったとルイスは述懐しています。
《死者がこんなにも、そうだ、こんなにも事務的なものとは、どんな気分のときも想像したことがなかった。しかしながらきわだった、晴れ晴れとした親近感があった。五感もしくは感情をまったく経ていない親近感が》(『悲しみを見つめて』、102、103頁)。ご関心のある方は、ぜひ『悲しみをみつめて』を読んでみてください。
私たちの世界には、まだ私たちが理解することができていない領域があることを思わされます。その死後の世界の領域については、聖書もはっきりとは記していません。しかし、「死はすべての終わりではない」ことを、確かに聖書は語っています。天にいる者も、地にいる者も、共にイエスさまの復活の命に結ばれていること、その約束を語っています。私たちはこの復活の命の光の中で、共に生き、共に生かされています。神さまが願っておられることは、私たち一人ひとりが、この命の光の中で、「元気に生きてゆく」ことです。
ここに集ったお一人おひとりの内に、復活の命の光がともされることを願っています。