2023年11月12日「祝福の源となるように」
2023年11月12日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書8章51-59節、ローマの信徒への手紙4章13-25節、創世記12章1-9節
2023年「障がい者週間」 ~「支え合う『いのち』」
本日11月12日(日)から11月18日(土)まで、「障がい者」週間です。NCC(日本キリスト教協議会)は、11月の第2週を障がい者週間に定めています。障がい者週間は、それぞれの教会において「障害者」の偏見と差別をなくし、お互いに支え合っていけるよう祈りをあわしてゆく期間です。今年のテーマは「支え合う『いのち』」、主題となる聖書の言葉は《見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び》(詩編133編1節)が選ばれています。一人ひとりの命と尊厳が大切にされる社会、共に補い合い支え合ってゆくことが出来る社会を目指して、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
NCCの『「障害者」と教会問題NEWS』(No.72、2023年10月11日発行)の巻頭言の言葉を引用いたします。《日本の教会や社会において、障害者、特に女性障害者が置かれている状況は未だ厳しいものがあります。社会全体の価値観や偏見が、真のインクルーシブな社会や教会の実現を妨げていると感じることも少なくありません。私たちは、障害者団体として、お互いに知識や経験を共有し、連帯し、支え合いながら、この状況を変えるための活動を広げていくことが必要だと考えています》(「障害者」と教会問題委員会委員長・日髙馨輔さん)。
インクルーシブな社会の実現
《インクルーシブな社会や教会の実現》という言葉が出てきました。インクルーシブとは、「包摂的」という意味の言葉です。インクルーシブな社会とは、違いを持った一人ひとりがそのままに、誰一人排除されることなく包み込こまれている(包摂されている)社会のことを指します。違いを認め合い、共に支え合い、活かし合うことができる社会のことですね。今年の障がい者週間のテーマ「支え合う『いのち』」は、このことを表現しているのだと受け止めることができます。
引用した巻頭言の言葉では、私たちの社会全体の価値観や偏見が、このインクルーシブな社会や教会の実現を妨げていると感じることが少なくないと語られています。インクルーシブな共生社会の実現を妨げている価値観とは、何でしょうか。たとえば、その一つとして、インクルーシブとは反対の、「排他的な」価値観を挙げることができるでしょう。違いを認め合うのではなく、むしろ排除しようとする価値観。一人ひとりを包摂するのではなく、異なる人々を排除しようとする価値観。このような排他的な考え方というのは、確かに、私たちの近くに遠くに認められるものではないでしょうか。インクルーシブな社会や教会を実現してゆくためには、まず、このような不寛容・排他的な考え方によっていま現実に苦しんでいる人々、これまで苦しみ続けてきた人々の存在に心を向けることが必要でありましょう。その現状についての理解を深めてゆくことが、インクルーシブな社会を実現してゆくことにつながってゆくことと思います。
引用した巻頭言では、日本の教会や社会において障がいを持っている方々の置かれている厳しい現状、特に女性障がい者が置かれている状況には未だ厳しいものがあることが触れられていました。いま困難の中にある方々の声にならない声に、私たち社会が耳を傾けることができますようにと願います。
私たちが互いの理解を深め、一人ひとりの命と尊厳が大切にされる社会の実現のために、インクルーシブな社会の実現のために、自分にできることを行ってゆくことができますように、これからもご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
いまガザ地区で起っていること
パレスチナのガザ地区で、イスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘が続いています。皆さんも日々報道されるニュースを受けて、大変心を痛めておられることと思います。この戦争が一刻も早く停戦へと至り、これ以上、かけがえのない命が傷つけられ、失われることのないようにと切に願います。
先ほど、私たちの社会の排他的な価値観が、インクルーシブな共生社会の実現を妨げていることについて触れました。いまガザ地区で起っていること、そしてこの75年間、パレスチナで起こり続けていることは、排他的な価値観の極みによってなされていることだと言えます。
いまガザ地区で起っていることは、イスラエル軍による正当防衛などではなく、ガザの無関係なパレスチナ市民に対する「虐殺」「ジェノサイド(集団殺害)」であると形容する人々もいます。私も、そのように受け止めています。イスラエルの一部の指導者たちが行っていることは、決してゆるされない、非人道的な行為の極みです。排他的な価値観によってなされる最も非人道的な暴力が、相手の命と尊厳そのものを否定し、それを無きものとすることです。イスラエルの一部の指導者たちは、自分たちとは異なる歴史や価値観を持つパレスチナの人々の存在を認めず、パレスチナから排除しようとし続けているのです。
「約束の成就」か「侵略」か
今から75年前の1948年5月14日、国家としてのイスラエルの建国が宣言されました。それはすでに、パレスチナの人々が住んでいる土地に入植(侵攻)するかたちでの建国でした。
イスラエル建国当時、イスラエルの一部の指導者たちが作り出したのは、「そもそもパレスチナ人などはじめから存在していない」という恐ろしい論理でした。「パレスチナ人」とは、もともとパレスチナ地方に住んでいた人々のことを指しています。イスラム教徒であってもユダヤ教徒であってもキリスト教徒であっても、パレスチナを故郷として生まれ育った人はみなパレスチナ人です。1948年のイスラエル建国当時、パレスチナにはすでに多くのパレスチナの人々が住んでいました。けれども、イスラエルの一部の指導者たちは、パレスチナはそもそも「神が自分たちユダヤ人に与えた約束の地」であると主張しました。そうして、「パレスチナははじめから存在しない。パレスチナ人もはじめから存在しない」という極端な論理のもと、パレスチナの大部分を、戦争を通して強制的に自国の領土としてゆきました。結果、パレスチナ自治区としてかろうじて現在残されているのがヨルダン川西岸地区とガザ地区です。「約束の地」パレスチナにユダヤ人の国家を建設しようとする運動をシオニズムと言います(政治的シオニズム)。
イスラエル国家の建設は、それを支持するイスラエルの一部の人々の視点からすると、神が与えた「約束の成就」です。各地に離散していた自分たちが、神が与えた約束の地に「帰還」してきたのだという受け止めになります。一方で、もともとそこに住んでいたパレスチナの人々からすると、まったく見え方は異なります。イスラエルのしていることは自分たちに対する「侵略」となります。双方でまったく見え方、目の前の現実の受け止め方が異なっているのです。そして、私たち日本に住むキリスト者の多くも、これまで、前者のイスラエルの考え方を素朴に、間接的なかたちで支持してきたのだと言えます。
注意すべきは、「神の約束の成就」という信仰的な言葉が、イスラエル側の「侵略」行為を見えなくしてしまっているところです。私たちはいま、異なる視点から、改めて聖書の物語を読み直すことが求められています。
アブラハムへの神の約束
本日の聖書箇所である旧約聖書(ヘブライ語聖書)創世記12章1-9節は伝統的に、「約束の地」の根拠の一つとされてきたところです(他に創世記15章18節、17章8節)。いまもイスラエルの一部の人々は、この箇所をパレスチナが「約束の地」であることの根拠の一つとしています。創世記の中では、アブラハム物語のプロローグにあたります。アブラハムは、ユダヤ人とアラブ人の父祖となった人物です。改めて、簡単に本日の物語を振り返ってみたいと思います。
アブラハムが75歳のときでした。妻のサラとの間には子どもはおらず、近親者で若い者は、甥のロトだけでした。失意の日々を過ごすアブラハムの前に、ある日、神が現れておっしゃいました。《あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る》(創世記12章1-3節)。
将来への希望が失われていたアブラハムに、「子孫の繁栄」を約束する神さまの言葉が与えられました。後継ぎのいないアブラハムの一族が、この先、大いなる国民となるというのです。そして、諸国民の《祝福の源となる》というのです。アブラハムはいったいこの先何が起こるのか分からないままに、しかし主の約束の言葉に従って、妻のサラと甥のロトと共に、カナンの地(現在のパレスチナ)へ向けて出発しました。
そうして、アブラハム一行がカナンの地にたどり着いたとき、再び神さまが現れておっしゃいました。《あなたの子孫に、この土地を与える》(7節)。
アブラハムの一族が大いなる国民となる約束と祝福のしるしとして、カナンの地をアブラハムの子孫に与えると神はアブラハムに語ります。土地は私たちの生活の基盤となるものです。カナンの地が与えられることが、アブラハムとサラにとって、自分たちの子孫が神から祝福されることのしるしとなりました。
これが、カナンの地をイスラエルの「約束の地」とする根拠の一つとなっている箇所です。
旧約聖書の物語といまパレスチナで起っていることとのつながり
アブラハムが亡くなって後、子孫たちは神の約束を信じ、荒れ野での40年の旅の末(『出エジプト記』~『ヨシュア記』)、カナンの土地への入植を果たします。旧約聖書においては、遂に神がアブラハムに与えた約束が実現したこととなります。
一方で、イスラエル民族が入植を果たしたカナンは無人の地ではなく、すでに先住民族が生活していた土地でした。そこにはカナン人やアモリ人などの先住民族が住んでおり、たくさんの都市が形成されていました。イスラエル民族は先住民族との戦争に勝利することによって土地を奪い、カナンの地への入植(侵攻)を果たしてきます。
ユダヤ教-キリスト教は長らく、これらの記述を特に疑問もなく「当たり前」のものとして受け止められてきました。これらの物語を、神さまの約束の実現の物語として、信仰をもって受け止めてきたのです。ただし、ここには、もともとそこに住んでいた先住民族の人々からの視点が抜け落ちています(参照:村山盛忠氏『パレスチナ問題とキリスト教』参照、ぷねうま舎、2012年)。
カナンへの入植はイスラエル民族の視点からすると「神の約束の実現」ですが、先住民族の人々の視点からすると「侵略」となります。いまイスラエルとパレスチナの間で起っていることと同じ構造が、すでに、旧約聖書の物語の中に存在していることが分かります。聖書の物語は大昔に書かれたものですが、いま、パレスチナで起っていることとも密接につながっているのです。
パレスチナ問題を理解するには聖書の読解が必要ですが、その際、聖書をもう一つの視点――先住民族の人々の視点――から読み直してゆく作業が必要となります。
《祝福の源となるように》
本日の創世記12章1-9節について、心に留めたいことがございます。一つは、この箇所において、《あなたの子孫に、この土地を与える》(7節)という神の約束は、アブラハムとその子孫に対する神の「祝福のしるし」であるということです。約束の地についての記述は、永続的な《土地所有の権利》を意味しているものではないことを心に留めたいと思います(参照:村山盛忠氏、前掲書、96-97頁)。
そしてもう一つ心に留めたいのは、神がアブラハムを祝福し、そのことを通して、諸国民の《祝福の源となるように》(2節)するとの言葉です。アブラハムとその子孫は、すべての人の祝福の源となるように神から召命を受けたことが語られています。呪いを祝福に変えるために、アブラハムの子孫は神さまから召されているのです。この世界に神さまのシャローム(平和、調和)をもたらすためにこそ、イスラエルは神さまから召され続けていると受け止めることができるのではないでしょうか。
対して、いま、イスラエルの一部の指導者たちがしていることは、どうでしょうか。すべての人の《祝福の源となるように》との神からの召命はまったく見失われていると言わざるを得ません。父祖アブラハムに神さまが与えたこの召命に、イスラエルの為政者の方々が立ち帰ることを切に願うものです。
キリスト教は、神の独り子イエス・キリストが呪いを祝福に変え、全世界に神さまの愛と平和をもたらしてくださったと受け止めています。このキリストに結ばれた私たち一人ひとりもまた、人々に神さまの愛と平和を伝える役割を与えられていると受け止めることができるでしょう。パレスチナの平和を祈ると共に、違いを認め合い、共に支え合う社会の実現のために、それぞれが自分にできることを行ってゆきたいと願います。