2023年11月5日「アダムとエバ」
2023年11月5日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書3章13-21節、ローマの信徒への手紙7章7-13節、創世記3章1-15節
アダムとエバの物語
本日は、降誕前第8主日礼拝をご一緒におささげしています。降誕前節は聖書の御言葉を学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をしてゆく期間です。今年は12月3日(日)からアドベント(待降節)に入ります。気が付けば、もうクリスマスに向けての準備を始めてゆく時期ですね。
メッセージのはじめにご一緒にお読みしたのは、創世記に記されたアダムとエバの物語です。はじめの人間であるアダムとエバが蛇に誘惑され、神から「食べてはいけない」と言われていた善悪の知識の木の実(禁断の果実)を食べてしまった。結果、アダムとエバはエデンの園を出ることになったというエピソードはとても有名ですね。
スクリーンに映しているのは、ドイツのルーカス・クラーナハ(1472~1553)という画家が描いたアダムとエバの絵です。アダムとエバが善悪の知識の木の実から果実を取る様子が描かれています。木の幹には蛇がからみついていますね。
ちなみに、この絵を描いたクラーハナは宗教改革者ルターと友人であり、ルターの肖像画を残したことでも知られています。先週の10月31日は、宗教改革記念日でした。
このアダムとエバは最初の人類として、創世記に登場します。先ほどから私はアダムとエバを名前のようにして語ってきましたが、厳密には、アダムという言葉は固有名詞ではありません。アダムとは、訳すると、「人(人類)」という意味の言葉です。この「アダム=人」という言葉は、「土」という言葉から来ています。はじまりの時、神が人を土の塵から形作ったというのがその由来です(2章7節)。アダムのパートナーである「エバ」は「命」の意味があります(3章20節)。
エバの創造 ~対等なパートナーとして
本日の聖書箇所についてお話しする前に、神が土から人(アダム)を造り、アダムのあばら骨の一部から女性(エバ)を造ったという記述について一言述べておきたいと思います。
《主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。/そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた》(2章21-22節)。「アダムのあばら骨から女性が造られた」という表現に、女性を下に見る意識があるのではないかとの指摘があります。このような表現に違和感を覚える方も多くいらっしゃることと思います。
聖書の中には確かに、男性優位な視点から書かれている記述が多くあります。旧新約聖書の表現の中には男性中心的・男性優位的な文言が数多く見出されるということは、受け入れねばならないはっきりとした事実です。
一方で、聖書の中には男性と女性の平等を伝える文言もあります。本日の創世記の場面では、アダムのあばら骨からエバがつくられる直前に、次の記述があります。《主なる神は言われた。/「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」》(2章18節)。
《彼に合う助ける者》と訳されている語は、原文のヘブライ語では、「彼に向き合う助ける者」という意味です。「向き合う者」という表現から、対等なパートナーとして女性が造られたことを読み取ることができます。アダムとエバは互いに、向かい合うパートナーとして創られた。創世記のこの箇所に限っては言えば、男性と女性の平等(《両性の本質的平等》、憲法第24条)を伝えることを意識して書かれていると解釈することができるでしょう。
対等な関係性が重要であることは、恋人や夫婦の関係においてだけではありません。私たちの人間関係において、互いに対等な関係であることは、最も基本的かつ重要な事柄の一つです。個人と個人が、対等な存在として向き合い、助け合ってゆくこと、それが神さまが私たちに示して下さっているまことの関係性であることを心に留めたいと思います。
創世記の物語 ~私たちの人間関係、そして神さまとの関係について語るもの
さて、本日の物語の設定を改めて確認しておきましょう。舞台は、エデンの園。そこは食べる物に困らない、人が住むに最適な、まさに楽園のような場所でした。園の中央には、二本の木が生えていました。一本は、すでに述べました善悪の知識の木。もう一本は、命の木。神はアダム(=人)に対してあらかじめ、《園のすべての木から取って食べなさい。/ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう》と伝えていました(2章16-17節)。
アダムとエバは対等なパートナーとして向き合い、助け合いながら生活をしていました。また、しかし、ある時、事件が起こります。野の生き物の内で最も賢い生き物であった蛇から、善悪の知識の木の実を食べるよう、誘惑を受けるのです。これが、本日の聖書箇所である3章1-15節です。結果、二人はエデンの園から追い出されることになります。
これらの物語はもちろん、ある種の神話的な物語です。現代を生きる私たちが知っている科学的な知識とは相いれない部分が多々あります。けれどもこれらの物語は、私たち人間について、深いメッセージを伝えてくれているものです。たとえば、本日の物語は、ほかならぬ私たちの人間関係について語っているものとして受け止めることができるでしょう。またそして、私たちと神さまとの関係について、意味深いメッセージを語ってくれているのだと受け止めることができます。
蛇の誘惑 ~私たちの関係性を壊す力
私たちが人との関係を作るうえで最も大切なことの一つに、信頼関係を築いてゆくことがあります。信頼というのは、私たちが人との関係を作る上で、とても大切なものですよね。逆に言うと、信頼関係が失われれば、私たちは互いの関係性を作ってゆくのが難しくなります。
本日の物語に登場する蛇は、私たちの「関係性を壊す」悪しき力の象徴として登場していると解釈することもできるでしょう。このような力は私たちの間に、私たちの内に、絶えず潜み、いつでも頭をもたげて働き始め得るものであるでしょう。
では、具体的には、蛇はどのような言動をもって、アダムとエバの関係性、そして神さまとの関係性を壊していったのでしょうか。
事柄の歪曲
蛇は最初に、エバにこう問いかけます。《園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか》(3章1節)。ここで蛇は、「本当に、神さまは……と言ったのですか?」と疑問を投げかけます。当初、エバの内は神さまに対する信頼で満ちていたわけですが、そこに陰りを生じさせようとしたのですね。相手への疑いの気持ちが生じたとき、私たちの信頼関係には揺らぎが生じ始めます。
そのために蛇が用いた手法が、事柄の歪曲です。神がおっしゃったのは《園のすべての木から取って食べなさい。/ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう》(2章16-17節)という言葉でした。対して、蛇は《園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか》とエバに問いかけました。一見、同じようなことを言っているようでいて、違う意味のことを言っているのが分かります。蛇は意図的に、不正確な引用をしているのですね。神さまの言葉を歪曲し、事柄を歪曲することをもって、相手の心に疑いや混乱を生じさせ、信頼関係を壊そうとしているのです。
エバはその蛇のずる賢い問いかけに対し、冷静に、正確な言葉をもって答えます。《わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。/でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました》(3章2-3節)。事柄の歪曲に対しては、正確な言葉をもって対応する必要があります。それをしないでいると、気づかないうちに誤解が生じ、どんどん関係性が損なわれて行ってしまうことがあります。この時点では、エバは冷静に対応することができました。
しかし蛇はさらにエバに対して語りかけます。《決して死ぬことはない。/それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ》(4節)。ここでも、蛇は事柄の歪曲を行っています。
ある本では、ここで神がおっしゃっていた「死」とは肉体的な死ではなく、信頼関係が損なわれること――すなわち人格的な死であったのに、蛇はそれを肉体的な生死の問題にすりかえて彼女に語ったのだと記されていました(並木浩一氏『講義録 創世記を読む』、112頁、ナザレン新書)。事柄の歪曲、本質のすりかえを行うことによって、再びエバを惑わせようとしたのですね。エバはこの蛇の言葉によって、大きく揺らいでしまいます。
結果、エバは木の実を取って食べ、一緒にいたアダムも木の実を食べてしまいました。そうすると、二人は自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆うことをします。
こうして、アダムとエバは自ら、神との信頼関係を壊してしまいました。蛇のたくらみは成功したのです。肉体的に死ぬことはありませんでしたが、神さまがあらかじめおっしゃっていた通り、善悪の知識の実を食べることによって、神さまとのかけがえのない関係性が破壊されてしまったのです。
事柄を歪曲することが、いかに私たちの関係性に破壊的なダメージを与えるものか、そのメッセージをここから読み取ることもできるでしょう。蛇はここで神さまの言葉を歪曲しているわけですから、その罪責は極めて大きいということができます。
過ちの否認と責任転嫁
神さまとの信頼関係が壊れた二人は、神さまの顔を避けて、園の木の間に隠れるようになります。二人の内にこれまでにない感情――「罪悪感」が生じてしまっていたのです。罪悪感が生じてしまった二人は、自分たちの過ちを率直に認めることもできなくなってゆきます。
神さまがアダムに対して、食べてはいけないと命じた木から実を食べたのか、と問うと、アダムは《あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました》(3章12節)と答えます。神さまとエバに責任を転嫁しているのですね。
自分の過ちを認めず、誰かに責任を転嫁する。これは私たちが日々の生活において行ってしまい得ることですが、これは私たちの関係性を壊していってしまうものです。アダムとエバの関係性にも、ここで亀裂が生じていることが分かります。対等なパートナーとして向かい合い、助け合っていたはずのアダムとエバの関係に亀裂が生じ始めています。
神がエバに対して「何ということをしたのか」と言うと、エバは《蛇がだましたので、食べてしまいました》(13節)と答えます。蛇が誘惑したのは事実ですが、自分の犯してしまった過ちを認める姿勢はやはりここには認められません。
過ちの否認と責任転嫁がいかに私たちの関係性を壊していってしまうかを、私たちはここから読み取ることができます。また、その過ちの否認と責任転嫁が、神さまとの信頼関係が失われたところから生じてしまっていることも、私たちが心に留めるべき重要な点でありましょう。
イエス・キリストの命の言葉
以上、部分的にではありますが、アダムとエバの物語をご一緒に見てまいりました。このように、創世記の物語は私たちの人間関係について、そして私たちと神さまとの関係について、いまも私たちに切実なメッセージを伝えてくれています。私たちもまた、様々な関係性の破れによって傷つき、苦しんでいます。人間関係を壊す力が連鎖し、ますます勢いを増している現状があります。
この私たちの関係性の破れ――人と人との関係の破れ、そしてその根本にある神と人との関係の破れを癒し、本来の在り方に回復させてくださった方、それがイエス・キリストであると私たちキリスト教は受け止めてきました。イエス・キリストの命の言葉の内に、私たちの痛みと苦しみが癒される道があるのだ、と。
善悪の知識の木の隣に植えられていた、命の木――。アダムとエバはこの命の木の実を食べることはありませんでしたが、いま、私たちはイエス・キリストを通して、この命の木の実をいただいているのだと受け止めることができます。イエスさまの命の言葉は、私たちの関係の破れを癒し、私たちをまことの命へと導いてくださるもの。私たちが互いに対等な存在として、助け合うための道を、神さまの目に尊厳ある存在として、重んじ合ってゆくための道を示して下さっています。
イエスさまが示して下さる命の言葉に、いま私たちの心を向けたいと思います。