2023年12月10日「暗い所に輝くともし火として」

20231210日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書53647節、ペトロの手紙二119節‐2章3節、列王記上2215

暗い所に輝くともし火として

 

 

アドベント第2主日礼拝

 

先週から教会の暦でアドベント(待降節)に入っています。アドベントはイエス・キリストが誕生したクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間のことを言います。

 

講壇の前に飾っているリースは、アドベントクランツと言います。教会ではアドベントの時期に、このクランツのろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆく慣習があります。今日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火がともっています。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。毎週1本ずつろうそくに火がともってゆくことで、クリスマスが近づいてきていることを実感することができます。

ろうそくの光は、イエス・キリストの光を表しています。聖書において、イエス・キリストは「まことの光」であると言われます(ヨハネによる福音書19節)。これらのろうそくの光は、まことの光であるイエス・キリストを指し示すものであるのですね。

 

 

 

讃美歌243番『闇は深まり』

 

 本日はアドベントに歌われる賛美歌、『闇は深まり』という曲をご紹介したいと思います(『讃美歌21243番)。作詞はヨッヘン・クレッパー19031942という方です。ヨッヘン・クレッパーは20世紀前半のドイツに生きた人で、ナチス・ドイツによる迫害を受ける中、優れた宗教詩を残したことで知られています(他に『讃美歌21』に収録されている讃美歌として273番『この聖き夜に』、472番『朝ごとに主は』など)

 

ご一緒に『闇は深まり』の歌詞を見てみたいと思います。1番はこのような歌詞です。

《闇は深まり 夜明けは近し/あけの明星 輝くを見よ。/夜ごとに嘆き、悲しむ者に、/よろこび告ぐる 朝は近し》。

 この1番の歌詞では、夜空に明けの明星が輝いている様が謳われています。明けの明星は、夜明け前に東の空に明るく輝く金星の別名です。明けの明星が夜空に輝き始めたということは、もう夜明けが近いということを意味しています。明けの明星は朝の訪れを告げる存在です。

 

《闇は深まり 夜明けは近し/あけの明星 輝くを見よ》――。この『闇は深まり』という賛美歌は、「闇」という言葉で始まっています。闇が深まっている。自分たちの周囲には、夜更けのように深い闇がある。しかし、同時に、夜明けは近いことを信じる言葉が語られます。喜びを告げる朝が近いことを信じ、闇の中に輝くあけの星を共に見上げよう、そうヨッヘン・クレッパーは記しています。

 

 より原詩に近い日本語訳で、同じ部分を引用してみます。《夜は更けた。/夜明けはもう遠くない。/さあ、賛美の歌を捧げよう、/光輝く明けの星に!/夜通し泣き明かした者も/さあ、朗らかに合唱に加わろう。/明けの星は/あなたの恐れと苦悩をも明るく照らす》(ヨッヘン・クレッパー『クリスマスの歌』、『キリエ――宗教詩集』所収、富田恵美子・ドロテア、富田裕訳、教文館、2011年、4243頁)

 

 彼がまなざしを向けていた明けの明星、闇に輝くその光とは、イエス・キリストの光でした。続く23番では、イエス・キリストがこの世に来られたクリスマスの出来事が謳われます。2番《おさな子となり 僕となりて/み神みずから この世にくだる。/重荷負うもの かしらを上げよ、/信ずるものはみな 救いを受けん》。

 3番《闇は去りゆく。目さめて走れ、/救い秘めたる あの馬小屋へ。/恵みの光 照り輝きて/悩み悲しみは もはやあらず》。

 

作詞をしたヨッヘン・クレッパーが生きたのは20世紀前半のドイツでした。ご存じの通り、ドイツでは、1930年以降、アドルフ・ヒットラー率いるナチスが台頭し、ユダヤ人への大規模な迫害・虐殺が行われてゆきました。

クレッパーが結婚したハンニとその娘ブリギッテとレナーテはユダヤ人でした。やがてクレッパー家族はナチスによる迫害の下、命の危険にさらされるようになってゆきます。クレッパーはそのような、周囲が恐ろしい闇に包まれている状況の中で、神に憐れみを求め、『闇は深まり』などの宗教詩を記していったのです(参照:川端順四郎『さんびかものがたりⅡ この聖き夜に アドヴェントとクリスマスの歌』、日本キリスト教団出版局、2009年、207214頁)

 

 

 

クリスマスの喜びは、悲しみを見つめる中で

 

私たちはいま、クリスマスを待ち望むアドベントの時を過ごしています。クリスマスは、私たちにとって、喜びの日です。しかしそれは、「悲しいことは忘れて、いまは楽しくやろうよ」という意味での喜びの日ではありません。私たちの心の中にある悲しみをはっきりと見つめる中でこそ見えてくる喜びが、クリスマスの喜びです。イエス・キリストは、私たちの悲しみ、重荷を共に担うため、私たちのもとに来てくださいました。

 

 私たちは日々の生活の中で、様々な悲しいこと、辛いこと、困難に出会います。自分自身のこと、家族のこと、友人のこと。またこの国のこと、世界のこと……。ロシアとウクライナの戦争はいまだ停戦に至ることなく続いています。ハマスとイスラエルの戦争もいまだ停戦に至ることはありません。日々報道される戦争に関するニュースに、皆さんも心を痛め、辛い思いで過ごしておられることと思います。

 

私たちの近くに遠くにある、悲しい現実、困難な現実。時には、「主よ、憐れんでください(キリエ・エレイソン)」と叫ばずにはおられない時もあります。イエスさまは、そのような私たちのため、この世界にお生まれになって下さったことを思い起こしたいと思います。

 クリスマスの喜びは、悲しみを見つめる中で与えられるもの。クリスマスの光は、暗闇を見つめる中で、与えられるもの。クリスマスを喜ぶことのできないような状況の人々のためにこそクリスマスはあるのだということを、ご一緒に思い起こしたいと思います。

 

 

 

クリスマスの光と、私たちの社会を覆う暗闇

 

ヨッヘン・クレッパーは、妻と娘の一人が強制収容所へ送られる直前、彼女たちと共に自ら命を絶ちました。大変痛ましいことですが、1942年のことでした(享年39歳)。彼が遺した詩は、いまも多くの人の心を打ち続け、苦しみの中にある人々の祈りの言葉となっています。

 

『闇は深まり』の最後の4番の歌詞はこのように記されていました。

《闇の中にも 主は歩み入り、/かけがえのない われらの世界/死の支配より 解き放ちたもう。/来たらせたまえ 主よ、み国を》。

この4番の歌詞ではクリスマスの出来事に、十字架の出来事、そして復活の出来事が重ね合わされていると受け止めることもできます。

イエス・キリストはご生涯の最後に十字架刑によって殺され、そして、三日目の朝に復活された――聖書はそう証しします。「死は終わりではない」ことを私たちに伝えています。クレッパーはこの復活への信仰を、自分たちの最後の希望の光としていたのではないでしょうか。

 

たとえ私たちの目には目の前が真っ暗だと思えても、神の目から見ると、そうではない。この暗闇に光をもたらすために、イエス・キリストは私たちのもとへやってきてくださる。それがクリスマスの光であり、十字架の光であり、そしてその向こうから差し込んでくる復活の光です。決して消えることがないこの光を知らされているからこそ、クリスマスは私たちにとって喜びの日となります。たとえ私たちが死の陰の谷を行くときも(詩編23編)、この光は消え去ることはないのだと信じています。クレッパーご家族もいまは、この光の中で安らいでいることと信じます。

 

私たちはそのように共に信じながら、同時に、クレッパー一家が経験したような悲しい出来事が、もう二度と繰り返されることのないように、という祈りを新たにすることが大切でありましょう。クレッパー家族をはじめ、多くの人々を死に追い詰めたもの、それは他でもない人間の悪です。

 

第二次世界大戦においてはナチス・ドイツによって、ユダヤ人への虐殺がなされました。いま、一部のイスラエルの指導者たちによって、パレスチナ人への虐殺がなされている現実があります。第二次世界大戦において虐殺を受けた側の人が、今度は虐殺する側に立ち続けているのです。これも、私たち人間の内に巣食う悪によるものです。悪の連鎖、暴力の連鎖を、いかにしたら私たちは止めることができるでしょうか。

 

馬小屋(家畜小屋)の飼い葉桶に眠る幼な子の向こうには、十字架が立っています。イエス・キリストを十字架の死に追い詰めたのも、他でもない私たち人間の罪と悪です。馬小屋の周囲を覆う暗さは、私たちの社会を覆う暗さでもあるのではないでしょうか。

 

 

 

《暗い所に輝くともし火として》

 

先ほど読んでいただいた新約聖書のペトロの手紙二に、このような言葉がありました。ペトロの手紙二119節《こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください》。

 

ここでも、明けの明星が出てきました。東の空に輝く、明けの明星――この明けの明星は、イエス・キリストご自身を表しています。私たちの心に夜明けをもたらす、明けの明星なるキリストが、再び到来する時が必ず来るのだ、と手紙の著者は私たちに語りかけています。

 

確かに、自分たちの周囲は闇に包まれている。闇はますます深まっているように見えるが、それは夜明け前であるから――。朝は必ず訪れる。キリストは必ず私たちのもとに来て下さる。私たちを罪と死の支配から解き放ち、私たちの存在を光で満たしてくださる。その時まで、《暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください》と手紙の著者は続けます。《預言の言葉》とはすなわち、聖書の言葉のことです。

聖書のみ言葉とは、暗闇の中に輝くともし火。まことの光を指し示す、ともし火。このアドベントクランツのろうそくのように、イエス・キリストのまことの光を指し示すものが、聖書の言葉であるのですね。暗闇の中のともし火である聖書の言葉を心に留めることを通して、夜明けは必ず訪れることへの信頼が私たちの内に育まれ、新たにされてゆきます。

 

 

 

聖書のみ言葉と共に、私たち自身をともし火として

 

まことの光なるキリストはまもなく、私たちのもとへ来て下さる。私たちの内に、私たちの間に、到来してくださる。この光なるキリストは、この世界に愛と命と平和をもたらしてくださる存在です。神さまの目にかけがえのない一人ひとりが決して失われることがないように、イエス・キリストは世の光として、輝き続けておられます。

 

まことの光なるキリストは私たちに語りかけておられます、《互いに愛し合いなさい(ヨハネによる福音書133435節)と。《私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》。互いの存在を認め合い、その生命と尊厳を重んじ合ってゆきなさい、と。

互いに愛し合いなさい》との教えを遵守するとき、私たちは聖書のみ言葉と共に、イエス・キリストを指し示す、小さなともし火となるでしょう。暗闇の中に輝くともし火となるでしょう。

 

 聖書のみ言葉と共に、私たち自身をともし火として掲げつつ、御子イエス・キリストの到来をご一緒に待ち望みたいと思います。