2023年12月17日「あなたたちには義の太陽が昇る」

20231217日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1928節、コリントの信徒への手紙一415節、マラキ書31924

あなたたちには義の太陽が昇る

 

 

アドベント第3主日礼拝 ~喜びの主日

 

本日はアドベント第3主日礼拝をおささげしています。アドベントは「到来」という意味です。イエス・キリストがこの世界に到来されたクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間がアドベントです。今朝はアドベント・クランツの3本のロウソクに火がともっています。

  アドベント第3主日は「喜びの主日」とも言われます。ここでの喜びとはもちろん、イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの喜びのことを指しています。3本目のロウソクには、ピンク色が用いられることもあります。ピンク(バラ色)は私たちの内に喜びを喚起させる色ですね。来週、いよいよ私たちは来週にはクリスマスを迎えます。

 

 

 

洗礼者ヨハネ

 

アドベントの第3週に取り上げられる人物として、洗礼者ヨハネがいます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが公の活動を始めるより先に、ヨルダン川で人々に「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人です。

 

スクリーンに映していますのは、マティアス・グリューネヴァルトという画家が描いた洗礼者ヨハネの絵です(イーゼンハイム祭壇画の一部)。ヨハネはらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなご(あるいはいなご豆)と野蜜を食べものとして生活をしていたようです(参照:マルコによる福音書16節)

 

新約聖書においてはこの洗礼者ヨハネはイエス・キリストの「先駆者」として位置づけられています。これから到来するまことの救い主の道を整え、その道筋をまっすぐにするため(ヨハネによる福音書123節)に遣わされた人物として受け止められているのです。まさにクリスマスが間近のアドベント第3週に取り上げられるにふさわしい人物だと言えます。

 

先ほど、ご一緒に讃美歌234番「ヨルダンの岸で」を歌いました。1番と2番の歌詞を改めて引用いたします。《ヨルダンの岸で/洗礼者叫ぶ。/「目覚めてよく聞け、主がすぐ来られる。/今、罪を 悔いて/心きよめられ/キリスト迎える/道を整えよ」》。

 

 

 

ヨハネの「悔い改めの洗礼」

 

 洗礼者ヨハネはヨルダン川のほとりにて、集まってくる人々に対し、「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていました。川の中に入って、全身を水に沈めるという仕方です。これが、いまも一部の教会で行われている「浸礼」の起源です。花巻教会も洗礼式をこの浸礼で行っていますね。ただし、このヨハネの洗礼にはまだ「クリスチャンになる」意味合いはありません。ヨハネが行っていた洗礼は「罪を悔い改める」意味が込められているものでした。水の中で一度古い自分が死に、水から上がったとき、新しい自分が生まれる――。一種の死と再生の儀礼であったと言えるでしょう。洗礼者ヨハネが行っていた悔い改めの儀式は当時、多くの人々の心をひきつけていたようです。

 

 

 

「エルサレム神殿を中心とする社会の体制」への批判

 

 では、ヨハネはどのような事柄に悔い改めを迫っていたのでしょうか。洗礼者ヨハネが批判したことの一つに、「エルサレム神殿を中心とする社会の体制」があります。

 

当時、政治的・宗教的な指導者たちは民衆から税や作物、労働力を徴収し、多大な利益を得ていました。その仕組みの中心にあるのがエルサレム神殿でした。指導者たちは神殿に集まり、熱心に祭儀を行い、様々な会議を行っていました。一方で、神殿の外の、生活に苦しむ人々の声に耳を傾けることはありませんでした。むしろそれらの貧しい人々に重税を課し、搾取している現状があったようです。ヨハネの厳しい批判は、とりわけエルサレムの政治的・宗教的な指導者たちに向けられていました。

 

 今年の世相を表す漢字として、「税」が選ばれましたね(公益財団法人 日本漢字能力検定協会主催)。生活に苦しむ国民の声に耳を傾けることなく、いかに自分たちが得するかばかりを考えている一部の政治家たち。ヨハネが生きていた時代と、いまの私たちが生きる時代は、通ずるものがあるのではないでしょうか。

 

ヨハネは祭司の家系に生まれたにも拘わらず、神殿から離れ、荒れ野で生活をしていました。荒れ野での生活自体が、神殿を中心とする当時の社会の体制への批判(『否!』)であったと言えるでしょう。

エルサレム神殿を中心とする体制において忘れ去られてしまっているものは、特に、弱い立場に追いやられている人々の存在です。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の律法では、社会的に弱い立場にある人々、虐げられている人々を大切にしなければならないということが繰り返し語られています。これが律法の本来の教えであるはずなのに、その教え(人道的な律法)がないがしろにされている現実がありました。

 

 

 

「選民思想」への批判

 

ヨハネが批判したもう一つのこととして、「選民思想」があります。ここでの選民思想とは、「自分たちは神によって選ばれた民族なのだ」との認識のことを指しています。

 

選民意識に対するヨハネの批判は、たとえば次の言葉に端的に表わされています。《『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる(マタイによる福音書39節)

アブラハムは、イスラエル民族の父祖となった人物です。イスラエルの民において、アブラハムの子孫であることがアイデンティティーの土台となっていました。かつて神がアブラハムと結んだ約束が、自分たちの救いの根拠となっていたのです(創世記15121節)。しかしヨハネは大胆にも、この神とアブラハムとの約束をも相対化しようとしています。

 

選民思想は、自分たち以外の民族を、神によって「選ばれていない人々」、すなわち「異邦人」として見下してしまう危険性をもっています。そして排他的な姿勢につながってゆく危険性をもっています。ヨハネはこのような排外主義的な選民思想を厳しく批判したのです。

この選民思想の問題は、いまイスラエルが行っているパレスチナ人への迫害・虐殺ともつながっています。いま改めて、洗礼者ヨハネの言葉は切実さをもって私たちに迫ってきます。ハマスとパレスチナの戦争が即時停戦へと至りますよう、パレスチナの人々への虐殺が一刻も早く中止されるよう、切に願います。

 

 

 

《荒れ野で叫ぶ声》 ~「集団から切り離された個人」の声

 

人々に悔い改めを迫った洗礼者ヨハネ。では、ヨハネ自身は何を大切にしていたのでしょうか。それは、個人としての意識です。ヨハネは、民族や集団に属する自分ではなく、一人の人間として生きる自分のあり方を問うたのだ、と私は受け止めています。民族とはまた別個の、個人のあり方を問うたところに、ヨハネの新しさがあったのではないでしょうか。

 

礼拝の中で読んでいただいたヨハネによる福音書11928節の中に、《荒れ野で叫ぶ声》という言葉が出てきました23節)。洗礼者ヨハネはイザヤ書の言葉を用いて、自身を《荒れ野で叫ぶ声》であると形容しています。23節《ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。/「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。/《主の道をまっすぐにせよ》と。」》。

 

《荒れ野》という語は、原語のギリシャ語では「孤独」という意味もあわせもっています。ある人は、《荒れ野で叫ぶ声》は「孤独の中で叫ぶ声」という方が適切であると述べています。ヨハネはもはや民族や集団に属することなく、都エルサレムを離れ、ただ独りで荒れ野にて活動を始めました。荒れ野に独り立つこのヨハネの姿がいかに衝撃的であったかは、当時の人々がどういう意識で生きていたかに想いを馳せるとより分かりやすくなるでしょう。

 

ヨハネが生きていたのは、現代よりもっと個人というものへの意識が希薄な時代でした。人々は個人としての「私」としてではなく、「我々」という意識の中を生きていたのです。民族や集団に属する一員としての「我々」ですね。そのような意識で多くの人々が生きていた中、洗礼者ヨハネは荒れ野にて、民族や集団から切り離された個人として語りました。ヨハネを通して立ち現れ始めた新しい人間像は、人々に強烈な印象を与えたことでしょう。

ヨハネの洗礼には、集団の一員として生きてきた自分と決別し、一人の人間としての自分を新しく生きてゆくというメッセージも込められていたのではないかと私は考えています。そしてその一人の人間としての自分とは、自分自身の罪責をはっきりと自覚した個人です。

《荒れ野で叫ぶ声》とは、私たち一人ひとりの内にある良心の声として受け止めることもできるでしょう。

 

 

 

《わたしはその履物のひもを解く資格もない》

 

このようにまったく新しい人間像を提示したヨハネでしたが、本日の聖書箇所において、ヨハネは続けて次のように語っています。2627節《わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。/その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない》。

 

 間もなく、ヨハネよりもはるかに偉大な方が来られるというのです。自分はその履物のひもを解く資格もないとヨハネは述べます。その方こそ、イエス・キリストです。洗礼者ヨハネは、これから来られる救い主の道を準備する存在として位置づけられています。

 ヨハネは言います。自分は「水による洗礼」を授けたが、これから来られる方は、「聖霊による洗礼」をお授けになる33節)。イエス・キリストの聖霊による洗礼は、ヨハネの水による洗礼よりもはるかに重大な働きをもつことをヨハネは証しします。

 

 

 

イエス・キリストの聖霊による洗礼 ~「神に愛された、かけがえのない個人」の誕生

 

 ヨハネの水による洗礼は、集団から切り離された個人を誕生させました。集団の一人として生きてきた古い自分が死に、個人として新しく生まれ変わることを促しました。一方で、集団から切り離されるということは、大変なことでもあります。寄りかかるべきものがもはやないということですから。ヨハネが提示した個人とは、民族という大樹から切り離された、寄る辺のない存在であるということもできます。

 

 イエス・キリストもまたヨハネの精神を引き継ぎ、個人の在り方を重視しました。ただしヨハネと違うのは、イエスさまはその個人を、「神さまの目から見て、かけがえなく貴い存在」として受け止めておられたということです。

 

イエスさまは、一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえなく貴いということをお語りになりました。「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い存在である」(イザヤ書434節)という真理をお語りになりました。

一人ひとりの個人が神さまの目から見て「かけがえがない」ということは、言い換えれば、一人ひとりに神さまから「尊厳」が与えられているということです。イエスさまのお語りになる個人には、ヨハネにはなかった、尊厳という要素が加わっています。そしてこの個人の尊厳の光こそが、私たち一人ひとりが生きてゆくための土台となるものです。これを語ることはいまだヨハネにはできませんでした。これを語ることができるのは、神の御子なるイエス・キリストその方です。ヨハネはこの神の御子の光を指し示すために遣わされた存在でした。

 

イエス・キリストがこれから授けてくださる聖霊による洗礼(バプテスマ)は、一人ひとりを「神に愛された、かけがえのない個人」として新しく生まれ変わらせてくださるものです。神さまからの尊厳が与えられた、かけがえのない「私」として新しく生きてゆく力を、イエスさまは一人ひとりに与えてくださろうとしています。この神の国の福音の力を受けた私たちは、もはや寄る辺のない存在ではなくなるでしょう。人生のまことの土台を見出すことができるのですから――。

 

 

 

《あなたたちには義の太陽が昇る》

 

 洗礼者ヨハネが荒れ野で叫び声を上げてから、2000年近くが経ちました。残念ながら、いまだ私たちの社会はヨハネが厳しく批判した状況と重なるものがあります。個人は集団の中に埋もれ、一人ひとりの個人が大切にされない社会となってしまっています。近くに遠くに、悲惨な現実、痛みに満ちた現実があります。そしてそれらの状況の多くが、個人の尊厳が軽んじられることによって生じているのではないでしょうか。

 

 メッセージの冒頭で、本日アドベント第3主日は「喜びの主日」であると言いました。私たちの目の前には、喜びを感じることが難しいような現実があります。悲しみや痛みに満ちた現実があります。イエスさまは、そのような私たちのため、この世界にお生まれになってくださったことを思い起こしたいと思います。クリスマスの喜びは、悲しみを見つめる中で与えられるものであることをご一緒に思い起こしたいと思います。

 

 ヨハネは痛みに満ちた現実を直視し、そしてその現実のただ中に到来しようとしている光を指し示しました。その光は《まことの光で、世にあってすべての人を照らす(ヨハネ福音書19節)光です。私たち一人ひとりに、神からの尊厳を与えてくださる光です。

 

本日の聖書箇所であるマラキ書に次の言葉がありました。《しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る(マラキ書320節)。あなたたちには、義の太陽が昇る――。預言者マラキはそう神さまの言葉を取り次ぎます。教会は、この《義の太陽》をイエス・キリストその方として受け止めてきました。私たちの心に朝をもたらす太陽、この世に正義をもたらし、世にあってすべての人を照らす太陽として。

 

どうぞいま、まどろみから目を覚まし、《義なる太陽》であるキリストに私たちの心を開きたいと思います。