2023年12月24日「すべての人を照らす光」

20231224日 花巻教会 クリスマス礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書6267節、1012節、テトスへの手紙347節、ヨハネによる福音書1114

すべての人を照らす光

 

 

 

二つのクリスマス物語

 

 本日はイエス・キリストの降誕を記念して、ご一緒にクリスマス礼拝をおささげしています。クリスマスの恵みがここに集ったお一人おひとりと共にありますようお祈りいたします。

 

 クリスマス物語というと、皆さんはどのような場面を思い浮かべるでしょうか。イエス・キリストが馬小屋(家畜小屋)で誕生した場面を思い浮かべる方も多いことでしょう。羊飼いたちの前に天使が現れて救い主の誕生を告げる場面、東方の博士たち(占星術の学者たち)が不思議な星に導かれて赤ん坊のイエスさまを探し当てる場面も有名です。

 

 一般に知られているクリスマス物語は、二つのクリスマス物語が合成されたものです。新約聖書には、二つのクリスマス物語が記されています。マタイによる福音書のクリスマス物語とルカによる福音書のクリスマス物語です。

 

 家畜小屋で誕生したイエスさまが布にくるまれて、飼い葉おけ(牛やロバのエサとなる草を入れておく桶のこと)に寝かせられたという有名な場面は、ルカによる福音書のクリスマス物語に記されています(ルカ福音書267節)。住民登録のためベツレヘムという町に赴いたところ、マリアの月が満ちてイエスさまがお生まれになったことをルカ福音書は記します。宿屋に泊まる場所がなかったので、イエスさまは人が寝起きする座敷ではなく、貧しい家畜小屋でお生まれになりました。もう一つのマタイによる福音書のクリスマス物語はイエスさまがお生まれになったのはベルレヘムであることを記しながらも、具体的にどのような場所で生まれたかは記していません。

 

羊飼いたちの前に天使が現れて救い主の誕生を告げるシーンを記しているのも、ルカ福音書です2820節)。天使たちが歌った歌は、クリスマス物語の中でも特に大切にされてきた箇所の一つですね。《いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ(同14節)

 

 もう一つの、マタイによる福音書のクリスマス物語にはどのような場面が描かれているでしょうか。占星術の学者たちが星に導かれて幼子の救い主を探し当てるエピソードを記しているのが、マタイ福音書です。博士たちが幼子の前にひれ伏して、黄金と乳香と没薬をささげる場面はよく親しまれているものですね。

 

 マタイによる福音書のクリスマス物語は、その後、暗さを帯びてゆきます。占星術の学者たちから「ユダヤ人の王が誕生した」ことを聞いたヘロデ王が不安に駆られ、ベツレヘムとその一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺すよう命令を下す場面が続くのです(マタイ福音書21318節)。幼子イエスとマリアとヨセフはエジプトに避難したことにより、一命をとりとめ、無事でした。

 

 クリスマス物語というと、明るく希望に満ちた物語なのかなと思ってしまいますが、実際のクリスマス物語にはこのような暗く悲しい場面が挿入されているのですね。

 

 

 

私たちの心に暗い影を落とす場面

 

その該当する箇所を引用いたします。マタイによる福音書21618節《さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。/こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。/「ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」》。

 

キリストの誕生という最高に喜ばしい出来事の直後に記される、大変悲惨な出来事。イエスさまの誕生後に挿入されているこの幼児虐殺のエピソードは、私たちの心に暗い影を落としています。

 

これまでのキリスト教の歴史において、このエピソードをどう捉えるかには様々な議論がありました。伝統的な受け止め方として、この罪のない幼児たちの死を殉教として受け止めるというものがあります。カトリック教会ではこの無辜の幼児たちは聖人として扱われており、1228日がその祝祭日となっているそうです。

現代の聖書学では、この幼児虐殺の出来事は史実として捉えることは難しいと考えられています。「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺した」ということが、マタイが記す通りに文字通り行われたとは、実際には考えにくいことだからです。そう知らされると、幾分ホッとする想いにもなりますが、しかし、たとえ文字通りのことは起こらなかったとしても、子どもたちの命が理不尽に奪われるということは、数々あったでしょう。愛する我が子を失った人々の嘆き、愛する家族を失った私たち人間の悲しみが一つに凝縮されたものとして、この幼児虐殺の場面が挿入されているのだと、本日は受け止めたいと思います。

 

先ほどお読みした箇所に、預言者エレミヤの言葉が引用されていました。《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。

 

ラケルはイスラエル民族の祖ヤコブと結婚した女性です(創世記291630節)。いわば、イスラエル民族の母と呼ぶことができる人物であり、「母」を象徴する人物として、ラケルが登場していると受け止めることができます。

ここで述べられているのは、母親たちの悲痛な叫びです。母たちは子どもたちのことで泣き、もはや誰からも慰めてもらおうとはしません。愛する子どもたちがもういないからです。我が子を失った悲しみの中で、母親たちは他者から慰められることを拒みます。

 

 

 

ガザ地区の惨状

 

かつてエレミヤが聴き取ったこの嘆き悲しみの声は、いまも、私たちが生きる世界のあちこちで湧きあがっています。特に、私たちがいま真っ先に思い起こすのは、パレスチナ自治区のガザ地区で起っているハマスとイスラエルの戦争です。1222日付の新聞の報道では、107日の戦争開始以降のパレスチナ側の死者数は2万人を超え、その4割の8千人が子どもたちであるとのことです(朝日新聞、20231222日、1面)

 

ユニセフのラッセル事務局長は、《いま、子どもにとって世界で最も危険な場所はパレスチナ自治区ガザ地区である》と述べているそうです。また、ガザの保健当局によると、死者の約7割は子どもと女性であるとのことです。この悲惨な現状を踏まえ、ニューヨークタイムズのニコラス・クリストフ氏は次のように述べています。《中東について話し合うのは難しい。人々はすぐに敵味方に分かれてしまうからだ。しかし、私たちは、イスラエルでもガザでも同様に、誰の安全を強化することもないまま無意味に死んでいく子どもたちの側に立たなければならない。イスラエル、米国、パレスチナの子どもたちの命はすべて等しく価値があり、私たちはそのように行動すべきなのだ》(朝日新聞、20231223日、NYタイムズ、126日付電子版、抄訳)

 

 

 

がれきの中の赤ん坊の人形

 

 スクリーンに映していますのは、1219日の朝日新聞の1面の切り抜きです。写真は、イエス・キリストが誕生したベツレヘムの教会での展示(クリブ)の様子です。例年は飼い葉おけに眠る赤ん坊のイエスさま、その傍らにいる母マリアや父ヨセフらの人形が展示されるところが、今年はがれきの中に赤ん坊のイエスさまの人形が置かれています。母マリアと父ヨセフは、積み重なったがれきの山を前に我が子の姿を見失い、捜しています。この展示では、いまガザ地区で起こっていることが再現されています。

 

 ベツレヘムはパレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区に属しています。戦場となっているガザ地区とも距離が近いです。ベツレヘムでは今年はすべてのクリスマス行事を中止にすることが決定されています。紹介した展示がなされているベツレヘムの福音派ルーテル・クリスマス教会のニスリーン・ナサールさんの言葉です。《ガザでは毎日、何百人もが殺されている。ガザの教会は避難者であふれ、空爆にもあった。キリストの生誕を祝うことはできない。祈り続け、いまの状況が終わるという希望を捨てていない》(朝日新聞、20231219日、9面)

 

 ガザでの戦争、またロシアとウクライナの戦争をはじめ、私たちの生きる世界には、様々な悲惨な出来事があり、困難な出来事があります。クリスマスを喜びたくても喜ぶことができない状況にいる方々が、たくさんいます。私たち自身、時に、暗闇の中を歩いているような感覚になることがあります。クリスマス礼拝を共にささげる今朝、戦争が一刻も早く停戦へと至りますように、これ以上、子どもたちのかけがえのない命が傷つけられ、失われることのないようご一緒に祈りを合わせたいと思います。パレスチナの人々に対する虐殺が一刻も早く中止されるよう、戦争が一刻も早く停戦へと至るよう、強く求めます。

 

 

 

隠された預言の後半部分

 

先ほど、マタイ福音書が引用する預言者エレミヤの言葉をお読みしました。《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。

この預言には、続きがあります。マタイが引用しているのは半分であり、実際には次の言葉が続きます。《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る(エレミヤ書311617節)

 慰めと希望を語るこの後半部は、マタイ福音書のクリスマス物語において隠されています。マタイは意図的にこの後半部は記さず、あえて前半部だけを記したのだと考えられます。

 

 マタイ福音書のクリスマス物語はその後、幼子イエスとマリアとヨセフは避難していたエジプトを出発し、ガリラヤのナザレという町に向かう場面が続きます。エレミヤ書の預言の後半を実現するため、これからイエスさまはエジプトを出てゆかれるのだと受け止めることができるでしょう(=新しい出エジプト)。クリスマス物語には、続きがあるのです。隠された預言の後半部分を実現するために続いてゆく物語、それが、成長されたイエスさまの最後の数年間の物語、そして十字架の死と、復活の物語です。

 

 

 

すべての人を照らす光

 

 本日は、二つのクリスマス物語についてお話ししました。特に、マタイ福音書のクリスマス物語の幼児虐殺の場面に焦点を当てて、お話しをしました。

私たちが日々の生活の中で経験する多くは、エレミヤの預言の前半部であるかもしれません。私たちの近くに遠くに、母ラケルの嘆きがあり、嘆き悲しむ声があふれています。私たち自身、まるで周囲を暗闇が覆っているような感覚になる時もあります。

聖書は、その暗闇のただ中に、光が輝いていることを語っています。その光とは、イエス・キリストの光です。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)

すべての人を照らす光として、イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。私たちの目には隠された、エレミヤの預言の後半部分を実現するために――。この世界に生きるすべての人に、神さまからの慰めと希望を与えるために。この世界に、まことの愛と平和と、命の光をもたらすために。

 

主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい》。イエスさまはいま、私たちにそう語っておられることを、ご一緒に心に留めたいと思います。

 

 

 

神の御子が与えてくださる愛と平和と命の光

 

クリスマス物語は、完結することのない物語であるのでしょうか。イエスさまはいまこの時、戦場のがれきの中に、お生まれになってくださっている。かつて貧しい家畜小屋の中でお生まれになったように、いまこの時、私たちの悲惨な現実のただ中に、弱く小さな存在として、布に包まれて横たわっておられる。

暗闇が私たちの社会を覆ういまこそ、この幼子を通して現わされる神さまの愛と平和と命の光に、私たちの心を向けたいと思います。私たちの間に、私たちの内に、神の愛が実現してゆきますように。キリストの平和が実現しますように。私たちの間に、私たちの内に、御子キリストの復活の命の光が輝き出でますように。私たちが互いを重んじ、一人ひとりの生命と尊厳をまことに大切にしてゆくことができますように――。

 

 

クリスマスの恵みが、ここに集ったお一人おひとりと共に、また、ここに集うことのできなかったお一人おひとりと共にありますようお祈りいたします。