2023年3月19日「山上の変容」
2023年3月19日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:出エジプト記34章29-35節、コリントの信徒への手紙二3章4-18節、ルカによる福音書9章28-36節
受難節第4主日礼拝
私たちはいま教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を想い起こしつつ過ごす時期です。本日は受難節第4主日礼拝をおささげしています。
礼拝の前奏が流れたとき、講壇の前に立てられているロウソクの内、4本の火を消したのをお気づきになったでしょうか。これは消火礼拝と呼ばれ、講壇の前に立てられているろうそくの火を毎週一本ごとに消してゆくものです。アドベントのときは毎週一本ずつろうそくに火をともしてゆきますが、その逆ですね。受難節は7週続きますので、全部で7本のろうそくが立てられています。今日は第4週目なので4本のろうそくの火を消しました。最終の週、洗足木曜日礼拝をおささげするときに、すべてのろうそくの火が消えることとなります。
最後の晩餐の後、イエス・キリストを裏切るために外に出て行ったユダを、深い夜の闇が覆ったことをヨハネ福音書は記します。《ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった》(13章30節)。また、イエス・キリストが十字架に磔にされた際、全地を深い闇が覆ったことをマルコ福音書は記します。《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》(15章33節)。
この暗闇はイエスさまがそのご受難と十字架において経験された暗闇を表しています。またいま、私たちの社会を覆っている暗闇を表すものとしても受け止めることができるでしょう。私たちの社会には様々な苦しみ、悲しみ、痛みが満ちています。様々な困難な課題、不条理な現実があります。
受難節のこの時、イエスさまのお苦しみに思いを馳せ、この社会に満ちる様々な苦しみや痛みにご一緒に心を開いてゆきたいと思います。またそして、この暗闇の向こうから差し込むイースターの光、復活の光を希望として、共に歩んでゆきたいと思います。
《ペトロはひどく眠かった》
聖書を読んでいると、登場人物たちが眠っている場面がよく出てきます。聖書において、夢はとても大切な位置づけにあります。夢を通して、神さまが何らかのメッセージをお伝えになることがあるからです。
一方で、眠ってはいけない場で登場人物がまどろみの中に落ち込んでしまうこともあります。代表的な箇所としては、ゲツセマネの祈りの場面が挙げられるでしょう。
イエス・キリストは十字架の道を歩まれる前、弟子たちを伴ってゲツセマネという場所で祈りをささげられました。イエスさまが祈りながら苦しみ悶えておられるとき、弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでしまいます(ルカによる福音書22章39‐46節)。受け止め難い現実を前に心身が眠り込んでしまうのは、私たちの一種の防衛反応によるものとも言えるかもしれません。イエスさまは眠り込む弟子たちを責めることはなさらず、すべてを受けとめ、ただお一人で十字架の道を歩んでゆかれます。
本日の聖書箇所ルカによる福音書9章28-36節でも、弟子たちがひどい眠気に襲われる場面が描かれています。《ペトロと仲間はひどく眠かったが、じっとこらえていると…》(9章32節)。この一文を別の翻訳では《ペトロとその仲間はすっかり眠りこけていたのだが、目をさますと…》と訳出しています(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書』、作品社、2011年、39頁)。眠気を堪えているのだけではなく、実際に眠ってしまっていたと翻訳しているのですね。そうしてハッと目を覚ますと、栄光に輝くイエスさまとそばに立つモーセとエリヤの姿が見えた、とルカ福音書は記します。
山上の変容
本日の聖書箇所は、本日の聖書箇所は「山上の変容(主の変容)」と呼ばれる場面です。イエス・キリストがペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちと共に山に登られた際、そのお姿が変わり真っ白に光り輝いたという場面です。正教会では、この山上の変容はクリスマスやペンテコステと共に祭日の一つとして祝われています。
イエスさまが弟子たちと共に登られた山がどの山であるのかははっきりとは分かりませんが、伝統的にはタボル山とされてきました。パレスチナにある標高575メートルのお椀型の山です。
山で祈っておられる内に、イエスさまは顔の様子が変わり、その服は真っ白に輝き始めました。《祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた》(29節)。またその輝きの中で、旧約聖書(ヘブライ語聖書)を代表する人物であるモーセとエリヤが現れて、イエスさまと共に語り合っていたと福音書は記します。《見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。/二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた》(30-31節)。
《エルサレムで遂げようとしておられる最期》とは、十字架の死、そして復活のことを指しているのでしょう。ルカ福音書においては、さらに昇天の出来事をも指していると受け止めることができます。弟子たちはこれらの会話が意味することを理解できず、まどろみと眠りの中に落ち込んでゆきました。
ペトロたちが夢見ていたこと
先ほど述べましたように、受け止め難い現実、理解しがたい現実を前に、心身が眠り込んでしまうのは私たちには起こり得ることです。ペトロたちは受け止め難い現実を前に、まどろみと眠りの中に落ち込んでいってしまいました。
では、そのときペトロたちが夢見ていたことは、どのようなことだったのでしょうか。そのときペトロたちが日々夢見ていたのは、栄光に輝く「政治的な救世主としての」イエスさまのお姿だったのではないかと思います。そうして、イスラエルに栄光が取り戻されることを夢見ていたのではないでしょうか。
当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、人々はローマの支配から解放されることを熱望していました。そのような中、弟子たちはイエスさまこそが、「政治的な救世主(メシア)」ではないかと考え、イスラエルをローマの支配から解放してくれる役割を期待していたのです。
先週の礼拝メッセージでは、ペトロがその熱烈なる期待を込めて、「あなたは救い主です」と告白する場面をご一緒に読みました(ルカによる福音書9章18-27節)。ペトロのその言葉に対して、イエスさまはうなずくことをなさいませんでした。ペトロたちがイエスさまに期待している事柄とイエスさまご自身が実際にこれから成し遂げようとしている事柄は、大きくかけ離れているものであったからです。
十字架と復活の道
イエスさまはペトロの告白を聞いて、そのことをだれにも話さないようにと命じられ、次のようにおっしゃいました。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》(9章22節)。これからご自分は多くの苦しみを受け、宗教的な権力者たちから排斥され殺されることを予告されたのです。そして、三日目に復活することをも予告されました。この言葉は、ペトロたちにはまったく理解ができないものであったことでしょう。
福音書は、「人の期待に自分を合わせる生き方をなさらなかった」イエスさまのお姿を私たちに指し示しています。イエスさまはご自分の歩むべき道――十字架と復活の道をまっすぐに歩んでゆかれました。本日の山上の変容は、この問答に続く場面として記されています。
《これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け》
山の上で、ハッと目を覚ましたペトロは、自分でも何を言っているのか分からないままに、イエスさまに言います。《先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです》(33節)。目は覚めてもペトロはいまだ夢の続きの中――政治的な救世主としてのイエスさまがイスラエルに栄光を取り戻す夢の中にいたのかもしれません。
ペトロが夢うつつのままにこう話していると、不思議な雲が現れてイエスさまとモーセとエリヤを覆いました。イエスさまたちが雲の中に包まれてゆくので、弟子たちは恐れました。すると、雲の中から、次の声が聞こえてきました。《これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け》(35節)。その声がしたとき、そこにはイエスさまだけがそこにおられました。神さまから、イエスさまこそが神の御子であり、選ばれた者であることが改めて宣言されます。そして、イエスさまの声に聴き従うべきことが弟子たちに対して語られます。
イエスさまがおっしゃっていること、それは、ご自分がこれから十字架と復活の道を歩まれるということです。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》。しかし弟子たちはその当時はまだ、その言葉の意味を理解することはできませんでした。
イエスさまの旅路の終わり ~昇天の出来事
ルカ福音書-使徒言行録においては、イエスさまの旅路の終わりに、昇天の出来事が描かれます。《こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった》(使徒言行録1章9節)。ルカ福音書において最も強調点が置かれているのが、この昇天の出来事です。
この昇天の場面においては弟子たちはもはやまどろみに陥ることなく、はっきりと目を覚ましてイエスさまが天に上げられてゆく様子を見つめています。ルカ福音書においては、本日の山上の変容が、この昇天の出来事を先どって指し示すものとして位置付けられていると受け止めることもできるでしょう。
十字架と復活と、そして昇天の道を歩まんとされるイエスさまの旅路にこそ神さまの栄光が現わされていることをルカ福音書は語っています。
命の約束と結ばれて
イエスさまがこれらの旅路を歩まれたのは、私たちのためでした。神の目に価高く貴い私たち一人ひとりが誰一人失われることなく、神さまの愛と命に結ばれるため、イエスさまはこの道を歩みきってくださったのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
本日の場面からほどなくして、イエスさまは十字架の道を歩んで行かれます。私たちの想像を絶する苦難を受けられます。けれどもその十字架への道は、死で終わるのではない。その先には、復活と昇天に至る道が続いている。イエスさまはその命の約束を、ペトロたちに、そして私たち一人ひとりに伝えて下さっています。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》。
たとえ私たちが死の陰の谷を行くときも(詩編23編)、この命の約束は消えることはありません。私たちはいま、この約束と結ばれています。私たちはいつも、どんなときも、十字架のキリストと結ばれ、復活のキリストと結ばれ、神の右に座すキリストと結ばれています。どんなものも、このつながりから私たちを引き離すことはできないのだと信じています(ローマの信徒への手紙8章39節)。心の目を覚ますとき、神さまの愛と命の光に輝くイエスさまのお姿を仰ぎ見ることができるでしょう。
この2022年度、私たちは愛する方々を神さまのもとにお送りしました。いま悲しみの中にある方々の上に神さまの慰めとお支えがありますように祈ります。私たちがイエスさまといつも結ばれ、命の約束と結ばれていることを心に留めて共に歩んでゆけますように。