2023年4月23日「私に触れ、そして見なさい」

2023423日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書5116節、コリントの信徒への手紙一155058節、ルカによる福音書243643

私に触れ、そして見なさい

 

 

復活節第3主日礼拝

 

 私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活節はイエス・キリストのご復活を心に留め、復活の命の光を希望として歩む時期です。本日は復活節第3主日礼拝をおささげしています。

 本日は礼拝後に2023年度の教会総会を予定しています。教会員の皆さまはどうぞご出席ください。今年度も共に祈りあい、支え合いながら、皆さんと歩んでゆけることを願っています。

 

 

 

身体のよみがえり

 

キリスト教の教えの中に、「身体(からだ)のよみがえり」という考え方があります。礼拝の中でご一緒にお読みする使徒信条でも、最後に、「身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず」の文言が出てきます。イエス・キリストの復活の命に結ばれた私たち一人ひとりもまた、終わりの日に復活することを示す言葉です。

 

 ここで不思議に思われることは、なぜ「身体(からだ)」という言葉が出てくるのか、ということですね。死んでしまったら私たちの身体は消えてしまうはずなのに、なぜだろうと思われる方もいらっしゃることでしょう。

 ここに、聖書のメッセージの特徴があります。聖書は、私たち人間存在において、心と体は切り離せないものとして捉えているのです。心も体も魂も合わさって、「私」という一人の人間である。だから、終わりの日に、心と魂だけではなく、体も共に復活すると捉えているのですね。

この捉え方の背後には、目に見えない心や魂だけではなく、目に見える私たちの体もまた神さまが創ってくださった「かけがえのないもの」なのだ、との考え方があるように思います。

 

このように、聖書は目に見えるもの、耳で聴くことができるもの、手で触れることができるもの――私たちのこの体やこの世界のさまざまな物質を、なくてはならない大切なものとして捉えています。先ほどお読みした復活したイエス・キリストの出会いの場面(ルカによる福音書243643節)においても、復活したイエスさまが幽霊のような存在ではなく、生前のイエスさまと同じ体をもった存在として描かれていました。

 

彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。/そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。/わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」/こう言って、イエスは手と足をお見せになった(ルカによる福音書243740節)

 

 

 

心も体も魂もあわさって、その人自身

 

心も体も魂もあわさって、その人自身ということは、私たちの日々の生活を通して実感できることだと思います。私たちは愛する人の目には見えない内面を愛しています。と同時に、その人の目に見える部分も愛しています。その人の笑顔や、声、外面もまた、いとおしく思っています。愛する人のことを思い浮かべるとき、自然とその人の顔や声色、面影を想い起こすことでしょう。心も体も魂も、それら全部が合わさって、いとおしいその人の存在を創り出しています。

 

花巻ともゆかりの深い詩人・彫刻家の高村光太郎さんが、先に天に召されたお連れ合い・智恵子さんとの愛を謳った詩集『知恵子抄』に収められた詩『裸形』に、次のような言葉があります。

 

《智恵子の裸形をわたくしは恋(こ)ふ。/つつましくて満ちてゐて/星宿のやうに森厳で/山脈のやうに波うつて/いつでもうすいミストがかかり、/その造型の瑪瑙(めなう)質に/奥の知れないつやがあつた。/智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで/わたしは意味ふかくおぼえていて、/今も記憶の歳月にみがかれた/その全存在が明滅する》(新潮文庫、1967年、114頁)

 

高村光太郎さんは、智恵子さんの背中の小さな黒子まで、意味深く記憶していたようです。その小さな黒子が、その体の位置に在るということ。その小さなしるしも、高村光太郎さんにとっては「智恵子さんが智恵子さんであること」の、かけがえのない証しであったのでしょう。

そのように、その人がその人であるためには、心も体も魂も、切り離すことはできません。それらすべてが合わさって、かけがえのない、その人らしさを形づくっています。

もちろん、私たちの体は刻々と変化し、そしていつかは消え失せるものです。しかし、体を通して伝えられたその人らしさ、「その人がその人であること」の確かさは失われず、私たちの記憶に刻印され続けます。

 

キリスト教は「身体のよみがえり」の信仰を大切にしてきたということを先ほど述べました。心と魂だけではなく、体もその人の「かけがえのなさ」を形づくっているのであるから、終わりの日に魂だけではなく体もまた復活する、という考えが大切にされ続けてきたのだと受け止めることができます。

 

 

 

「どのように復活するのか」という疑問

 

 終わりの日に体もまたよみがえる。では、「どのように復活するのか」との素朴な疑問が私たちの内にわき上がってくるかもしれません。私たちは、どんな体で復活するのでしょうか。一番若々しかったときの体で復活するのでしょうか、あるいは晩年の体で復活するのでしょうか。もしくは現在の姿とは異なる、天使のような姿で復活するのでしょうか。

 

 キリスト教の歴史においても長らく、このことが議論になってきました。聖書において、はっきりとしたかたちでその説明がなされているわけではないからです。先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙一においても、象徴的なイメージで語られるにとどまっています。

 

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。/最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます(コリントの信徒への手紙一155152節)

 

 

 

《もし天国で君と会ったなら》……

 

 またそして、私たちが知りたく思うのは、神さまのもとに召された愛する人々とまた再会できるのであろうか、ということです。

再会できると信じているとしても、いざ再会した時、私たちは互いに互いが分かるのであろうか。聖書が語るように、私たちが《今とは異なる状態》に変えられるのであれば、いとおしく思っているその人の面影はもはや失われてしまっているのではないか、とふと不安を覚える人もいらっしゃるかもしれません。

 

 この聖書の言葉を読むとき、思い起こす歌があります。エリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン(天国の涙)』という曲です。愛する幼い息子を不慮の事故で亡くしたクラプトンが、その悲嘆の中で記した歌詞がもととなっていると言われます。歌の歌詞は次のように始まります。

 

Would you know my nameIf I saw you in heavenWould it be the sameIf I saw you in heavenI must be strongAnd carry on'Cause I know I don't belongHere in heaven》(もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えていてくれるかい。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるかい。僕は強くならなくては、そして生き続けていかなければ。だって僕は、この天国にいるような人間ではないから)。

 

天国で息子と再会した時、彼は自分を覚えていてくれるだろうか。以前と同じ姿で、同じ関係でいてくれるのだろうか……。誰しもが感じ得る根源的な疑問を言葉にしてくれている歌詞であると思います。これらの言葉から、天国にいる愛する息子が自分からだんだんと遠い存在となってしまうのではないかというクラプトン氏の悲しみや不安が伝わってくるようです。

 

この歌のタイトルは『ティアーズ・イン・ヘブン(天国の涙)』ですが、どれほどの涙と共に、クラプトン氏はこの詞を書いたのであろうか、と思います。同時に、その深い悲しみの中で、地上に遺された自分は、しかし、しっかりと生き続けねばならないとの決意も歌われています。

 

 

 

復活の命に中に抱かれて ~「あなたがあなたであること」は失われない

 

「もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えていてくれるかい。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるかい」……。聖書にもこの問いに対するはっきりとした答えが記されているわけではありません。私たちにとってそれは、いまだ謎であり続けています。当然のことですが、いま生きている者の中で実際に死を体験した者はいないからです。

けれども、「その人がその人であること」は、決して失われることはない。死をもっても、そのしるしは消え去ることはない――その希望が私たちに与えられています。その希望を端的に表わしている言葉が、「身体のよみがえり」です。

 

この「身体(からだ)」という言葉の中には、愛する人の笑顔、声、手のあたたかさ、この世界でその人と過ごした大切な記憶、それらすべてが込められているのだと思います。私たちにとってかけがえなく大切なそれら部分は、消え去ってしまうのではない。それらすべてのものが、神さまのもとへ抱きとめられる。イエス・キリストの復活の命の中に抱き入れられ、永遠に記憶される、本日はそのようにご一緒に受けとめたいと思います。

 

礼拝の中で読んでいただいたコリントの信徒への手紙一では、このことが《この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る》と表現されています(コリントの信徒への手紙一1554節)。朽ちるべきものとは、私たちの体です。私たちの体はいつかは消え去ります。その意味で、はかないものでもあります。対して、朽ちないものとは、永遠の命であられるイエス・キリストの体です。私たちの体ははかないものであっても、イエスさまの体はそうではない、と聖書は語ります。朽ちることのないキリストの体が、私たち一人ひとりの心と体と魂をしっかりと抱きとめてくださるのです。

 

復活されたイエスさまは弟子たちの前に現れ、おっしゃいました。《なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。/わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある》。そうして、ご自身の手と足を示して下さいました。それは生前と変わらぬ、イエスさまの手と足でした。

 

「私に触れ、そして見なさい」――復活したイエスさまは、そのご復活された体で、私たちの存在を抱きとめ、そう語りかけて下さっています。それは他ならぬ、私たちの愛するイエスさまです。いつまでも変わらぬ、私たちが愛するイエスさまです。《わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい》――。

朽ちることのない、このイエスさまの復活の体に抱かれる中で、「私が私であること」「あなたがあなたであること」のかけがえのなさもまた、失われることなく守られてゆくのだと信じています。またそして、イエスさまの愛と命に抱かれる中で、私たちは再び、愛する人々のいとおしい面影を――その笑顔、声、手足のあたたかさを見出すことができるでしょう。聖書はその希望を、私たちに約束してくれています。

 

 

 

神さまは私たちの目から涙をぬぐい

 

 先ほどご紹介したエリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン』の最後の方の歌詞は次のようになっています。

 

Beyond the doorTheres peace Im sureAnd I know therell be no more

Tears in heaven》(扉の向こうには、安らぎがあると僕は分かっている。/そしてそこには、天国にはもはや涙が存在しないと僕は知っている)。

 

聖書には、神さまがすべての顔から涙をぬぐってくださる日が来る、と記している箇所があります。新約聖書の最後を締めくくるヨハネの黙示録の言葉、《そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、/彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録2134節)

 

私たちはいまは涙を流し続けているのだとしても、いつの日か、神さまは私たちの目から涙をぬぐってくださる。その時が必ず来ることを、私たち教会はこの2000年間、希望の光として、灯し続けてきました。

 

 

 

「私に触れ、そして見なさい」

 

神さまは、私たちの涙をよく知っていてくださいます。私たちの言葉に出来ない嘆き、悲しみ、恐れ、痛み、その一つひとつの涙を、よく知っていてくださいます。イエスさまは私たちと共に涙を流しながら(ヨハネ福音書1135節)、「もう泣かなくともよい」(ルカ福音書713節)と、いま、私たちの顔から涙をぬぐおうとしてくださっています。

 

 

「私に触れ、そして見なさい」――私たちの涙をぬぐい、私たちのすべてを抱きとめて下さる復活のイエスさまのお身体に、いま、共にまなざしを向けたいと思います。