2023年5月21日「心を合わせて」

2023521日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:エゼキエル書4317節前半、マタイによる福音書281620節、使徒言行録11226

心を合わせて

 

 

詩『永遠のみどり』

 

新緑の美しい季節となりました。木々の緑が心に染み入る今日この頃です。

先週の水曜日と木曜日は、全国で30度を超える真夏日となりました。初夏というより、真夏の陽気。かと思うと、金曜日は一日雨。寒暖の差に体がびっくりしている方もいらっしゃるかと思います。皆さんもどうぞくれぐれもお体ご自愛ください。

 

5月の新緑の季節になると、思い起こす詩があります。詩人・小説家の原民喜さんが遺した『永遠(とは)のみどり』という詩です。原民喜さんは広島の原爆の被爆体験を描いた小説『夏の花』で知られている作家です。

 

《ヒロシマのデルタに

若葉うづまけ 

 

 死と焰(ほのお)の記憶

 よき祈よ こもれ 

 

 とはのみどりを

 とはのみどりを 

 

 ヒロシマのデルタに

 青葉したたれ》

(連作『原爆小景』より。『原民喜全詩集』所収、岩波文庫、2015年、58頁)

 

 詩の中に出てくる《ヒロシマのデルタ》とは広島市の中心部、旧太田川(本川)河口部の三角州のことを指しています。広島の中心市街地であるこの三角州は、194586日、原子爆弾によって一瞬のうちに破壊されました。

 詩『永遠のみどり』の中で、原民喜さんはこの壊滅的な被害を受けた広島のデルタに《若葉うづまけ》と記しています。広島のデルタに、若葉うずまけ、青葉したたれ。いつまでも、とこしえに……。

 

原民喜さん自身も、広島市内で生を受けました。広島市幟町(現・中区幟町)にて生まれ、原爆投下の当日も、この生家で被災しました。爆心地から1.2キロの距離でしたが、原さん自身は奇跡的にほとんど無傷で助かりました(参照:原民喜年譜、『原民喜全詩集』所収、172頁)。その後原さんが目にしたのは、想像を絶する光景でした。

後世の私たちの想像を絶する、まさに地獄を目の当たりにしたからこそ、原民喜さんにとって、若葉の緑は、切なる祈りとして感じられたのではないでしょうか。ハッと心が震えるような、祈りとして感じられたのではないでしょうか。原さんは少年時代の広島の5月に、とりわけ思い入れが強かったようです。また、自身の死を間近に覚悟していたので、その美しさがよりまばゆく迫って来たということもあったでしょう。

 

《死と焰の記憶に/よき祈よ こもれ/とはのみどりを/とはのみどりを/ヒロシマのデルタに/青葉したたれ》――。悲惨な現実のただ中にあっても、命は、新しく若葉を芽吹かせることができる。《死と焰の記憶》の中にあっても、私たちは《よき祈》をともすことができる。私たち人間には本来的に、その力が備えられているのだと、原さんは最後まで信頼していた人であったのだと思います。

原民喜さんの遺稿となった短編『心願の国』では、パスカルの次の言葉が引用されています。《我々の心を痛め、我々の咽喉(のど)を締めつける一切の悲惨を見せつけられているにもかかわらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできない本能を持っている》(『夏の花・心願の国』、新潮文庫、1973年、284頁)

 

 

 

広島でG7サミットが開催

 

広島デルタの一帯、太田川が元安川と分岐する三角州の上流部は、かつては中島地区と呼ばれ、広島有数の繁華街でした。カフェやシネマ、銭湯、青果店、料亭、幼稚園などがあり、約1300世帯、約4400人の人々が暮らしていたそうです(参照:朝日新聞、2023519日、第2面)86日午前815分、この中島地区のほぼ真上に、原爆が投下されました。直後、周辺の地表温度は3千~4千度にまで上昇、町にいたほとんどすべての人が亡くなりました(参照、朝日新聞、同)。かつて繁華街として栄えていたこの一帯は現在、平和記念公園の敷地となっています。皆さんもよくご存じの通り、園内には原爆ドーム、原爆の子の像、平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、韓国人原爆犠牲者慰霊碑などがあります。

 

 一昨日の19日(金)、G7の首脳がこの平和記念公園を訪れました。首脳たちは平和記念資料館を視察、被爆者の方とも対話をしました。G7の首脳による慰霊碑への献花も行われました。被爆地広島での主要7カ国首脳会議(G7サミット)の開催ということで、核軍縮・不拡散について、どのような具体的な提言がなされるのかが注目されます。

 

 13歳のとき、爆心地から1.8キロで被爆したサーロー節子さんは、朝日新聞のインタビューに答えて、次のようにおっしゃっていました(『被爆国から 2023 広島・長崎は問う』、2023519日、第27面)。《一人の被爆者として、主要7カ国首脳会議(G7サミット)に期待することは、首脳たちに平和記念資料館の展示をゆっくり時間をとって見て、考えてもらうことです。/広島、長崎で起きたことを再現する。そんなことが人間としてできるのか。胸に手を当てて考えてもらいたい。

 2017年に成立した核兵器禁止条約の背景にあるのは人道性の考え方です。核兵器の議論では、人間というものを中心に持ってこないといけないと考えられるようになった。国家の安全保障ではなく、個人の安全保障なんです》。

 

この度の広島訪問が、各国の首脳の方々が、一人の人間としての視点に立ち帰り、核の問題について受け止め直す機会となるよう切に願うものです。またそして、私たち自身も、一人の人間としての視点――一人ひとりの生命と尊厳の大切さ――に立ち帰り、核の問題、戦争の問題に向き合ってゆくことが求められます。サーロー節子さんはこうもおっしゃっています。《核兵器保有国は一人ひとりの人間の命の尊さを顧みることなく、自分たちのセキュリティー(安全)のために核兵器の近代化などを続けてきました。狂気の沙汰だと思います》。

 

核抑止論は、非人道的な、まさに《狂気》の上に組み立てられた論理です。根本が間違っているのであり、その表層に構築された理論の正当性をいくら主張されても、虚しいだけです。核の廃絶以外に、私たち人類が選び取るべき道はありません。ロシアとウクライナの戦争が長期化する中、核兵器使用の脅威がより高まってきています。そのような状況のいま、核廃絶へ向けて、戦争の終結に向けて、私たち一人ひとりの祈りを合わせ、自分に出来ることを行ってゆけることを願います。

 

G7の各国の首脳の方々も、ウクライナに大量の武器を供給し資金援助をすることで戦闘を長引かせることは止め、即時停戦に向けて、真剣に動いて下さることを切に願うものです。一刻も早い戦争の終結こそが、高まる核兵器使用の脅威を軽減させる唯一の方法です。

《とはのみどりを/とはのみどりを/ヒロシマのデルタに/青葉したたれ》――。

 

 

 

昇天日からペンテコステへ 

 

私たちは来週の528日(日)、教会の暦でペンテコステを迎えます。ペンテコステは、イエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊が降った出来事のことを言います。このペンテコステの前に、教会の暦では「昇天日」があります。今年度は518日(木)が昇天日でした。昇天は、復活されたイエス・キリストが天に昇られた出来事のことです。イエスさまは復活後、弟子たちの前に何度か現れてくださった後、天へと挙げられたとルカによる福音書は記します。

 

イエスさまが天に挙げられて、弟子たちは孤立無援の状態になってしまったのかというと、そうではありません。その後、イエスさまが約束して下さった通り、弟子たちのもとに聖霊が送られます。この聖霊降臨の出来事を記念する日が、ペンテコステです。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい(ルカによる福音書2449節)

 

 

 

心を合わせて

 

 教会の暦では、昇天日からペンテコステまで、10日間あります。これはある意味、空白の10日間と言えるかもしれません。復活のキリストは天に挙げられて不在、聖霊なる神さまもまだ降ってはおらず、不在。空白の10日間であるけれども、同時にそれは、神さまの力を待ち望む10日間でもあります。聖霊が私たちのもとに来てくださることを懸命に祈り求める期間でもあるのです。

 

 本日の聖書箇所使徒言行録11226節は、昇天日からペンテコステまでの間の弟子たちの姿を記した一つです。使徒言行録は、彼・彼女たちの姿をこのように記します。《彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。…百二十人ほどの人々が一つになっていた1415節)。イエスさまが天に昇られるのを目撃した後、残された人々が《心を合わせて》祈っていた様子が語られています。

 

 

 

夢や希望が見えない、空白の時代

 

 昇天日からペンテコステまでの、空白の10日間――。私たちもまた、ある意味、この空白の期間を過ごし続けていると言えるかもしれません。

私たちの目の前には、様々な課題・問題があります。困難な現実を目の前に、将来に対して希望が持つことができないのが多くの人の率直な実感でありましょう。悲観的にならざる得ないような状況が、私たちの目の前にはあります。私たちはいま、夢や希望が見えない――失われた、その空白の時代を生きています。無力感や虚無感、絶望感に多くの人がさいなまれています。いっそ《狂気》に身を委ねたら楽になれるのではないか、と思ってしまうこともあるかもしれません。これからの時代を生きる、子どもたち、孫たちの世代のことを思うと心配でならない方も多くいらっしゃることでしょう。私自身、困難な現実を前に、時に無力感を抱いてしまう、そのような日々の中を生きています。

 

 

 

イエスさまの約束 ~聖霊の命の息吹を与えて下さる

 

 昇天日からペンテコステに至る5月は、ちょうど新緑の時期です。若葉が芽吹き、枝に茂り、あちこちがみずみずしい緑に輝く季節です。私たちの目の前には困難な現実があるにも関わらず、今年も美しい緑色の季節がやってきました。私たちの生きる世界は、空白のままで終わることはないようです。

 

先ほど、原民喜さんが引用していた《我々の心を痛め、我々の咽喉を締めつける一切の悲惨を見せつけられているにもかかわらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできない本能を持っている》というパスカルの言葉を紹介しました。一切の悲惨を見せつけられているにも関わらず、この世界は、そして私たち人間は、それでもなお、若葉を芽吹かせ青葉を茂らせる力を持っている。その命の息吹の力を神さまから与えられている。そのように受け止めることもできるのではないでしょうか。

 

昇天するにあたって、イエスさまは弟子たちに、《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》と約束してくださいました。イエスさまは必ず、私たちに聖霊をお送りくださる。聖霊の命の息吹を与えて下さる。残された弟子たちはその約束を信じて、《心を合わせて》祈りました。その約束は、いまを生きる私たちにも与えられています。

 

 

 

《よき祈》をこの世界にともしてゆくこと

 

《ヒロシマのデルタに/若葉うづまけ /

死と焰の記憶に/よき祈よ こもれ …》。

 広島の原爆を経験した原民喜さんは、そのように詩に記しました。《よき祈》という言葉が出てきます。この『永遠のみどり』という詩そのものが《よき祈》であると言えますが、私たちは自身が無力であるように思えてもなお、《よき祈》を発することができます。《よき祈》をともすことができます。そして、《よき祈》を合わせてゆくことができます。私たちは何もできないようであっても、一切の悲惨を見せつけられているのであっても、この世界に《よき祈》をともしてゆくことができるでしょう。

他者の幸せを願う――特に、これからの、新しい時代を生きる人々の、とこしえの幸せを願うこの《よき祈》は、私たちを破滅へと至らす《狂気》とは対極にあるものです。人道性の根幹にあるものが、この《よき祈》だと言えるでしょう。私たち人間の歴史において、世代から世代へと手渡され続けてきたこの《よき祈》こそが、目には見えないところでこの世界を根底から支え続けているのだと私は受け止めています。

 

 来週、私たちはペンテコステ礼拝をおささげします。イエスさまが聖霊の命の息吹を与えて下さることを信じ、心を合わせて、神さまに祈りをおささげしたいと思います。