2023年5月28日「聖霊が一人ひとりの上に」
2023年5月28日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:創世記11章1-9節、ルカによる福音書11章1-13節、使徒言行録2章1-11節
ペンテコステ
本日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をご一緒におささげしています。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊が降った出来事のことを指します。聖霊とは、神さまの霊のことです。
ペンテコステはクリスマスやイースターに比べると日本では知られていませんが、キリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで重要な祭日です。
聖霊なる神さま ~風、息のイメージ
「聖霊」と聞くと、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。聖書において、聖霊なる神さまは様々なイメージで表されています。
たとえば、聖書において聖霊は「風」や「息」のイメージで表されることがあります。冒頭でお読みした使徒言行録2章1-11節にも、「風」が出てきましたね。ペンテコステの日、弟子たちが一つになって集まっていると、突然、《激しい風》が吹いてくるような音が聞こえたことを使徒言行録は記します。《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、/突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。…》(2章1-2節)。
また、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記には、土から創られたアダムが、神さまから息を吹き入れられ、生命を与えられる場面が出てきます。《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった》(創世記2章7節)。肺で息をすることで生命が維持されているように、私たちの存在は神さまから命の息が吹き入れられることによって生かされている、というのですね。
先ほどご一緒に讃美歌348番『神の息よ』を歌いました。1番はこのような歌詞でした。《神の息よ、われに吹きて あらたなるものに つくりかえよ》(詞:Edwin Hatch、曲:福原亮子。日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21 交読詩編付き』所収、日本基督教団出版局、1997年)。「神の息」と形容されているのが、聖霊です。「風」であり「神さまの息」である聖霊が私たちのもとに吹き込まれ、私たちの存在を新しいものに創り変えてくださるようにと願う曲です。
最後の5番はこのように謳います。《神の息よ、われを生かし つねに主のものと ならせたまえ》。神さまの息が私たちを生かし、いつも神さまのものとならせてくださいますように――。
先週の礼拝メッセージでは、イエスさまの昇天の出来事を取り上げました。昇天とは、イエスさまが復活した後、天に挙げられた出来事のことを言います。イエスさまは天に昇られるにあたって、弟子たちに約束を与えて下さいました。弟子たちのもとに聖霊を送る約束です。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(ルカによる福音書24章49節)。
イエスさまは必ず、私たちに聖霊をお送りくださる。神さまの命の息吹を与えて下さる。弟子たちはその約束を信じて、心を合わせて祈りました。そして昇天日から10日後、約束通り、弟子たちのもとに聖霊が降りました。その出来事を記念する日が、ペンテコステです。
イエスさまは弟子たちに対してだけではなく、私たち一人ひとりに、聖霊をお送りくださいます。私たちの存在はいま、神さまの命の息吹によって生かされ、支えられていることをご一緒に思い起こしたいと思います。
聖霊なる神さま ~鳩、炎のイメージ
様々なイメージによって表される聖霊なる神さま。聖霊は、「鳩」のイメージで表されることもあります。福音書には、イエスさまが洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように降ってきたという記述があります(マタイによる福音書3章16節)。講壇(説教台)にかけられた布にも鳩が描かれていますね。
また、聖霊は「炎」のイメージで表されることもあります。本日の聖書箇所である使徒言行録2章1-11節では、《激しい風》が吹いてくるような音が聞こえた後、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に留まったと記しています。《そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。…》(3節)。ここでは、聖霊が《炎のような舌》で表現されています。
これらの記述から、伝統的に聖霊降臨節の典礼色は「炎」を表す赤色になっています。講壇にかけられた布の色も赤になっていますね。
《炎のような舌》 ~聖霊が一人ひとりの上に
《炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった》。本日の聖書箇所である使徒言行録では、《炎のような舌》のイメージが、聖霊が降ったことのしるしとされています。今朝は、この不思議な《炎のような舌》が「一人ひとりの上に」とどまったというところに注目してみたいと思います。
神さまは、弟子のリーダーであったペトロだけに聖霊をお遣わしになったのではありませんでした。その場にいた弟子たち全員に、ご自身の霊をお遣わしになったのです。聖霊が私たち一人ひとりに与えられている――このことを本日は大切に覚えたいと思います。
カリスマ ~神さまからの贈り物
私たちにはそれぞれ、違いがあり、それぞれに個性があります。この世界には誰一人として、「わたし」と同じ人間はいません。神さまはそのように、私たちをそれぞれ違う存在として創られました。そして、私たち一人ひとりに聖霊が降って下さることによって、それぞれに異なった、大切な役割が与えられることを聖書は語っています(コリントの信徒への手紙一12章4-11節)。聖書はこの神さまから与えられている能力や役割を「賜物(たまもの)」と呼んでいます。
「賜物」は、新約聖書の原文のギリシャ語では「カリスマ」という言葉です。カリスマは私たちの日常生活でも使われている言葉ですよね。人の心を惹きつける魅力をもつ人のことを「カリスマ」と呼んだり、たくさんの人に熱烈に支持されている人について「あの人にはカリスマ性がある」と言ったりします。そのような意味で浸透しているカリスマですが、もともとは聖書に出てくる言葉です。聖霊なる神さまを通して私たちに与えられている大切な贈り物、それがカリスマです。
何か抜きんでた才能とか特技だけが、カリスマなのではありません。その人にしかできない、その人の存在からにじみ出てくるような大切な役割こそがカリスマなのであり、そしてそれは私たち一人ひとりに確かに与えられています。神さまの目から見ると私たち一人ひとりが、素晴らしい「カリスマをもった存在」なのです。
《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》
私たち花巻教会は、今年度はコリントの信徒への手紙一12章26-27節を年間主題聖句として歩んでいます。《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。/あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》。コリントの信徒への手紙一12章は、私たちが共に一つのキリストの体に結ばれており、それぞれが多様な役割を果たしていることを伝えています。
体の各部分が異なった働きをしているように、私たちにはそれぞれ神さまから、異なった、かけがえのない役割=賜物が与えられている。ただ「違いが存在している」というだけではなくて、そこに「かけがえのなさ(固有性)」を見出しているのがこの聖書の特徴です。
またそして、私たちはそれぞれの固有の役割=賜物を通して、互いに補い合い支え合っていることを聖書は語っています。体の各部分が異なる働きを通して互いに補い合っているように、私たちはそれぞれ、賜物を通して、互いに補い合っている。その「相互補完性」を語っています。
だから、一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ――。私たちは「一つのキリストの体」に結ばれた者として、苦しみも喜びも共に分かち合う道を歩んでゆくよう神さまから招かれています。
違いがありつつ、一つ
私なりに表現しますと、聖書が語る「一つ」なる在り方とは、「違いがありつつ、一つ」である在り方です。違いを否定して一つになるのではなく、違いを通して一つとなる在り方を聖書は伝えてくれています。
そしてそのように、私たち一人ひとりに賜物(カリスマ)を与え、私たちを一つに結び合わせてくださっているのが、聖霊なる神さまであることを本日はご一緒に心に刻みたいと思います。様々なお働きをもち、様々なイメージをもって表わされる聖霊なる神さま、そのお働きの一つが、私たちを一つに結び合わせてくださっていることであると心に留めたいと思います。
私たちがそれぞれの賜物を活かし、互いに補い合い支え合いながら、共に生きてゆくことができますように。私たちが再び一つへと結び合わされてゆくことができますように。聖霊なる神さまの導きをご一緒に祈り求めたいと思います。
《神の息よ われをもちい 聖霊のわざに もえたたせよ》(『神の息よ』、3番)。