2023年6月11日「キリストに結ばれ、一つに」
2023年6月11日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:サムエル記下7章4-16節、ルカによる福音書14章15-24節、使徒言行録2章37-47節
教会が誕生して間もない頃
いまご一緒に使徒言行録2章37-47節をお読みしました。使徒言行録は福音書の次に配置されている文書で、最初期のキリスト教の様子が記されています。イエス・キリストが天に昇られた後の、残された弟子たち(使徒たち)の働きについて記している文書です。使徒言行録を読むことで、私たちは誕生して間もない頃の教会の様子を伺い知ることができます。
本日の使徒言行録2章37-47節は、先週の続きです。先週は、弟子のリーダー的存在であったペトロの説教をご一緒にお読みしました。ペンテコステの出来事の直後、聖霊に満たされた弟子たちは、聖霊が語らせるままに、様々な言葉で話し始めました(2章4節)。大勢の人が何ごとかと集まってくる中、ペトロは他の11人と共に立ち上がって、声を張り上げて話し始めました(14節)。ペトロはイエス・キリストについて、特に、その十字架の死と復活について人々に話をしました(22-24節)。
本日の聖書箇所では、ペトロの話を聞いた人々の反応が記されています。その場に集まっていた人々は、ペトロのイエス・キリストについてのメッセージに非常に心を打たれ、ペトロと他の弟子たちに、《兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか》(37節)と尋ねました。すると、ペトロは次のように彼らに答えました。《悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。/この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです》(38-39節)。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わったと使徒言行録は記します。まさに、教会が誕生した瞬間であると言えるでしょう。誕生して間もない教会が熱心に行っていたこと、それは《使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること》(42節)でした。
洗礼について
ご一緒に、教会が誕生して間もない頃の場面をお読みしました。色々と、興味深いですね。その中で、《洗礼》と《パンを裂くこと》という言葉が出てきました。洗礼(バプテスマ)は、「クリスチャン(キリスト教徒)になる」ための儀式です。現在も、キリスト教への入会儀礼として行われています。《パンを裂くこと》は、聖餐式として、現在も引き継がれています。
この洗礼と聖餐の二つは、キリスト教の歴史において、大切な儀式として受け継がれてきたものです。本日は特に、洗礼に焦点を当ててお話ししてみたいと思います。
洗礼は、いま述べましたように、キリスト教徒になる際に行われる儀式です。先ほども、ペテロの言葉を受け入れた人々が洗礼を受けたことが記されていましたね。洗礼を受けるということは、クリスチャンとなり、教会の一員となることを意味します。
洗礼式の特徴は、水を用いることです。使徒言行録が記された当時は、川で洗礼を行っていたと言われています。クリスチャンになることを志願する人は、イエス・キリストへの信仰を告白し、そして全身を水の中に沈めました。
現在は、多くの教会は全身を水に沈めるのではなく、頭に三度水を振りかけるやり方をしています。全身を水に沈める形式を「浸礼(しんれい)」、水を振りかける形式を「滴礼(てきれい)」と言います。多くの教会は現在、滴礼で洗礼を行っていますが、一部の教会はいまも全身を水に沈める浸礼で洗礼を行っています。花巻教会も、浸礼のやり方で洗礼式を行っています。
皆さんがいまご覧になっている位置からは見えませんが、私が立っている講壇の床の下に、洗礼槽(バプテストリー)と呼ばれるスペースがあります。洗礼式の際は、ふたを開け、洗礼槽に水(お湯)を溜めて洗礼を行います。
私自身は、大学生の時に、滴礼で洗礼を受けました。ですので、受ける方としては浸礼を経験したことはありません。浸礼ならではの感動もきっとあるのではないか、とも思います。ぜひ全浸礼で洗礼を受けてみたかったな、との気持ちもあります。
もちろん、どちらか一方のやり方が正しい、というわけではありません。花巻教会でも洗礼を志願される方のご事情によっては滴礼で洗礼を行うこともあります。水はあくまで目に見える「しるし」であり、大切なのは目には見えない神さまの愛と恵みです。
キリストの愛と結ばれて
教会が誕生して間もない頃、洗礼式で実際に読まれていた信仰告白の言葉の一つをご紹介したいと思います。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙の中に収められている言葉です。
《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。/洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。/そこでもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》(ガラテヤの信徒への手紙3章26-28節)。
このイエス・キリストへの信仰告白文では、キリストに結ばれている人は、もはや民族や国籍からも、社会的な地位や身分からも、性別や、家庭の役割からも自由であることが宣言されています。
イエスさまはあなたを生まれでは判断せず、職業でも判断せず、社会的な地位や身分でも判断なさらない方です。あなたを性別で判断せず、家庭での役割でも判断されません。あなたを現在の心身の状態でも判断せず、セクシュアリティでも判断されません。ただ、あなたをあなたとして、あるがままに受け止めてくださっています。
「クリスチャンである」ということは、このキリストの愛といつも固く結ばれていることであると私は受け止めています。
かけがえのない=替わりがきかない存在として
イエス・キリストが私たちに伝えてくださっているメッセージ、それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在が、かけがえなく貴い」ということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく大切であることを伝えてくださっています。
「かけがえがない」という言葉は私たちも普段の生活の中で使うことがありますね。「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえがない存在=替わりがきかない存在である。だからこそ、大切な存在であるのです。
イエスさまは、あなたという存在を、世界にただ一人の、かけがえのない「個人」として重んじてくださっています。
イエスさまはそのご生涯を通して、そして十字架の死と復活を通して、私たちに大いなる神さまの愛を伝えて下さっています。
私たちにできること、それはただ、この愛に、心を向けることです。この愛に、立ち帰ることです。私たちにいまできること、なすべきことは、ただその一つのことです。
神さまの愛に立ち帰る
イエスさまのご生涯を通して、そして十字架と復活を通して現わされた、神さまの大いなる愛に抱かれるとき、私たちは自分が犯してきた過ちについても、初めて腑に落ちます。私は過ちを犯してきた――すなわち、自分自身を大切にせず、隣人を大切にせず、そして神さまを大切にしてこなかったことを。
しかし、聖書が語るのは、自分の過ちを認めることは「終わり」ではなく、「はじまり」であることです。私たちはそのとき、新たな出発点に立っています。自分を大切にし、隣人を大切にし、そして神さまを大切にする生き方をしてゆくことの出発点です。私たちには何度でも、再出発する道が必ず備えられていることは、聖書が力強く語っている真理です。《キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです》(コリントの信徒への手紙二5章17節)。
そのために私たちがなすべきただ一つとこと、それが、愛に立ち帰ることであると、本日はご一緒に受け止めたいと思います。私たち一人ひとりをかけがえのない存在として重んじてくださっている、神さまの愛に立ち帰ることです。
キリストに結ばれ、一つに
《そこでもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》――。
私たちはそれぞれ、かけがえのない=替わりがきかない存在として、イエス・キリストに結ばれています。キリストの愛に結ばれ、一つとされています。私たちは本来、「キリストにおいて一つ」なのだという信仰もまた、教会が大切にし続けてきたものです。
本日の使徒言行録においても、教会の人々が一つとなっている姿が記されていました。使徒言行録2章44-47節《信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、/財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。/そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、/神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである》。
最初期の教会においては、人々が持ち物をも共有していたことが記されています。いまを生きる私たちはすべてを同じようにすることはできませんが、心を合わせて一つになっているその姿は、私たちにとって大切な、いわば教会の原風景であり続けています。
新しい「はじまり」の時
キリスト教はその後、分裂の歴史を歩んでゆくこととなります。無数の対立、分断、分裂、その傷と痛みを負ってゆくこととなります。キリスト教の歴史とは、一つであったはずの教会が、様々に分裂してゆく歴史でもありました。
そしてその分裂の歴史の中には、私たち教会が自分自身を大切にすることができなかった過ち、隣人を大切にすることができなかった過ち、そして神さまを大切にすることができなかった、その過ちが含まれています。私たちキリスト教会は、いま一度、神さまの愛に立ち帰ることが求められているのではないでしょうか。
一つひとつの教会が、一人ひとりの存在が、それぞれがかけがえのない=替わりがきかない存在としてキリストの愛に結ばれていること、それぞれが聖霊を通して、固有の賜物(カリスマ)を与えられていること、そして、一つとされていること。そのことを新たに、思い起こす時に来ています。私たちキリスト教そのものもいま、新しい在り方の「はじまり」の時に来ているのだと私は受け止めています。
「クリスチャンである」こと、「クリスチャンとなる」こと
私たちは生まれる前から――天地創造のはじめから、キリストの愛に固く結ばれています。その意味で、私たちは皆、キリストから愛されている「クリスチャンである」のだと私は信じています。
と同時に、私たちはいま生きているこの世界において、キリストに愛されている者として、実際に、自分自身をまことに大切にし、隣人を大切にし、神さまを大切にして生きてゆくよう招かれています。その意味で、私たちは常に新しく「クリスチャンとなる」よう招かれています。洗礼を受けることも、その大切な営みの一つであるでしょう。私たち一人ひとりが、キリストの愛を体現する「クリスチャンとなる」よう招かれています。
洗礼を受けることは生涯でただ一度きりですが、「クリスチャンとなる」営みは、生涯、続けられてゆくことです。自分を愛し、隣人を愛し、神を愛すること、そこに「終わり」はありません。あるものは常に、新しい「はじまり」です。私たちは日々、神さまの愛に立ち帰り、新しく「クリスチャンとなってゆく」よう招かれているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
またそして、たとえ私たち自身はその生涯を終える時が来るとしても、残された人々が、その営みを受け継いでいってくれることでしょう。
どうぞいま、一人ひとりをかけがえのない存在として受け止めてくださっている、神さまの愛に共に立ち帰りたいと思います。