2023年6月25日「キリストは、あなたのために」
2023年6月25日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エゼキエル書34章1-6節、ルカによる福音書15章1-10節、使徒言行録8章26-38節
教団新生会大会・総会
6月23日(金)~24日(土)にかけて、神戸聖愛教会を会場として、教団新生会大会・総会が開催されました。花巻教会からは私と妻が参加いたしました。テーマは「バプテストと信仰告白 ~私たちの信仰を言いあらわす~」。コロナ下の中、開催することができなかった大会をこの度、3年ぶりに開催することができ、感謝でした。大会で話し合われたことや私の感想などを、また皆さんにもお伝えしたいと思っています。
教団新生会は、日本基督教団の中で、教派としてバプテストの伝統を持つ教会の集まりです。岩手地区では、内丸教会、遠野教会、新生釜石教会が教団新生会に属しています。
バプテスト教会の「バプテスト」の語源となっているのは、ギリシャ語の「バプテスマ」という言葉です。日本語に訳すと「洗礼」。バプテスマの動詞バプティゾーは「水に浸す」意味をもっている言葉です。新約聖書が記された時代、洗礼(バプテスマ)は水に全身を浸す「浸礼」の形式で行われていました。冒頭でお読みした使徒言行録8章26-38節でも、フィリポと宦官が川(あるいは泉)で洗礼を行う場面が記されていましたね。《道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」/そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた》(36-38節)。
現在は多くの教会が頭に三度水を振りかける「滴礼」の形式で行っていますが、バプテスト教会はバプテスマの元来の意味を尊重し、いまも浸礼の形式で行っています。私たち花巻教会も、洗礼(バプテスマ)を浸礼で行っています。私が立っている講壇の床の下に、洗礼槽(バプテストリー)と呼ばれるスペースがあります。洗礼式の際は、ふたを開け、洗礼槽に水(お湯)を溜めて洗礼を行います。
私たち花巻教会は次週、創立記念日の礼拝をおささげします。花巻教会がバプテスト教会として設立されたのは、1908年7月21日。内丸教会で開かれたバプテスト東北部会において、正式に伝道所として認められました。それから信仰のともし火がともされ続けて今年で115年になります。
ただし、花巻教会の前身となった花巻浸礼教会は、すでに1880年に創立されています。この花巻浸礼教会は5年間の活動の後、1885年に解散、盛岡浸礼教会(現在の内丸教会)に合流することとなりました。この花巻教会の前史や、自分たちのルーツであるバプテスト教会の特質についても、またぜひ皆さんと理解を深める時間が持てればと思います。
これまでの教会の歩みが、神さまと多くの方々によって支えられましたことを感謝するとともに、これからの歩みのために、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
「見失った羊」のたとえ
礼拝の中で、本日の聖書箇所の一つであるルカによる福音書15章1‐10節を読んでいただきました。その中で、「見失った羊」のたとえが記されていました。いなくなった1匹の羊を羊飼いが探しにいくという、よく知られたイエス・キリストのたとえ話の一つです。
《そこで、イエスは次のたとえを話された。/「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。/そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、/家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。/言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」》(4-7節)。
99匹の羊を野原に残しておいて、見失った1匹を見つけ出すまで探し回るというこのたとえ話。このたとえ話で語られていることは、私たちの日常生活の感覚からすると、必ずしも当たり前のものではないかもしれません。迷子になった1匹のことは確かに気になるけれども、残された99匹の方を優先して考えるべきではないか、そのような意見もあることでしょう。有名なたとえ話ではあるけれど、読む人に戸惑いを与えるたとえでもあるのではないでしょうか。
私たちが生きている社会は、「数」で物事が捉えられてしまうことが多いように思います。このたとえ話でも、99匹と1匹と言う風に、つい数で捉えてしまう。この数の論理で前提とされていることは、数が多い方に価値があるという考え方です。私たちは普段、この考え方の影響を受けています。私たち自身、気が付くとそのような考え方をしてしまっている時もあるでしょう。ですので時に、本日のたとえ話に戸惑いを覚えてしまうのです。
しかし、立ち止まって考えてみますと、この数が多い方を優先する考え方は危うさを含んでいることに気付きます。それは、多数の利益のためには、少数の利益が損なわれても仕方がないと判断してしまう危うさです。このたとえ話でいうと、99匹のためには、1匹がいなくなったままでも仕方がないとみなしてしまう、このものの見方には、危うさが含まれていると言えるのではないでしょうか。
生産性や効率を重視する考え方
本日のたとえ話に戸惑いを覚えることのもう一つの要因として、現在私たちが生きている社会が生産性や効率を過度に重視する社会となってしまっていることがあるでしょう。いかに結果を出すことができるか、多くの成果や利益を出すことができるか。そしてそのためにいかに効率を良く、コストや時間をかけないで行うことができるか。私たちの社会ではしばしば、それらが最優先事項となっています。
コスパという言葉が最近よく使われます。コスパはご存じの通り、コストパフォーマンスの略です。かかる費用(コスト。お金や労力)と得られる効果(パフォーマンス。効果、成果、効率、性能)を比べる費用対効果のことを言います。たとえば、費用に対して、より大きな成果が期待できる場合、「コスパが良い(高い)」と表現されます。
また最近は、タイパ(タイムパフォーマンスの略)という言葉も若い世代の人々を中心に使われています。少ない時間で、より大きな成果が期待できる場合、「タイパが良い」と表現されます。
コスパやタイパの良し悪しの観点からすると、本日のたとえの、99匹を残してたった1匹を見つけるまで探すという行動は、非常に「コスパが悪く、タイパも悪い」ものであるでしょう。しかし、このたとえ話において、羊飼いは、たった1匹を見つけるまで探し続けます。このたとえ話において、羊飼いはコスパやタイパとはまた異なった考え方、ものの見方を持っていることが分かります。
イエスさまからの問いとして
数が多い方を優先する考え方、また、生産性や効率を重視する考え方――これらの考え方は、日頃の生活の中で、私たちの内に染みついてしまっているものであるかもしれません。本日のたとえ話は、そのような私たちに対する「問い」として投げかけられていると本日はご一緒に受け止めたいと思います。忙しく、余裕がない生活の中で、私たちがふと立ち止まり、自身の日頃のものの考え方や判断基準を振り返ってみるためのイエスさまからの大切な問いかけです。
視点の転換 ~ただ一人の大切さ
改めて、「見失った羊」のたとえ話を見てみたいと思います。このイエスさまのたとえ話は、私たちの普段の物の見方を逆転させるものです。99人を優先するという視点から、ただ1人の存在に目を向けるという風に、私たちのまなざしを逆転させるのです。
《そこで、イエスは次のたとえを話された。/「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。/そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、/家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。…」》(4-6節)。
イエスさまはこのたとえ話において、99人と1人とを数の論理で比較しておられるのではありません。そうではなく、イエスさまがここで提示しておられるのは、「ただ一人の大切さ」です。神さまの目から見て、一人ひとりの存在がどれほどかけがえなく大切であるのか、ということです。迷い出た一人は、「大勢の中の一人」ではありません。神の目に、「かけがえのない、一人」なのです。
「かけがえがない」ということは、「替わりがいない」ということです。神さまの目から見て、あなたは、替わりがきかない存在である。そのことを、イエスさまは伝えて下さっています。だからこそ、イエスさまは、その替わりがきかないその一人が見つかるまで捜し回ってくださるのです。それがどれだけ「コスパが悪く、タイパが悪い」ことであっても。それがどれだけ私たちの目に非生産的、非効率的に見えようとも――。
そう、この羊飼いとは誰か。この羊飼いこそ、イエスさまその方であると私たち教会は受け止めてきました。そしていなくなった1匹の羊、その羊こそ、この「私」であるのだ、と。
キリストは、あなたのために
たとえ私たちの目からすると、自分が価値のない、価値が劣る人間に思えても。イエスさまの目から見ると、違います。イエスさまの目から見ると、あなたはかけがえなく、大切な存在。決して見失われてはならない存在。イエスさまは、かけがえのないあなたのために、そのすべてを――その命までもささげてくださった方です。
《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。/わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(ヨハネによる福音書10章10-11節)。
私たちを追いかけ、探してくださる神さま
冒頭でお読みした使徒言行録8章26-38節では、聖霊なる神さまがフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行きなさい」(29節)と伝える場面が出てきます。馬車の中で旧約聖書(ヘブライ語聖書)のイザヤ書を朗読していた宦官に、イエス・キリストの福音を伝えるためです。聖霊のお働きのおかけで、この宦官は洗礼(バプテスマ)へと導かれました。
この聖書箇所にありますように、聖霊なる神さまは、私たちを追いかけて下さる方です。神さまの方から、私たちを、どこまでも追いかけてきてくださる。この私が、イエスさまの愛と命に結ばれるために――。
また、「見失った羊」のたとえにありますように、イエスさまは私たちを見つけ出すまで探してくださる。この私が、イエスさまの愛と復活の命の内に抱かれるために――。
そこまでなさるのは、他ならぬ、あなたという存在が、神さまの目に替わりがきかない、ただ一人の、決して失われてはならない存在だからです。このあなたに対する愛こそが、まことの羊飼いなるイエスさまを突き動かしている理由です。
どうぞいま、この神さまの大いなる愛と恵みに私たちの心を向けたいと思います。