2023年7月30日「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」
2023年7月30日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編13編1-6節、ルカによる福音書9章51-62節、ペトロの手紙一3章13-22節
秋田豪雨災害
この一週間、全国で厳しい暑さが続いています。40度に迫る、危険な暑さとなっている地域もあります。岩手でも連日、各地で猛暑日を記録しています。皆さんもくれぐれも熱中症にはお気をつけください。礼拝中も水分を取っていただいて構いませんので、どうぞ体調管理にはお気をつけください。
7月14~16日の大雨により、秋田県の各地で甚大なる被害が生じています。皆さんも大変心配していらっしゃることと思います。秋田地区の教会の中では、特に秋田楢山教会に床下浸水等の大きな被害がありました。また、現在教区が把握している範囲で、教会員関係で床上浸水が3軒(2教会)、床下浸水が11軒(4教会)あるとの報告を受けています。
この度の豪雨災害を受けて、常置委員会のもと、秋田豪雨災害支援委員会が立ち上がっています。今後、皆さまにも教区と支援委員会より支援のお願いをすることになるかと思います。その際はどうぞよろしくお願いいたします。
この度の豪雨で被災された方々を覚えて、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
その人がその人であることを尊重することが愛
フランスの哲学者でシモーヌ・ヴェイユという人がいます。シモーヌ・ヴェイユがノートに記した言葉に、《他の人たちがそのままで存在しているのを信じることが愛である》という言葉があります(『重力と恩寵』、ちくま学芸文庫、田辺 保訳、1995年、109頁)。
他の人たちがそのままで存在していること、それを信じることが愛であるとシモーヌ・ヴェイユは語ります。私なりに言い換えますと、他の人たちの存在をそのままに受け止め、尊重することが愛である、ということになるでしょうか。
その人がその人であることを尊重することが愛である――。このことをいつも心に留めておきたいと思うと同時に、時に、それを忘れてしまう私たちであることを思わされます。その人が、そのままのその人であることをいつも尊重することができるかというと、私たちには難しいこともあるでしょう。
「その人がその人であることをゆるせない」想い
その人がその人であることをゆるせない――。私たちは時に、そのような気持ちになってしまうのではないでしょうか。その人が、そのままのその人であることがゆるすことができない。何とか相手を自分の意に沿うように変えようとして、強い言葉を発し、強引に行動してしまうことがあることと思います。
たとえば現在、SNSにおける誹謗中傷が私たちの社会において問題となっています。著名人のアカウントに匿名の人々から多数の心ない言葉、暴力的なコメントが書き込まれるということも起こっています。コメントを書き込んでいる人々の中には、その人がそのままのその人であることがゆるせなくて、そうしている人々が多くいることでしょう。相手の生き方あるいは言動が、自分の価値判断や「当たり前」から外れていて、それがゆるせなくて攻撃しているのです。正義感に駆られて、そうしている人もいるでしょう。あるいは、単に自分が不快に感じたから、そうしている場合もあるでしょう。そして結局のところ、それらの行為を自分のストレスのはけ口にしてしまっているのです。
そもそも、どう生きるかは本人の自由であるはずですね。その人がその人であること、その人がその人として生きることは、尊厳に関わることです。私たちが一方的に侵害してはならない領域、それを「尊厳」という言葉で呼びたいと思います。しかし私たちは、しばしば、他者の尊厳を尊重することができなくなるのです。自分の価値判断や「当たり前」を他の人たちに押し付けずにはいられなくなる。
その人が、そのままのその人であることがゆるせない――。シモーヌ・ヴェイユの言葉を踏まえますと、そのゆるせない想いに基づいた言動は愛ではない、むしろ愛とは反対のものであることになります。
津久井やまゆり園事件から7年
「その人が、そのままのその人であることがゆるせない」、この想いが極端化してゆきますと、相手の存在そのものを否定する考えへと至る場合があります。
先週の7月26日、津久井やまゆり園事件(相模原障がい者施設殺傷事件)から7年を迎えました。全国で追悼の祈りがささげられたことと思います。重度の障がいをもった方々が入所する神奈川県立津久井やまゆり園にて、元施設職員の手によって19人の方が殺害され、26人の方が負傷したという、大変痛ましい事件でした。
この事件においては事件の残虐性とともに、被告が犯行に及んだ動機が社会に大きな衝撃を与えました。重い障がいをもつ人々はいない方が社会のためになるという、決して容認することのできない動機付けによって被告は犯行に及んだと言われています。
この津久井やまゆり園事件をきっかけの一つとして、私たちの社会で改めて、「優生思想」という言葉が取り上げられるようになりました。優生思想とは、自分の一方的なものさしによって、人を「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する考えです。やまゆり園事件はこの優生思想と深い関連があると言われます。日本障害者協議会代表・きょうされん専務理事の藤井克徳さんは、優生思想の基本は、《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》という考え方であると説明していました(藤井克徳『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』、合同出版、2018年、3頁)。優生思想は、聖書が伝えるメッセージと正反対のものであり、決して容認することができないものです。
聖書が私たちに伝えてくれていること、それは、神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いものである、ということです。神さまのまなざしの下では、優れた人も劣った人もありません。一人ひとりがかけがえのない、大切な存在であるのです。
先ほど、《他の人たちがそのままで存在しているのを信じることが愛である》というシモーヌ・ヴェイユの言葉を引用しました。イエス・キリストこそは、私たちをそのままに受け止め、尊重してくださっている方です。
私たちの社会の歪みから ~「格差社会」「不寛容社会」
津久井やまゆり園事件の被告がなぜ被告がこのような犯行に及んだかは、様々な側面からの解明が必要です。藤井克徳さんはこの事件を被告個人の特異さだけで捉えるのではなく、いまの社会と関連づけて考えてゆくことが重要であることを指摘しています。犯行に及んだ青年の歪んだ考え方の背景には、いまの日本社会の歪みが関係していると考えられるからです。
藤井克徳さんはいまの私たちの社会の在りようを次のように記しています。《そこでいまの社会をどうみるかですが、特徴を簡単に言うと、人間の価値をとらえる基準が変質し、生産性や経済性が何よりの目安になってしまったことです。速度や効率を競い合い、勝ち残った者は優秀な人や強い人とされ、ついていけない者は劣る人や弱い人となってしまいます。(略)その結果何が起こっているでしょう。耳にしたことがあると思いますが、「格差社会」や「不寛容社会」と言われる現象です。「勝ち組、負け組」「弱肉強食」「早くちゃんときちんと」「うざい、むかつく、キレる」なども、根っこは一緒です。
植松被告も、こうした考え方がはびこる日本社会で生を授かり育まれました。ゆがんだ社会の影響を受けないはずはありません》(同、135-136頁)。
いまの私たちの社会において、生産性や効率が第一とされてしまっている、そのことは皆さんもひしひしとお感じになっていることだと思います。私たちのいまの社会は、人間の価値をも、生産性や効率で捉えられてしまう傾向がある。そういう中で、現在の「格差社会」「不寛容社会」が形成されている。
「その人が、そのままのその人であることがゆるせない」、先ほどお話しした、時に私たちの内に湧き上がるこの想いは、このような不寛容な社会の在り方から生み出されているものであることを思わされます。その意味で、私たちは個人の在り方のみならず、社会の在り方を見つめ直すことが求められているのだと言えます。その人がその人であることをゆるせなくしているのは、私たちの社会でもあるのではないでしょうか。
またそして、他の人を攻撃する人の心の深いところには、他ならぬ、自分が、そのままの自分であることがゆるせない――あるいは周囲や社会からゆるされていない――ことの痛みや悲しみ、怒りが存在しているのかもしれません。
ペトロの手紙一が書かれた時代
メッセージの冒頭でお読みしたペトロの手紙一は、キリスト教がマイノリティであった社会に生きるキリスト教徒に向けて書かれた手紙です。キリスト教が誕生して間もない頃、キリスト教徒たちは周囲から奇異な目で見られていました。クリスチャンであるゆえに、さまざまな誹謗中傷や攻撃を受けることもあったようです。この手紙の受け取り手であった教会の人々も、クリスチャンであることによって引き起こされる様々な苦難を経験していたことが伺われます。周囲から中傷や攻撃を受ける教会の人々を慰め、励ますために書かれたのがこのペトロの手紙一です。
いまを生きる私たちとはまたまったく状況は異なりますが、その人がその人であることが社会からゆるされていない状況を生きているという点においては、共通する部分があります。また、その人がその人であることがゆるされないゆえに、誹謗中傷や攻撃が生じている点においても共通していると言えるでしょう。当時のクリスチャンたちは、クリスチャンであることが周囲や社会から認められず、様々な不当な苦しみを経験していました。
《穏やかに、敬意をもって、正しい良心で》
そのように周囲から悪意を向けられたとき、私たちはその仕返しとして、悪意を返したいと思ってしまうものです。しかし、ペトロの手紙一にはこのような言葉が記されています。《悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません》(3章9節)。悪意に対して、悪意をもって報復してはならない、というのです。
本日の聖書個所では、さらに次のように記されていました。3章16節《穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです》。
敵意をもった相手に敵意をもって相対するのではなく、むしろ、《穏やかに、敬意をもって、正しい良心で》自分たちのイエス・キリストへの信仰を語るようにと勧められています。そのように誠実な態度で接し続けていれば、悪口を言った人々もいつかその悪口を言ったことを恥じ入るようになるはずだ、と。
いまを生きる私たちは、自分たちへの不当な振る舞いをただ耐え忍べという意味に受けとるべきではないでしょう。尊厳をないがしろにする現実に対しては、私たちははっきりと「否」の声を上げることが大切です。ただし、暴力的な言動に対し、同じく暴力的な言動をもって返さないことが求められているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
愛に根ざして
《穏やかに、敬意をもって、正しい良心で》、言葉を語ること。やわらかな心で、相手への敬意をもって、正しき良心で、良き言葉を発すること。そのことは、私たちが愛に根ざすことによって実現されてゆくでしょう。他の人をそのままに受け止め、尊重する愛を育んでゆくことで、私たちは良き言葉を発し、良き振る舞いをしてゆくことができるようになってゆきます。
そしてその愛は、神さまが私たち一人ひとりに分け与えて下さっているものです。イエスさまこそは、私たちの存在をそのままに受け止め、尊重してくださっている方です。この愛に心を開き、この愛に根ざすとき、私たちは少しずつ、愛する者へと変えられてゆくのだと信じています。