2023年8月27日「神が受け入れてくださるから」
2023年8月27日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:出エジプト記23章10-13節、ルカによる福音書14章1-6節、ローマの信徒への手紙14章1-9節
本日は8月の最終週、8月最後の礼拝となりました。例年ならばこの時期になると朝晩は幾分涼しくなってきますが、今年は厳しい残暑が続いています。皆さんもくれぐれも熱中症にはお気を付けください。
この夏は全国で猛暑と大雨という困難に直面した夏でもありました。7月の豪雨では、東北では特に秋田県が大きな被害を受けました。皆さんもよくご存じでいらっしゃるように、秋田地区の教会では特に秋田楢山教会が床下浸水等の被害を受けました。
8月8日~11日にかけて、秋田地区の皆さまを中心に、教区で秋田豪雨災害のボランティアを行いました。主な作業は、秋田楢山教会の会堂・牧師館の床下の泥かきと消毒作業でした。参加してくださったお一人おひとりの健康と安全が守られ、無事にすべての工程を終えることができ、感謝でした。
秋田楢山教会の皆さま、この度の秋田豪雨によって被災された方々を覚え、引き続き祈りを合わせてゆきたいと思います。
平和 ~一人ひとりが大切にされている状態
本日は8月の最終週、8月は平和について思い巡らす機会が多い月です。平和はヘブライ語では「シャローム」と言います。「平安」とも訳すことができ、「すべてが完全であり、何一つ欠けることがないという状態」を意味する言葉です。聖書が語るのは、神さまが与えてくださる「平和」「平安」です。
平和の反対の言葉というと、「戦争」を思い浮かべることが多いことと思います。しかし、平和は、国と国の間で「戦争がない状態」だけを意味するものではありません。たとえ国家間に戦闘行為が生じていなくても、私たちの社会に貧困や抑圧や差別が生じていたとしたら、それは平和ではない状態だということになります。また、現在のように環境破壊によって生態系が壊されたり、異常気象が生じていたりする状態も、平和ではない状態にあると言えます。
これらのことを踏まえると、平和とは「戦争がない状態」を意味するのみならず、「一人ひとりが大切にされている状態」を指す言葉だと受け止めることができます。神さまの光のもと、一人ひとりが、かけがえのない存在として大切にされている状態、あるいは、一つひとつの命が大切にされている状態が、平和です。
私たちの生きる社会では現在、さまざまな場面で、「平和ではない」状況が生じています。その平和ではない状況は、一人ひとりが大切にされていないこと、一つひとつの命が大切にされていないことから生じているのだと受け止めることができるでしょう。
現在の私たちにとって喫緊の課題 ~ALPS処理水の海洋放出開始
現在の私たちにとって喫緊の課題の一つに、福島第一原発のALPS処理水(トリチウムなどの放射性物質を含んだままの汚染水)の海洋放出があります。先週の木曜日、私たち市民からの理解、とりわけ漁業関係者の方々からの理解も同意も得ないまま、政府はALPS処理水の海洋への放出を開始しました。皆さんも大変憂慮していらっしゃることと思います。
政府は、ALPS(多核種除去装置)によってほとんどの放射性物質は取り除かれており、ALPSによって取り除くことができないトリチウムも、海水によって希釈される(薄められる)ので安全であると主張してきました。しかし、政府と東京電力の説明には不正確な部分(事実は異なる部分)があることが明らかになってきています。
たとえば、ALPS処理水にはトリチウムだけでなく、ヨウ素129、ストロンチウム90、ルテニウム106、セシウム137、炭素14等、ALPSでは除去できない放射性物質が多数存在していることが明らかになっています。そしてそれらの放射性物質が、海の生態系や私たち人間の健康にどのような影響を与えるのか、いまだはっきりと分かっていません。すなわち、安全性はいまだ確認されていないのです。
また、処理水が海水によって一時的に希釈される(薄められる)としても、食物連鎖を通して再び濃縮されてゆくのは当然のことです。海洋生物たちによって取り込まれた放射性物質は、食物連鎖を通してどんどんと濃縮されてゆきます。そのように魚介類の内部に濃縮された放射性物質を最終的に口にするのは、私たち人間です。
トリチウムに関しても、体内に取り入れられた際の影響が指摘されています。トリチウムは半減期が12年と比較的短く、人体への影響は少ないと主張する専門家の方もいます。一方で、トリチウムが有機化合物として体内に取り込まれた際の健康への影響を指摘する専門家の方もいます。トリチウムは私たちの体内に取り込まれた際、健康への影響とリスクが生じる危険性があるのです。
《トリチウムが有機化合物中の水素と置き換わり、食物を通して、人体を構成する物質と置き換わったときには体内に長くとどまり、近くの細胞に影響を与えること、さらにDNAを構成する水素と置き換わった場合には被ばくの影響が強くなること、トリチウムがヘリウムに壊変したときにDNAが破損する影響などが指摘されています》(国際環境NGO FoE Japan『Q&A ALPS処理汚染水 気になるポイントをまとめました』より)。
海洋放出以外にも、「大型タンク貯蔵案」、あるいは汚染水の「モルタル固化案」などの有効な代替案が市民団体から提案されてきました。しかし、政府と東京電力は具体的に検討することをしませんでした。
これから何十年も、汚染水の海洋放出(海洋投棄)を続けることは、未来の世代への責任を放棄することに他なりません。これからの時代を生きる子どもたち、若い世代の方々を、これ以上、無用な被ばくにさらしてはいけません。このことは、私たち社会全体の責務ではないでしょうか。
放射性廃棄物の海洋への投棄は、ロンドン条約96年議定書によって禁止されています。ALPS処理水の海洋放出はこの議定書に違反する可能性があることも指摘されています。
まだ、引き返すことは可能です。私たち一人ひとりが改めて声を上げ、また内外から海洋放出への反対の声が高まることによって、この度の政策が転換され、海洋放出が中止に至りますよう切に願います。
ローマの教会における「平和ではない」状況
平和とは、神さまの光のもとで、一人ひとりがかけがえのない存在として大切にされている状態、一つひとつの命が大切にされている状態を指すことを述べました。私たちの生きる社会では現在、様々な「平和ではない」状況が生じており、喫緊の課題の一つとして、ALPS処理水の海洋放出の問題について共有いたしました。
平和ではない状況は、私たちの身近なところでも、絶えず生じ得るものです。時に、教会の中においても生じることがあるでしょう。
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙14章10-23節を読みますと、手紙の宛先であるローマの教会においても、「平和ではない」状況が生じていたことが伺われます。教会のメンバーの間で対立が生じてしまっている状況があったようです。手紙の著者パウロはそのような状況が改善へと向かうよう、懸命に執り成しをしています。
対立の原因となっていたのは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の律法に記されている「食べ物についての規定(食物規定)」を巡っての考え方の相違でした。当時、ローマの教会において、律法に記された食物規定を忠実に守ろうとする人々と、これらの食物規定から自由になろうとする人々との間で対立が生じてしまっていたようです。
食物規定を巡る対立
旧約聖書には「食べてよいもの」と「食べてはならないもの」についての決まり(食物規定)が記されています。よく知られているのは、ブタの肉を食べることを禁じる決まりですね。ユダヤ教徒の方々は長きにわたって、この食物規定を大切に守り続けてきました。
しかし、新約聖書の時代になると、その受け止め方に変化が生じることとなりました。あるものは「食べてよい=清い」、あるものは「食べてはならない=汚れている」と区別するのではなく、神がお造りになった命はすべて「清い」、という受け止め方に変化したのです。
それは、イエス・キリストの福音を通して与えられた新しい世界観によるものでした。神の子イエス・キリストによって、あらゆる隔てが取り除かれた。「清い」「清くない」の区別は取り除かれ、いまや、キリストを通してすべてのものが「清い」もの、神の目に「良い」ものとされた。イエス・キリストへの信仰を通して、《それ自体で汚れたものは何もない》(ローマの信徒への手紙14章14節)と、初代のクリスチャンたちは新たに理解するようになったのです。ローマの教会の中にも同様に、このイエス・キリストへの信仰に基づいて、旧約聖書の食物規定にとらわれずに自由に食事をする人々がいたようです。
ここで具体的に想定されるのは、異なる宗教の儀式でささげられた動物の肉を食べても構わない、という考えです。
一方で、教会の中には、これまでの伝統的な信仰を遵守しようとする人々もいました。もともとユダヤ教徒であった人々の中には、旧約聖書の食物規定を変わらず遵守していた人々がいたのです。先祖代々大切に受け継いできた信仰の在り方や、長年の生活習慣を急に変えるのは難しいことでもあったでしょう。
このように、当時のローマの教会において、食べ物に対して「革新的な」考えをもつ人と、「保守的な」考えを持つ人とが同時に存在していました。革新的な立場である人々は、保守的な立場の人々を「遅れている」と上から目線で軽蔑し、軽んじてしまっていたのかもしれません。保守的な立場である人々は、革新的な立場の人々を伝統的な信仰をないがしろにしていて「ゆるせない」と断罪してしまっていたのかもしれません。
神が受け入れてくださるから
パウロは対立しているローマの信徒たちに対して、次のように諭します。《食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません》(3節)。手紙を書いたパウロ自身は、どんな食べ物も自由に口にしてよいのだという考えを持っていました。イエス・キリストへの信仰によって、この世界においてそれ自体で「汚れたもの」は何もないと確信していたからです。いわば「革新的な」考えを持っていたわけですが、しかし、パウロはその自分の考えを他者に強要することはしませんでした。どの部分を重視するかは、《各自が自分の心の確信に基づいて決めるべき》(5節)だと考えていました。
それよりも、大切なのは、神さまがそのような私たち一人ひとりを受け入れてくださった(3節)こと。神の目に価高く貴い存在として受け入れてくださっていること。そのことをこそ、いつも互いに思い出そう、とパウロは呼びかけています。あなたが食べる物のことで批判しているその相手も、神は愛する存在として受け入れてくださっているのだ、と。そして、キリストは、その相手のために、命を捨ててくださったのだ、と(15節)。私たちはこのイエス・キリストへの信仰で、互いに結び合わされているのではなかったのですか、とパウロは訴えます。
自分も相手も「神に愛された存在」
そしてパウロはこのように語ります。《生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです》(8節)。食べ物についての理解の相違を超えて、信仰理解の違いを超えて、民族や国籍の違いを超えて、あらゆる相違を超えて、私たちは神さまのものとされている。神さまに受け入れられ、神さまの愛する子どもたちとされていることをパウロは語ります。
「受け入れ合う」とは、互いの存在を受け入れ合うことであることが分かります。意見が同じだから受け入れる、立場が同じだから受け入れる、というのではなく、相手の存在そのものを重んじ、大切にすること。少なくとも、意見や立場が違うからといって、相手の存在を軽んじたり、相手を傷つけたりはしないこと――。それが、イエスさまが私たちに伝えてくださっている愛の在り方です。双方が自分の信仰理解の正しさや優位性を主張しようとする余り、相手の心を傷つけてしまっている状況は、パウロにとっては何よりもこの愛が欠如しているものとして映っていました。
私たちは時に、他者との違いがゆるせなくなってしまうことがあります。そうして相手の存在を軽んじたり、相手を断罪しようとしてしまいます。けれどもそのような時、私たちはまず自分も相手も「神に愛された存在」であるという共通項を思い起こすことが求められているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
一人ひとりが大切にされる平和の道を
平和とは、「一人ひとりが大切にされている状態」「一つひとつの命が大切にされている状態」であることをメッセージの前半で述べました。平和について考える際、私たち一人ひとりが、神さまに愛された存在であることをいつも忘れないでいたいと思います。私自身も、私の周りにいる一人ひとりも、神さまの目にかけがえがない=替わりがきかない存在であること。だからこそ、私たちは互いを重んじ合うよう神さまから招かれています。
一人ひとりがまことに大切にされる平和の道を、共に祈り求めてゆきたいと思います。