2023年8月6日「あなたに 平和があるように」
2023年8月6日 花巻教会 主日礼拝説教・平和聖日
聖書箇所:詩編122編1-9節、ルカによる福音書10章25-42節、ローマの信徒への手紙12章9-21節
平和聖日
本日は平和聖日礼拝をおささげしています。平和を心に留め、ご一緒に礼拝をささげる日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は8月の第一週の日曜日を平和聖日に定めています。
平和聖日は、西中国教区(広島県、山口県、島根県の3県で構成)が1961年に、8月6日の原爆投下の日、またはその直前の日曜日を平和聖日とすることを提案したことにさかのぼります。翌年の1962年から、平和聖日は私たち花巻教会が属する日本キリスト教団全体でも守るものとされました。西中国教区の提案は「8月6日の広島への原爆投下の日またはその直前の日曜日を平和聖日とする」というものでしたが、「8月の第一日曜日を平和聖日とする」という修正を経て、今日に至っています(参照:『日本基督教団史資料集 第4巻』261‐262頁、日本基督教団出版局、1998年)。平和聖日は原爆の悲惨さを経験した広島の諸教会の祈り、核廃絶に向けての祈りがその発端であったことが分かります。
本日は8月6日、広島の原爆の日です。今朝、原爆が投下された時刻の8時15分には、広島をはじめ、国内外で原爆で亡くなった方々への鎮魂の祈り、核廃絶への祈りがささげられました。9日には、私たちは長崎の原爆の日を迎えます。
今年の5月、被爆地広島で主要7カ国首脳会議(G7サミット)が開催されました。5月19日にはG7の首脳たちが平和記念公園を訪れ、平和記念資料館を視察し、被爆者の方と対話を行いました。首脳たちによる慰霊碑への献花も行われました。このこと自体は記念すべきことでしたが、その後に出された首脳声明「広島ビジョン」では「各国は、核兵器が存在する限りにおいて、それを防衛目的に役立てるべきである」とされ、核抑止論を前提とした安全保障政策が示されました。
しかしながら、核兵器が為政者たちの手元にある限り、そのスイッチが実際に押される危険は常に存在しています。実際、ロシアとウクライナの戦争が長期化する中、核兵器が使用されることの脅威がより高まってきています。私たち人類および地球上のすべての生命を脅かし続けるその危機をなくすには、核兵器を廃絶してゆくほか道はありません。
今朝の広島平和記念式典の「平和宣言」の中で、広島市長の松井一実氏は《核による威嚇を行う為政者がいるという現実を踏まえるならば、世界中の指導者は、核抑止論は破綻しているということを直視し、私たちを厳しい現実から理想へと導くための具体的な取り組みを早急に始める必要があるのではないでしょうか》と述べました(朝日新聞デジタル、【平和宣言全文】より)。また日本政府に対して、《一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となり、核兵器廃絶に向けた議論の共通基盤の形成に尽力するために、まずは本年11月に開催される第2回締約国会議にオブザーバー参加していただきたい》と求めました。核兵器禁止条約は2017年7月7日に国連で採択された、核兵器を全面的に禁止する初の国際条約です(2021年1月22日に発効)。日本政府はいまだ核兵器禁止条約の締約国となっていません。
イエス・キリストはおっしゃいました。《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》(マタイによる福音書26章52節)。核廃絶へ向けて、戦争の終結に向けて、私たち一人ひとりの祈りを合わせ、自分に出来ることを行ってゆきたいと願います。
奥羽教区 祈りの課題
平和聖日に際して、私たち花巻教会の属する奥羽教区(青森県、秋田県、岩手県の3県で構成)からも祈りの課題が配布されています。今年の祈りの課題は次の通りです。
《・ロシアとウクライナの戦争が終結するように。市民が安全な生活を取り戻せるように。
・防衛のための軍事増強ではなく、外交による紛争解決がなされるように。
・核兵器廃絶のために。
・原発及び再処理工場等の「核燃料サイクル」への依存をやめ、原発に頼らない国つくりのために。
・沖縄をはじめ軍事基地の存在に苦しめられている人々に連帯して。
・安全保障法制、共謀罪法制が廃止されるように。
・朝鮮半島の二国間緊張が緩和されるように。
・平和憲法である「日本国憲法」が守られるように。
・様々な差別に悩む人々のために。他人事でなく、私たちが自らの課題とすることができるように》
私たちがいま生きている社会には、平和を脅かす状況が様々なところで見出されます。いま挙げた祈りの課題の中に《原発及び再処理工場等の「核燃料サイクル」への依存をやめ、原発に頼らない国つくりのために》との祈りがありました。原発問題の関連で言えば、福島第一原発で増え続けるALPS処理水(トリチウムなどの放射性物質を含んだままの汚染水)放出の問題が、喫緊の課題の一つです。
在日大韓基督教会と日本キリスト教団が共同で発表した今年の「平和メッセージ」では、日本の原子力政策についても取り上げられ、日本政府の原子力政策やALPS処理水の海洋放出(海洋投棄)について断固抗議する旨が記されています。《わたしたち日本基督教団と在日大韓基督教会は、ALPS処理水の海洋投棄や、日本政府が提唱する「基本方針」に断固抗議をし、今なお、強いられたヒバクによって痛み、脅かされている命と連帯して行きます》。
いま目の前にある一つひとつの課題に、私たちが祈りをもって向かい合ってゆけますように、どうぞ神さまが私たちにその力を与えて下さいますようにと願います。
《できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい》
メッセージの冒頭で、新約聖書ローマの信徒への手紙12章9-21節をお読みしました。一つひとつの言葉が印象的な箇所ですが、本日は特に、次の言葉に注目してみたいと思います。18節《できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい》。平和聖日に読むのにふさわしい箇所であると言えるでしょう。別の翻訳(フランシスコ会訳)では、《できることなら、あなた方の力の及ぶかぎり、すべての人と平和に暮らしなさい》と訳していました。また少し印象が違いますね。
後者の訳では、すべての人と平和に暮らすことに私たちの力を尽くすことの大切さが言われているように感じられます。平和という目標は、私たちが力の及ぶかぎり、自分にできることを果たしてゆくことを通して、少しずつ、作り出されてゆくものであるのですね。
また同時に、すべての人と平和に暮らすことは私たちにとっていまだ実現し得ていない、難しい目標であり続けていることを思います。むしろ私たちの目の前にあるのは、様々な、平和ではない現実です。
悪に悪を返さないこと、報復を禁止する教え
この言葉の前後の部分も読んでみたいと思います。《だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。/できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。/愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります》(17-19節)。
前後の言葉をあわせて読みますと、《すべての人と平和に暮らしなさい》という言葉が、悪に悪を返さないこと、報復を禁止する教えに挟まれていることが分かります。すべての人と平和に暮らしてゆくために、重要な事柄として、悪に悪を返さないこと、報復をしないことが第一に挙げられているのですね。《できることなら、あなた方の力の及ぶかぎり、すべての人と平和に暮らしなさい》の《力の及ぶかぎり》とは、私たちの力の及ぶかぎり、報復を抑制し続けることを意味しているのだと受け止めることもできます。
「報復の連鎖を断ち切る決意」をすることへの促し
ここでご一緒に確認しておきたいことは、聖書は必ずしも私たちの内にある「仕返ししたい」という感情自体を否定しているものではないということです。たとえば、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の詩編の中には、「敵への報復」を願う詩がたくさん出てきます。私たちは生きてゆく上で、そのような衝動はどうしても生じてしまうものです。
もし自分が誰かにひどく傷つけられたら、その相手に「仕返ししたい」という想いは、誰でも生じ得るものだと思います。傷ついた皮膚から血が湧き出るように、傷つけられた心から怒りや復讐心が湧き出るのは、むしろ自然な反応であると言えるでしょう。私たちはロボットではないし、また聖人でもないわけですから、当然の反応として、否定的な感情が湧き出てしまうものです。
そのことを大前提として、では、私たちはどう振舞うのか。否定的な感情につき動かされるままに行動してしまうのか、それとも、その欲求に自らが支配されるのを拒み、その欲求を何とかして――《力の及ぶかぎり》――克服しようとするのか。そして、祈りの中で、別の道を選び取ろうとするのか。そのことが私たちは問われているのではないでしょうか。
報復は、さらなる報復を呼びます。報復によっては何も解決しないということは、これまでの私たち人間の歴史が証明していることです。「報復の連鎖を断ち切る決意」をすることを促しているのが聖書の教えであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい》
先ほど、詩編の中に、「敵への報復」を願う詩がたくさん出てくることを述べました。それらの詩の特徴は、報復を願う気持ちは率直に表しつつ、自分でそれを果たそうとはしないところです。そうではなく、神がそれをしてくださるようにと願っているのです。ある詩編の解説書は、《復讐の思いを語ることは、復讐の行為と等しいものとみられるべきではありません》と記しています(ブルッゲマン『詩編を祈る』、吉村和雄訳、日本キリスト教団出版局、2015年、132頁)。
また、詩編の中には、強烈な表現で「敵が自滅すること」が願う詩もあります。ここでも注目したいのは、そのように強烈な表現を用いながらも、やはり自分で報復をしようとしていないところです。語り手の「わたし」は自分の激情を率直に表現しつつ、しかし最終的にはそれらすべてを神にゆだねる姿勢を取っています。
ローマの信徒への手紙12章の先ほどの言葉にも、やはり同様のメッセージが記されていました。《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります》(19節)。
ここで禁止されているのは、復讐心(報復感情)を持ってしまうことではありません。復讐心に駆られて、実際に復讐を実行してしまうことが禁止されているのです。どうしようもない自分の内なる復讐心を、神に委ねてみること。《復讐はわたしのすること、わたしが報復する》と言ってくださる神さまの正義に委ねてみること。そのことを、本日の聖書の言葉は私たちに教えています。そうすることで、私たちは報復の連鎖を断ち切る道を見出してゆくことができる。私たちの間に、「すべての人と平和に暮らす」道が拓かれてゆくのだ、と。
まずこの私から
報復の連鎖をいかに断ち切ってゆくことができるか、このことは、私たちの社会にとって喫緊の課題です。私たちの生きる社会は、至るところで報復の連鎖、復讐の連鎖が見出されます。身近なところで、また遠いところで、その連鎖はとどまるところを知りません。そのような中にあって、私たちはまず自分自身が変わる決意をする、ということが大切であるのでしょう。自らをもって、「報復の連鎖を終わらせる」という決意です。
《できることなら、あなた方の力の及ぶかぎり、すべての人と平和に暮らしなさい》――自分の《力の及ぶかぎり》、報復の連鎖を断ち切る決意をし続けること。そのとき、私たちは確かに、「すべての人と平和に暮らす」ための道を歩んでいることになります。
イエス・キリストはおっしゃいました。《平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる》(マタイによる福音書5章9節)。平和はいまだ実現していません。だからこそ、平和を実現しようとする人々は幸いだとイエスさまが語り続けてくださっているのだと受け止めたいと思います。
報復の連鎖を終わらせ、すべての人と平和に暮らすための第一歩を、まずこの私から始めてゆきたいと願います。