2023年9月3日「キリストの真実にかけて」

202393日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編311525節、ルカによる福音書14714節、コリントの信徒への手紙二11715

キリストの真実にかけて

 

 

関東大震災から100

 

 一昨日の91日、関東大震災から100年を迎えました。1923(大正12年)911158分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生、ちょうど昼食の時間と重なったことから大規模な火災が生じ、被害が拡大しました。津波、土砂災害も発生、死者・行方不明者は105千人以上にのぼる言われます(参照:気象庁「関東大震災から100年」特設サイトより。https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/1923_09_01_kantoujishin/gaiyo.html)。

関東大震災の記憶を改めて受け継いでゆくと共に、次の巨大地震に向けて備えをすることが求められています。私たちも日頃から防災意識を高めてゆきたいと思います。どうぞ一人ひとりの生命と安全が守られますよう切に願うものです。

 

また、関東大震災では混乱状態の中で、「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こす」などの流言やデマ(現在の言葉で言うとフェイクニュースやヘイトスピーチ)が広がり、各地で朝鮮人の方々が虐殺されました。

このような過ちが二度と繰り返されぬよう、震災直後に私たちの社会に何が起こっていたのか、その事実を知り、虐殺を生んだ社会の構造への認識を深めてゆくことが求められています。私自身、理解を深めてゆきたいと思います。

 

 

 

パウロという人物

 

 メッセージの冒頭で、新約聖書のコリントの信徒への手紙二の言葉をお読みしました。この手紙の著者は、パウロです。パウロは、キリスト教が生まれ出て間もない頃、重要な役割を果たした人物の一人です。コリントの信徒への手紙の他にパウロが残した代表的な手紙として、ローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙などがあります。

 

パウロは元々は熱心なユダヤ教徒で、当初はキリスト教徒を迫害していました。しかしある時、復活したイエス・キリストと出会い、今度は熱心なキリスト教徒となりました。

「目からウロコが落ちる」ということわざは、このパウロの回心に由来することわざです。イエス・キリストと出会い、それまでの生き方や世界観がまったく新しいものに変えられたとき、パウロの《目からうろこのようなものが落ち》た、と聖書は記します(使徒言行録918節参照)。「目からウロコ」ということわざは元来は、パウロがユダヤ教徒からキリスト教徒になる場面で使われているものであったのですね。

 

パウロが果たした役割として、キリスト教をパレスチナ以外の地域――ギリシャ、そしてローマ――に伝えたということがありました。ユダヤ教から分かれて誕生したキリスト教は、はじめは小さな、いわばローカルな宗教でした。その知る人ぞ知る、ローカルなグループであったキリスト教を、異邦世界のギリシャやローマに伝えて、世界的な宗教たらしめてゆくための土台を作った一人が、パウロであったと言えるでしょう。

 

 

 

手紙の活用

 

 キリストの福音を人々に伝えるため、パウロが活用したのが手紙でした。当時はもちろん、パソコンもスマホもありません。現在の私たちのように、メールやライン、あるいはSNSを使って情報を伝達することはできません。いまを生きる私たちにとって主要なメディアはウェブメディアとソーシャルメディですが、パウロが生きていた当時、離れたところにいる相手に情報を伝えるのに最も手紙が有効な手段でした。

ただしパウロ自身も、まさか自分の手紙が後に聖書に収録されることになるとは思ってもいなかったことでしょう。

 

 本日取り上げる手紙の宛先のコリントは、現在のギリシャの南に位置する都市です。コリントの教会は、パウロが生前もっとも深く関わった教会の一つでした。

 

 

 

一人の人間としてのパウロ

 

 パウロという人物について少し説明をしました。これだけ聞くと、パウロという人をまるでスーパーマンのような人としてイメージする人もいるかもしれません。私たちとは違う、心も体も強靭な、超人的な人であると。

しかし、コリントの信徒への手紙二の中には、パウロの評判についての意外な言葉が記されています。《手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない1010節)。これは、パウロのことをよく思っていない人々が言った陰口を、パウロがそのまま引用している言葉です。パウロと対立している人々が言った言葉であるので、そこには悪意があり、誇張されている部分があるかもしれません。

一方で、パウロは必ずしも雄弁な人ではなかったし、場合によっては時に弱々しい印象を人に与える人物であったのかもしれないことが伺われます。スーパーマンというイメージとはまた異なるパウロの姿が垣間見られます。パウロは周囲から誤解を受けやすい人であったのかもしれません。

 

 また、手紙の中には、次のようなパウロ自身の言葉も残されています。《マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです75節)。パウロはいつも喜びにあふれ、いつも神への信頼にあふれていたわけではなく、しばしば恐れや不安に取りつかれてしまっていたことが分かります。そしてパウロはそのように動揺してしまっている自分を特に隠すことをしていません。

 

 また別の箇所では、さらに強烈な告白が記されています。《兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました18節)。大変な困難の中で、生きる望みさえ失ってしまいました、とパウロは記しています。おそらくここでの大変な状況とは、牢獄に入れられた経験のことを指していると推測されます。

「どんな時も希望を失わない」、それは確かに理想ですが、私たちは時に、「もう何の望みもない」と思ってしまうこともあります。苦しい現実を前に、「もう駄目だ」と思ってしまうことがあります。パウロはそのような私たちとまったく同じように、苦しいときは「苦しい」と口にし、希望も見いだせない現実が目前にあるときは、「いまは望みを失ってしまった」とその気持ちを正直に吐露しています。

ここには、スーパーマンではないパウロ、私たちとまったく同じ、弱さをもった、一人の人間としてのパウロがいます。この一人の人間としてのパウロを感じることができたとき、パウロいう人物は私たちにグッと身近な存在となるのではないでしょうか。

 

 

 

キリストのメッセージ ~「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」

 

 パウロとはどういう人であったのか。手紙などを読むことを通して伝わってくるのは、パウロは「自分の弱さを自覚している人」であった、ということです。スーパーマンではなく、むしろ、心と体に弱さを持っており、そしてその自分の弱さを受け入れることができている人であったのだと思います。自分には、さまざまな弱さがある。さまざまな欠けがある。自分にはさまざまな、できないことがある……。逆説的な言い方ですが、そのように自分の弱さを受け入れていたからこそ、パウロは私たちの目に、大きな働きを成し遂げてゆくことができたのではないでしょうか。

 若き日のパウロはそうではなかったようです。キリスト教徒を敵視し迫害していた頃のパウロは、自分の弱さを受け入れることができていなかったと思います。自分の弱さを受け入れることができず、実際、スーパーマンのような完全な存在になろうとしていたのかもしれません。しかしイエス・キリストと出会ったことにより、だんだんと自分の弱さを受け入れることができるようになったのです。

 

 コリントの信徒への手紙二の中に、よく知られた言葉があります。パウロがイエス・キリストから受け取った言葉です。《わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ129節)。まことの力というのは、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ、とイエスさまはパウロにおっしゃいました。このイエスさまの言葉を受けて、パウロはこう思うことができるようになってゆきました、《わたしは弱いときにこそ強い1210節)

 ここでの力とは、パウロ自身の力ではなく、キリストの力です。パウロはだんだんと、自分の弱さの中にこそ、キリストの力が働いてくださることを信じることができるようになってゆきました。自分はさまざまな弱さを持っているが、だからこそ神が助けてくださる。神が力になってくださるとき、自分はまことの意味で強くなれるのだ、と。

 

 またそして、私たちは弱さをもっているからこそ、互いに支え合ってゆくことができます。弱さとは、私たちを互いに結び合わす扉であるとも言えるでしょう。神さまは私たちが独りぼっちで生きるのではなく、共に生きてゆくことができるよう、私たちに弱さを与えてくださいました。私たちが互いに支え合おうとするとき、そこに神さまは力強く働いていてくださいます。

 

 

 

キリストの真実にかけて

 

本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙二11715節の冒頭に、次の言葉がありました。7節《それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか》。

ここを読んだだけでは状況がよく把握できませんが、ここでパウロは一部の人々から何らかの誤解を受け、それに対して懸命に弁明を試みているようです。パウロが受けていた誤解がどのようなものかははっきりとは分かりません。「パウロが自分のため、お金や地位のために活動している」と誤解する、あるいはそう言ってパウロを攻撃している人々がいたのかもしれません。そのような誤解あるいは批判に対して、ここでパウロは《あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせた》ことを強調しています。パウロは無償で、コリントの教会のために尽力していたのですね。

 

そしてパウロは続けます。10節《わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません》。

キリストの真実にかけて》、パウロはこれらの言葉を記していることを示されます。ご一緒に注目したいのは、自分の真実ではなく、「自分の内にあるキリストの真実にかけて」と表現されているところです。パウロは自分の誠実さではなく、自分の内にあるキリストの真実を自分の活動の根拠としていることが分かります。

 

 

 

キリストの力と真実を信頼し

 

 イエス・キリストは、周囲の人々から誤解され、攻撃され、そうしてご生涯の最後には十字架刑に処せられました。イエスさまはそのご生涯、そしてご生涯の最後の十字架の道行きを通して、ご自身のすべてのものを与え尽くして下さいました。無償で、いっさいの見返りを求めず、すべてを与え尽くしてくださいました。自分に敵対し攻撃する人々をゆるし、私たち一人ひとりを愛し、その十字架において神さまのまことの愛を現してくださいました。

 パウロは、自分の内に光輝くこのイエス・キリストの真実をこそ、頼みとしています。パウロは自分の弱さの中に働くキリストの力を誇りとし、自分の内にあるキリストの真実を頼みとしているのです。

 

別の手紙、テモテへの手紙二213節にはこのような言葉があります。《わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。/キリストはご自身を/否むことができないからである》。たとえ私たちが誠実でなくても、キリストはいつも真実であられる――。これはパウロの信仰・信頼の言葉であり、私たちキリスト教会の信仰・信頼であり続けています。

 

 

私たちの内に働くキリストの力とキリストの真実を信頼し、困難の中にあっても、共に支え合いながら歩んでゆきたいと願います。