2024年1月21日「カナの婚礼」
2024年1月21日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編19編1-7節、ヨハネの手紙一1章1-4節、ヨハネによる福音書2章1-11節
「カナの婚礼」
能登半島地震から3週間、阪神・淡路大震災から29年
能登半島地震が発生して3週間が経過しました。いまも多くの方が避難生活をし、困難な生活を強いられています。この度の地震によって愛する人を失った方々の上に神さまの慰めがありますように、困難な生活を強いられている方々に必要な支援が行き渡りますように、引き続き、祈りを合わせてゆきたいと思います。
先週の1月17日、阪神・淡路大震災から29年を迎えました。震度7が史上初めて観測されたこの大地震では、6434名の方々が命を失いました。いまも多くの人が深い悲しみや苦しみを背負いつつ、生活をしておられます。阪神・淡路大震災で被災した方々を覚えて、これからも祈りを合わせてゆきたいと思います。
阪神・淡路大震災が起こった1995年1月、私は小学5年生でした。当時私は大阪南部の富田林市に住んでいました。震源地からは離れており直接的な被害はありませんでしたが、その日のことは強烈に心に残っています。
地震が発生した午前5時46分、多くの人はまだ寝ていました。突然の強い揺れと、ガタガタという大きな音。私もまだ寝ていて、すぐには何が起こっているのかよく分かりませんでしたが、じきに地震だと気づきました。この度の能登半島地震は1月1日のお正月の夕方に発生しました。一年の中でも、多くの人が一番ゆっくり過ごしているお正月に起こった、突然の地震でした。阪神・淡路大震災はまだ多くの人が寝ている早朝に発生しました。すでに起きていた人も、朝食を用意するなど、火を使用していた時間帯であったことと思います。
地震による影響を気にかけながらも、とりあえず、その日は学校に登校しました。一見いつも通りの学校であるようでいて、その日はどこか校内の雰囲気が違っているように感じました。特に先生方の様子がいつもと違うように感じました。普段通りに振舞いながらも、どこか表情が固い印象を受けました。子ども心に、やはり大変なことが起こったのだと直感しました。
家に帰ってからテレビをつけると、地震による被害が少しずつ報道され始めていました。以降、テレビや新聞を通して、現実とは思えないような、甚大なる被害の状況を目にしてゆくこととなりました。
1995年はその後、オウム真理教によるサリン事件も起こりました。私たち日本に住む者にとっては、1995年は深く記憶に刻まれる年になりました。私自身、阪神・淡路大震災以降は、「震災以前、以後」という観点で物事を捉えるようになりました。「あれが起きたのは震災以前」、「あのことが起きたのは震災以後」というように、1995年1月17日を基準に過去の出来事を捉えるようになったのですね。それは関西および西日本に住む方々の多くの方がそうであったのではないでしょうか。
またそれは、2011年3月11日、東日本大震災が起こった時もそうでした。私たち日本に住む者は、東日本大震災と原発事故以降、2011年3月11日を一つの区切りとして、ものごとを捉えるようになりました。
またそして、2020年2月以降の新型コロナウイルスの世界的感染拡大も同様でしょう。それまでの生活が一変した、コロナ・パンデミック。以降、私たちは「コロナ以前」「コロナ以後」という観点で、物事を振り返るようになっているのではないでしょうか。「あれはコロナ前」、「あれはコロナの後」というように。能登に住む人々にとっては、この度の地震が、そのような大きな出来事になっていることを思います。
ある日、突然発生する、私たちの生活を一変させる出来事。大きな困難を前に、時に「神はどこにいるのか」と問わずにはいられなくなることもあります。どうしてよいか分からず、ただ無力感をのみ感じる瞬間もあります。そのような時、私が思い起こす聖書の言葉の一つが、ローマの信徒への手紙12章15節《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》です。
何もできないようでいて、私たちはいま悲しんでいる人の、その悲しみに想いを馳せることはできます。その涙に思いを馳せ、その人々のために祈りを合わせてゆくことはできます。それはささやかなことではありますが、私たちにとって、確かな力につながってゆくものではないかと思います。そして、何らかの行動へとつながる力となってゆくものだと思います。
新しい年が始まって、3週間。能登半島地震から、3週間。様々な困難が目の前にある私たちですが、喜びも悲しみも分かち合い、互いに支え合いながら、この1年を歩んでゆきたいと願います。
カナの婚礼
「イエス・キリストが水をワインに変えた」というエピソードは、多くの人が聞いたことがあることと思います。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書2章1-11節は、そのエピソードが記されている箇所です。新共同訳聖書では「カナの婚礼」というタイトルがつけられています。カナとは、人の名前ではなく(カナさんではなく)、地名です。この町がどこにあったかははっきりとは分かりませんが、イエス・キリストの故郷ガリラヤのナザレより十数キロほど北にあったと推定されます。
改めて、本日の物語を振り返ってみたいと思います。それは、カナで行われたある結婚式でのことでした。イエスさまは弟子たちと一緒に、その結婚式に招かれていました。そこには、イエスさまの母マリアもいました(ヨハネ福音書においてはマリアという名前は記されておらず、イエスの母と表記されています)。
当時のパレスチナの結婚式は、長い時間をかけて盛大に行われるものであったようです。お祝いの歌あり、踊りあり……。長い時間、ずいぶんと盛り上がったのでしょうか、いつしか、ワイン(ぶどう酒)が足りなくなってしまいました。
それに気づいた母は、イエスさまにそっと耳打ちします。「ぶどう酒がなくなりました」。するとイエスさまはお答えになります。《婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません》(4節)。
母親に対して「婦人」という表現が使われていることに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれせんが、イエスさまは母に対して何か他人行儀な言い方をしておられるわけではありません。この返答の大切な部分は、《わたしの時はまだ来ていません》というところです。
ただし、《わたしの時はまだ来ていません》とは、意味が分かりづらい言葉ですね。母もおそらく、そのときは息子が何を言わんとしているのかが分からなかったことと思います。分からないながらも、イエスさまを深く信頼していましたので、母は召使いたちに《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください》(5節)と伝えます。
さて、この結婚式場には、清めに用いるための大きな水がめが6つ置いてありました。全部あわせて500~700リットルもの水が入る、大きな水がめであったようです。2リットルのペットボトルで換算すると、250~350本分の量に相当します。
すると、イエスさまは召使いたちに、これらの水がめに水をいっぱい入れるように頼みます。召使いたちは言われた通り、水がめの縁まで水を満たします。ここで、不思議な出来事が起こります。かめの中の水がワインに変わるのです。
イエスさまは《さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい》(8節)とおっしゃいます。宴会の世話役をしていた人は、ワインに変わった水の味見をして、驚きます。とてもおいしく、上等なワインだったからです。このワインがどこから来たのは、水を汲んだ召使いたちは知っていましたが、世話役は知りませんでした。世話人はてっきりこのワインを花婿が出してくれたものかと思い、花婿を呼んで、言いました。《だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました》(10節)。
ヨハネによる福音書は、カナの婚礼で起こったこの出来事が、イエスさまが行った最初の《しるし》であったと語ります。11節《イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた》。
しるし ~神さまの愛と命を指し示すものとして
これが、「イエス・キリストが水をワインに変えた」カナの婚礼でのエピソードです。ここでご一緒に注目してみたいのは、《しるし》という言葉です。しるしとは、何かを指し示すものですね。ヨハネによる福音書においては、水をワインに変える、病いを癒すなどの奇跡的な出来事は、「しるし」と呼ばれます。奇跡そのものよりも、その奇跡的な出来事が指し示している事柄がより重要である、というのですね。福音書におけるいわゆる「奇跡物語」を読むとき、それが「あり得るか、あり得ないか」ということよりも、その出来事が指し示しそうとしている事柄が何であるかを汲み取ることが大切であると思います。
では、本日の物語において描かれる「しるし」が、何を指し示しているのか。それは、イエス・キリストを通して現わされる神さまの愛と命であるのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
ヨハネによる福音書には次の言葉があります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(3章16節)。神さまはその独り子をお与えになったほどに、私たちを愛して下さった。そしてそれは私たちが永遠の命を得るためである。神の愛と永遠の命という大切な言葉がこの一文の中には含まれています。この短い一文の中に聖書全体のメッセージが凝縮されている、と言う人もいます。
この3章16節の言葉は、特に、イエス・キリストが十字架におかかりになったことを念頭において記されています。十字架のキリストを通して、まったき神の愛が現わされた。そしてその3日目にイエスさまが十字架の死より復活されたことによって、私たちに永遠の命が約束されたことをヨハネ福音書は証します。
本日のカナの婚礼の物語において、イエスさまが母に《わたしの時はまだ来ていません》とおっしゃる部分がありましたね。その《わたしの時》とは、十字架と復活の《時》であったことが分かります。私たち読者は、ヨハネ福音書を最後まで読み、改めて最初から読み直すことで、当初は分からなかったイエスさまの言葉の意味が分かるようになります。ヨハネ福音書全体は意図的に、そのような構造で書かれているのですね。
イエスさまはいまも私たちの傍らで
本日のカナの婚礼の物語が指し示す、神さまの愛と命。本日の物語においては、祝宴に参加する一人ひとりが、その愛と命に与りました。そして、いまこの物語を読む私たち一人ひとりもまた、この神さまの愛と命に与る恵みが与えられているのだとご一緒に受け止めたいと思います。
私たち一人ひとりの存在が、神さまの目から見て、かけがえのない存在であること。私はいつもキリストの愛の内にとどまっており、どんなことがあっても、私たちはこの愛から引き離されることはないということ。私たちがこの生涯を終えた後も、いつまでも、神さまの愛と、復活の命の内に結ばれ続けることを、共に思い起こしたいと思います。
イエスさまはいまも、私たちの傍らで、このことを、伝え続けて下さっています。遠く離れたところからではなく、私たちのすぐ傍で――カナでの婚礼の時のように――私たちと同じテーブルについて、愛と命の言葉を語り続けて下さっています。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きながら、愛と命の言葉を語り続けて下さっています。