2024年11月17日「預言者が語る神の言葉」

20241117日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書53848節、使徒言行録31126節、申命記181522

預言者が語る神の言葉

 

 

「予言」と「預言」

 

いまお読みした聖書箇所の中に、「預言者」という言葉が出てきました。聖書の中には、預言者と呼ばれる人々が登場します。旧約聖書(ヘブライ語聖書)ではイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者が有名です。モーセも預言者と呼ばれることがあります。新約聖書では洗礼者ヨハネも預言者(旧約聖書からの流れを受け継ぐ最後の預言者)として位置づけられています。

 

音で聞くと同じですが、表記の異なる言葉に「予言者」があります。この「予言」と「預言」を日本語訳聖書では使い分けていますので、少しご説明したいと思います。

「あらかじめ」という表記が冒頭につく「予言」は、未来をあらかじめ語ることを意味します。未来を予知する意味での予言ですね。予言と聞きますと、私たちの世代ではノストラダムスの預言をパッと思い浮かべます。

 対して、「あずかる」という表記が冒頭につく「預言」は、言葉を預かるという意味をもっています。誰の言葉かといいますと、神の言葉です。神の言葉を預かる人のことを聖書は預言者と呼んでいるのですね。神の言葉を預かり、人々に伝えるのが第一の預言者の役割です。預言者たちの言葉を集め、後の時代の人々が編集したものを預言書と言います。

 

本日の聖書箇所では、この先、またモーセのような預言者がイスラエルの民に与えられることが告げられています。18節に預言者の役割を端的に表している一文がありました。申命記1818節《わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう》。

と同時に、本日の聖書箇所では、預言者もあくまで一人の人間であり、預言者が語る言葉も誤っている可能性があるし、それが常に神の言葉であるわけではない、ということも確認されています22節)

 

 

 

未来はいまだ決定されたものではない

 

もちろん、預言者たちが未来に関する事柄を語ることもあります。預言者たちは時に、自分たちを待ち受ける破滅的な未来についても語ることがありました。ただしそれらの言葉は未来を直感的に予知した言葉ではなく、目の前の腐敗した現実の帰結としてこの先このようになる、と神からの警告として語られたものです(参照:『新共同訳 聖書辞典』「預言者」、キリスト新聞社、1995590頁)。そのような破局的な未来を自ら招かぬよう、神さまにいま立ち帰るべきことを預言者たちは訴え続けました。

言い換えますと、未来はいまだ決定されたものではないのです。私たち人間が神さまに立ち帰ることで、破滅的な結末は免れ得るものであることを聖書は語っています。

 

 

 

運命論

 

 古代から人々の心を捉えてきた考え方に、「運命論」があります。「この世界に起こる出来事は初めからそうなるように定められている、それを私たち人間の意志や力で変えることはできない」という考え方です。私たちの心が諦めで支配されてしまうとき、その諦めの気持ちと結びつきやすいのがこの運命論であるかもしれません。いま目の前の現実が問題に満ちているのは「仕方がない」、将来、悲惨な未来が待ち受けていることも「仕方がない」……。

 

 人間の社会が困難や苦しみに満ちていたのは、大昔からも同様であったでしょう。そのような中、運命論が人々の心を捉えてきたのも理解できることです。たとえば、現在は奴隷制度は禁止されていますが、古代はそうではありませんでした。大勢の人々を従わす王家に生まれる人もいれば、毎日過酷な労働を強いられる奴隷の家に生まれる人もいる。その不条理な現実を、天が定めた運命だとすれば、「仕方がない」ものとして受け容れることができるかもしれません。

このような考えというものは、確かに現状を受け容れるためには時に有効であるとは思いますが、現状を変えてより良い未来を求めてゆく力にはつながらないものでしょう。運命論を受け容れてしまったままでは、人間の歴史に奴隷解放運動というものは起こり得なかったと思います。

 

 

 

聖書は運命論に基づいて書かれていない ~未来はいまだ白紙

 

では、聖書はどうでしょうか。聖書は「神さまのご計画」ということを大切にする書です。このことから、聖書とはまさに運命論に基づいて書かれているという印象を受ける人もいるかもしれません。

 けれども、聖書全体を読んでみて、結論として言えることは、「聖書は運命論に基づいて書かれてはいない」ということです。むしろ、私たち人間の主体的な意思決定というものを重んじている書だと言えます(代表的な物語としては、旧約聖書のヨナ書)。この世界に起こる出来事は初めから神さまによってそうなるように定められているのではない。そうではなく、未来は私たち人間の態度によって、刻々と変わってゆく。どんなに困難な現実が目の前にあろうとも、私たちはそれをより良く変えてゆく可能性を秘めている。聖書はそのような肯定的なメッセージを私たちに伝えているように思います。つまり、ある意味、未来はいまだ白紙であるのです。

 

それはまさに預言者たちの言葉がそうでありましょう。預言者たちは、目の前の現実に対して、鋭い批判の言葉を展開しました。どんな権力をもった相手であっても、たとえ王であっても、腐敗した現実があるのであれば、預言者たちは臆することなく神の言葉を取り次いでゆきました。それはひとえに、人々が神さまの御心に立ち帰るためです。もしこのまま問題を問題のまま放置すると、当然の結果として、悲惨な未来が訪れるであろう。しかしその言葉は、先ほど述べましたように、未来を予知した言葉というよりは、目の前の腐敗した現実の当然の結果としてこの先このようになるという意味で語られた言葉でした。悲惨な未来を招かぬために、神さまの真理と正義に立ち帰るよう、預言者は懸命に神の言葉を取り次いだのです。

 

 

 

申命記181522節 ~他宗教の習慣との対比として

 

 本日の聖書箇所である申命記181522節の直前の部分には、他宗教の習慣への警告が語られています。本日の預言者についての言葉は、もともとの文脈では、他宗教の習慣との対比として語られているものであったのですね。

18911節《あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。/あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、/呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない

カナンの先住民族の人々が親しんでいたのは、占いに代表される、宗教的な慣習でした(同1011節)9節では、これらのカナンの地の宗教的な慣習を見習ってはならないと警告されています。占いの言葉に対峙するものとして記されているのが、預言者の言葉です1522節)

 

当時、古代世界において特に影響力があったのは占星術です。古代の占星術の土台にあるのは「天体の運行が人間の運命をあらかじめ決定づけている」という世界観です。旧約聖書はこのような運命論的な考え方を、批判・相対化しようという意図をもって書かれています。たとえば、太陽も星も神が創られた被造物に過ぎないことを創世記1章は語ります。

そのように旧約聖書は占いに対して否定する捉え方をしていますが、いまを生きる私たちはもはや、他宗教の習慣を全否定したり、敵視したりする必要はありません。占いは私は詳しくはありませんが、たとえば占星術には、古代から受け継がれてきた知恵が刻印されていると受け止めています。古代の人々が直感的に理解し、現代の科学がいまだ把握できていない、この世界の様々な法則性というものもあることでしょう。また新約聖書では、クリスマスの物語おいて、占星術の学者たち(東方の博士たち)が大切な役割を果たしています(マタイによる福音書2112節)

 

 

 

内なる運命論

 

いまを生きる私たちが向かい合うべきものはむしろ、内なる運命論なのではないでしょうか。目の前の問題ある現実を、「仕方がない」ものとして受け容れてしまう、内なる運命論です。私たちはこの運命論に抗ってゆかねばならないのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

たとえば、私たちの近くに遠くに、人間の尊厳がないがしろにされている現実があります。多くの人が苦しみ、悲しんでいる現実があります。いま自分自身がそのような辛い状況にいる方もいらっしゃるかもしれません。その現実は決して、「仕方がない」ものとして受け容れてしまってよいものではありません。

 

聖書は、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い存在である」(イザヤ書434節)ことを語っています。私たち一人ひとりに、等しく、神さまからの尊厳が与えられている、その真理について語っています。

尊厳とは、言い換えれば、かけがえのなさということです。私たち一人ひとりは、かけがえのない存在として神さまに創られた。だからこそ大切な存在なのです。

神さまの正義とは、そのように「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ことです。人々の生命と尊厳が軽んじられている現実があるのならば、神さまはその現実を決して見過ごしにはなさらない。預言者たちはその神の正義の言葉を取り次ぎ、人々に伝えました。そして私たちが神さまの正義に立ち帰り、目の前の現実に向かい合い、より良い在り方へと変えてゆくように呼びかけました。

 

 

 

現代の運命論に抗う

 

私たちの生きる社会では、一部の人々によって物事がすでに決定づけられているということが多々起こっています。私たちの主体的な意志とは関係なく、また私たちの意志に反して物事が決められ進められてゆくということが起こっています。「これはこういうことに定められています」と、ものごとが進められてしまっている現状があります。これも、ある種の、現代の運命論と言えるかもしれません。ある種の運命論に基づいて、社会全体が動かされてしまっているような現状があります。

そのような問題ある現状を「仕方がない」ものとして無批判に受け容れてしまっているのだとしたら、やはり私たち自身も、運命論に支配されてしまっているのだということになるでしょう。私たちはいま目の前にある様々な問題を「仕方がない」ものとして受け容れるのではなく、抗うべきものには抗ってゆくことが求められています。

 

 

 

預言者の言葉に学びつつ ~より良い未来を求めて

 

私たちはいま、教会の暦で降誕前節の中を歩んでいます。聖書の御言葉を学びつつ、イエス・キリストのご降誕に向けて準備をしてゆく期間です。本日はご一緒に聖書における預言者の言葉を学びました。

私たちの近くに遠くに、人々の生命と尊厳がないがしろにされている状況があります。人が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまっている現状があります。私たちはそのような状況の中にあって、どのように応答すべきであるのか。どのような姿勢をもって、振舞ってゆけばよいのか。私たちはいま改めて、預言者たちの言葉に学ぶことが求められているように思います。

 

私たちが神さまの真理と正義に立ち帰り、自分のなすべきことを果たしてゆくことができますように、より良い未来を共に形づくってゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。