2024年11月24日「羊飼いが羊の群れを導くように」

20241124日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書253146節、ヨハネの黙示録191116節、ミカ書21213

羊飼いが羊の群れを導くように

 

 

収穫感謝日、謝恩日

 

昨日は勤労感謝の日でした。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は11月第4週の日曜日を収穫感謝日・謝恩日としています。収穫感謝日は、神さまから与えられた収穫の恵みを感謝する日です。教会によっては、お米や野菜、果物を並べて礼拝をささげるところもあります。謝恩日は、牧師を隠退された先生方のお働きに感謝する日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団はその感謝の思いを具体的に謝恩日献金というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えしています。私たちの日々の生活が神さまの恵みによって、また多くの方々のお働きによって支えられていることへの感謝をご一緒に新たにしたいと思います。

 

 

 

牧師と神父の違いは……?

 

「牧師と神父はどう違うのですか?」と時折聞かれることがあります。あるいは、「鈴木さんは牧師さんですか? 神父さんですか?」と聞かれることがあります。普段はキリスト教になじみのない方にとっては、両者がどう違うのか、分かりづらいですよね。

 

 牧師と神父は、教派による呼び方の違いです。プロテスタントでは教職(聖書を教える立場にある人)を「牧師」と呼び、カトリックでは「神父」と呼びます。ちなみに「神父」は敬称で、役職としての名称は「司祭」です。教職者を「司祭」と呼ぶのはカトリック教会だけではなく、正教会や聖公会も同様です。花巻教会は教派としてプロテスタントに属していますので、私は普段「牧師」と呼ばれています。

 牧師は英語ではpastor(パスター)、司祭はpriest(プリースト)です。pastor(パスター)はラテン語の「羊飼い」に由来する言葉です。牧師は羊飼い(牧者)を意味する名称であるのですね。対して、priest(プリースト)は聖職者と訳することのできる言葉で、羊飼いの意味はありません。

 

 

 

羊飼い

 

聖書には羊飼いのイメージが繰り返し出てきます。羊飼いは日本の住む私たちにはあまりなじみがないものですが、聖書の舞台であるパレスチナにおいて、羊飼いはとても身近な存在でした。羊飼いには羊の群れを守り、養い、導くという大切な役割があります。羊飼いは一匹一匹の羊に心を配り、ふさわしい時に休息を与え、食物と水を与えます。聖書では、神さまご自身が羊飼いであると言われます(詩編23編など)。またそして、新約聖書では、イエス・キリストが「まことの羊飼い」と言われています(ヨハネによる福音書1011節など)。私たちはそのまことの羊飼いに養われる羊たちであるのですね。

 

先ほど、牧師は「羊飼い」を意味する名称であると述べました。まことの羊飼いはイエス・キリストその方であり、牧師はその役割をイエスさまから委ねられているのです。まことの羊飼いはイエス・キリスト御自身であり、キリストに導かれることなくして牧師はその務めを果たしてゆくことはできません。神さまの前に、牧師もあくまで一匹の羊なのであり、助けが必要な存在であることを、私自身いつも忘れないようにしたいと思っています。

 

 

 

羊飼いが羊の群れを導くように

 

メッセージの冒頭で、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の預言書ミカ書21213節をご一緒にお読みしました。ここにも、羊飼いと羊のイメージが出てきていました。改めてお読みいたします。

ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。/打ち破る者が、彼らに先立って上ると/他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み/主がその先頭に立たれる》。

羊飼いが羊の群れを導くように、神さまが人々を呼び集めて一つにしてくださるビジョンが語られています。

 

 この預言の言葉の直前には、イスラエルに対する厳しい神の裁きの言葉が語られています。具体的には、国家の滅亡と民の離散です。しかし、苦難ですべてが終わってしまうのではない。苦難の後、神は残された人々を集め、羊飼いが羊の群れを導くように、人々を神の牧場に導いて一つにしてくださることが語られています。

 

 

 

預言の言葉とイスラエル建国を結びつける考え方への注意

 

 旧約聖書には、このミカ書の他にも、羊飼いが羊の群れを集めるように、神が離散したイスラエルの民をご自分のもとに呼び集めるというモチーフが繰り返し登場します。たとえば、エレミヤ書3110節《諸国の民よ、主の言葉を聞け。/遠くの島々に告げ知らせて言え。/「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼らを守られる。」》。現実に国家の滅亡と民族の離散を経験したイスラエルの人々にとって、最も切実なモチーフの一つであったことが伺い知ることができます。人々が集められる場所とされたのが、「約束の地」カナン、現在のパレスチナです。特に、エルサレム神殿があるシオン(神の都エルサレムの別名)がその中心の地とされてきました。

 

 ただし、これらの預言の言葉と、国家としてのイスラエルの建国を結びつける考え方には注意が必要です。1948年、国家としてのイスラエルの建国が宣言されました。このことによって、各地に離散するユダヤの人々はパレスチナに再び定住の地・安息の地を求めるようになりました。第二次世界大戦下、ユダヤ人がナチス・ドイツによって迫害され、約600万もの人々が虐殺されたことは皆さんもよくご存じの通りです(ホロコースト。ヘブライ語では『惨事』を意味するショア)。この大虐殺では、約150万人もの子どもたちの命が失われたと言われています。「約束の地」パレスチナに、ユダヤ人の国家を建設しようとする運動をシオニズムと言います(政治的シオニズム)。

 

 けれども、そのイスラエルの建国は、すでにパレスチナの人々が住んでいる土地に入植(侵攻)するかたちでの建国でした。イスラエルの一部の指導者たちは、パレスチナはそもそも「神が自分たちユダヤ人に与えた約束の地」であると主張し、パレスチナの大部分を、強制的に自国の領土としてゆきました。結果、パレスチナ自治区としてかろうじて現在残されているのがヨルダン川西岸地区とガザ地区です。

そしてそのガザ地区で、現在進行形で、シオニズムに基づいたパレスチナの人々へのジェノサイド(集団殺害)が行われています。無関係の市民、多くの子どもたちが犠牲になっています。イスラエルの一部の指導者たちが行っていることは、決してゆるされない、非人道的な行為の極みです。一刻も早く、この虐殺を止めるよう強く求めます。

 

 

 

「預言の成就」……?

 

 イスラエル国家の建設は、それを支持するイスラエルの一部の人々の視点からすると、旧約聖書以来の「預言の成就」です。ホロコーストという未曽有の苦難の後、各地に離散していたイスラエル民族の子孫が神によって呼び集められ、「約束の地」に帰還してきたのだという受け止め方です。かつて旧約の預言者たちが語った、神が離散の民をご自分のもとに呼び集め、一つにするという預言が、遂に成就した、あるいはいままさに成就しつつあるのだという受け止め方です。

 

一方で、もともとそこに住んでいたパレスチナの人々からすると、まったく見え方は異なります。イスラエルのしていることは、「預言の成就」ではなく、自分たちに対する「侵略」となります。

 

注意すべきは、「預言の成就」という信仰の言葉が、イスラエル側の侵略行為を見えなくしてしまっている点です。日本のキリスト教の歴史においても、イスラエルの建国が「預言の成就」として支持されてきた面があります。キリスト教の中には、いわゆる「キリスト教シオニズム」という考え方があり、現在も、世界中の一部のクリスチャンの方々に熱心に支持されています。キリスト教シオニズムの考えにおいては、イスラエルが現在行っていることも、「預言の成就」という枠組みで捉えられ、肯定されてしまうのです。そしてこの「預言の成就」の先に、イエス・キリストの再臨の出来事が起こるのだと信じられています(参照:村山盛忠『パレスチナ問題とキリスト教』、ぷねうま舎、2012年、98103頁)

 

私たちキリスト教徒は、いま改めて、「預言の成就」という主題を受け止め直すことが求められています。「預言の成就」という言葉によって、見えなくされているものがあるからです。それは他ならぬ、パレスチナの人々の存在であり、パレスチナの人々の生命と尊厳が否定され傷つけられているという現実です。いまイスラエルが行っていること、これまで行い続けてきたことは、「預言の成就」ではなく、侵略であり、戦争犯罪であり、パレスチナの人々に対する虐殺だと言わざるを得ません。

 

1121日、国際刑事裁判所(ICC)はイスラエルのネタニヤフ首相やガラント前国防相に対し、戦争犯罪などの容疑で逮捕状を請求しました。ハマスの幹部にも逮捕状が発行されています。ネタニヤフ首相はガザでの戦争はハマスの攻撃で始まったことを強調し、「この戦争以上に正当な戦争などあり得ない」と主張、ICCの決定に激しく反発しています(朝日新聞、20241123日朝刊、9面)。ネタニヤフ首相らに戦争犯罪の容疑で逮捕状が請求されているのは当然のことでありましょう。イスラエルが現在行っていることは、正当な戦争などではなく、戦争犯罪であり、パレスチナの人々に対するジェノサイドであるからです。

 

 かつて旧約の預言者たちが語った、羊飼いが羊の群れを導くように、神が人々を呼び集めて一つにするというビジョンは、このような非人道的な行為を指し示すものであったのでしょうか。決してそうではないでしょう。

 

 

 

イエスさまの愛の声に導かれて、「互いを重んじる道」を

 

 イエス・キリストはおっしゃいました。《わたしは良い羊飼いである(ヨハネによる福音書1011節)

「良い」羊飼いとはどのような存在でしょうか。それは、一匹一匹の羊を重んじ、大切にする羊飼いが、良い羊飼いであるのではないでしょうか。私たち人間で言い換えますと、一人ひとりの生命と尊厳を重んじる指導者が、良い指導者だと言えるでしょう。

それに対して、一匹一匹の羊を軽んじ、大切にしない羊飼いが、「悪い」羊飼いです。一人ひとりの生命を軽んじ、尊厳を軽んじる指導者が、私たちにとって悪い指導者です。

 

 イエス・キリストは続けておっしゃいました。《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》。イエスさまは私たちを愛するゆえ、私たちの存在を極みまで重んじてくださるゆえ、その命までもささげてくださいました。

これまでの歴史において、「わたしのために生命を捨てろ」と人々に命令した指導者はたくさんいたでしょう。組織や国家のために命をささげることを強要した指導者もたくさんいた(いる)ことでしょう。しかし、イエスさまはその真逆です。イエスさまは「あなたのために生命を捨てる」とおっしゃってくださいました。

神の愛を完全なかたちで実現することができる方は、ただイエスさまお一人のみです。まことの羊飼いはイエス・キリストただお一人のみ。私たち一人ひとりは、そのまことの羊飼いに導かれる存在です。

 

まことの羊飼いなるイエスさまは私たちに呼びかけておられます、《互いに愛し合いなさい》と。《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる(ヨハネによる福音書133435節)

 イエスさまの愛の声に導かれて、私たちは「互いを重んじる道」を歩んでゆきます。その道を歩む中で、私たちは共に神の牧場へと導かれ、集められてゆくでしょう。その神の牧場は、一部の人だけのものではなく、すべての人のものです。すべての、一人一人の生命と尊厳が大切にされる場所であることを私は信じています。

 

 

 最後に改めて、本日のミカ書の言葉をお読みいたします。《ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする》。