2024年11月3日「内なる偶像」
2024年11月3日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書23章25-36節、ローマの信徒への手紙3章21-28節、イザヤ書44章6-17節
アイドル
皆さんは好きなアイドル・好きだったアイドルはいるでしょうか。それぞれの時代を彩ったアイドルはたくさんいますよね。皆さんにも思い出のアイドルがいらっしゃることでしょう。昨年はアニメ『【推しの子】』のオープニングテーマ、YOASOBIの『アイドル』が世界的なヒットとなりました。
本日は普段私たちが使っている「多くのファンをもつ、あこがれの存在(いわゆる『推し』の対象)」としてのアイドルとは違う意味の、アイドルのお話をしたいと思います。
アイドル(idol)は元々は「偶像」という意味の言葉であることは、ご存じの方も多いことと思います。「偶像」を意味するアイドルが、色々な経緯を経て、現在は「あこがれの存在」を意味する言葉として用いられています。本日お話したいのは元来の意味でのアイドル――「偶像」についてです。
「偶像」「偶像礼拝」
偶像は、石や木、金属などを使って作った神像(神や神々の像)のことを指す言葉です。この偶像という言葉が、聖書においては、否定的なニュアンスを伴う言葉として用いられています。聖書が否定しているのは、石や木、金属を使って何らかの像を作るという行為そのものではありません。聖書が禁止しているのは、それらの像を使って礼拝をすることです。偶像を用いて礼拝を行うことや、偶像を崇拝の対象とすることを、聖書特有の表現で「偶像礼拝」あるいは「偶像崇拝」と言います。
本日の聖書箇所であるイザヤ書44章6-17節も偶像礼拝を厳しく批判する言葉が記されていました。《偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。/無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて/その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず/皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。……》(9-11節)。非常に辛らつな言葉で、偶像を制作することが批判されていますね。
ただし、これらの偶像礼拝を厳しく批判する言葉には、後で説明いたしますように、当時の時代状況が関わっています。いまを生きる私たちは、もはや引用したイザヤ書のような激しい言葉をもって、あるいは敵意をもって、他の宗教に対峙する必要はありません。私たちは、「偶像」および「偶像礼拝」という言葉を、他の宗教を批判・揶揄するために用いるべきではないということを、まずご一緒に心に留めたいと思います。
内なる偶像
日本に住んでいますと、神社に行けば神像があり、お寺にいけば仏像があります(私も仏像を見るのが大好きです)。また多くのご家庭において神棚や仏壇があります。日本に住む多くの人が信仰の対象とし、大切にしているそれらのものを「偶像」と呼ぶべきではありません。隣人が大切にしていることを共に大切にすること、尊重することもまた、他者を愛する姿勢の一つです。むしろ、どこか上からの目線で他の宗教を見下すとき、私たちの内に別の「偶像」が生じているのだと受け止めることができるのではないでしょうか。
いまを生きる私たちにとって、「偶像」とはどこにあるのでしょうか。それは他ならぬ、私たち自分自身の心の内にあるのだと思います。高慢さや貪欲さなどを材料にして心の中に偶像を作り出し、それを主人にしてしまっているとき。私たちは神ではなく、偶像を崇拝していることになるのではないでしょうか(エフェソの信徒への手紙5章5節)。
また、自己を絶対化し、まるで神のような位置に置いてしまっている時も、私たちはある種の偶像崇拝に陥ってしまっているのだと言えるでしょう。その意味で、偶像は私たちの外にあるものというより、私たちの心の内に、日々生じているものとして受け止めることができます。
イザヤ書44章が書かれた時代背景
そのことを踏まえた上で、先ほどのイザヤ書の言葉を改めて振り返ってみましょう。
このイザヤ書44章が書かれたのは、紀元前6世紀頃です。この時代、イスラエルはバビロニアの支配下にありました。国家の滅亡と民の離散――いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる民族的な悲劇を経験した時代です。いまお読みした聖書箇所は、そのバビロニアで行われている偶像礼拝を批判する言葉です。
一見すると、何か上から目線で偶像礼拝を揶揄している言葉のようにも読めますが、実際には置かれていた状況はその真逆。イスラエルの人々の方が、周辺諸国から虐げられ、揶揄されている状況の中にあったのです。周辺諸国から「お前の神はどこにいる」と嘲笑される中、イザヤは自分たちが信じる主なる神こそ、全てを支配するまことの、唯一の神であるとの信仰を告白しています。その唯一なる神が、いま自分たちと共におられる、だから恐れることはないのだ、と。
《イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。/だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。/恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない》(6-8節)。
この苦難の時代に、「主なる神は唯一である」とする唯一神信仰がユダヤ教において確立されたと言われています。その唯一なる神への信仰を守り、育むため、イザヤは決然たる姿勢で他宗教に対峙しているのだと受け止めることができます。本日の偶像礼拝を否定する言葉は、「生れ出ようとしているものを守るための厳しさ」から来るものでもあるのです。
いまを生きる私たちはこれらの時代背景を踏まえて、本日の聖書箇所を読む必要があるでしょう。先ほど述べましたように、他宗教を批判・揶揄するために「偶像」「偶像崇拝」という言葉を用いるべきではありませんし、他宗教を批判・揶揄するために聖書の言葉を引用すべきではありません。
イエス・キリスト ~「目で見て、手で触れる」ことができる存在として
本日は偶像についてお話しました。聖書においては、自分たちの固有の信仰を守り育ため、偶像礼拝が厳しく批判されたことも述べました。
一方、皆さんの中には、疑問を感じた方もいらっしゃるかもしれません。キリスト教には、様々な信仰の道具があるのではないか、と。キリスト教では、教派によっては会堂内にキリスト像が置かれています。カトリックでは会堂内に十字架のキリスト像がかかげられていることが多いですし、プロテスタント教会でも正面に十字架などのシンボルが配置されている教会がたくさんあります。花巻教会でも正面の壁に十字架がかかげられていますね。また、正教会では、会堂内にたくさんのイコンが並べられています。これらは偶像礼拝にあたらないのだろうか、と気になる方もいらっしゃるかもしれません。実際、これまでのキリスト教の歴史において、礼拝で用いる祭具や装飾に関し、どこまでが偶像を用いた礼拝に当たるかについての議論が繰り返されてきました。いまだ「これが正解」という共通の認識はなく、教派によっても捉え方は異なっていますが、キリスト教において視覚的な要素が重視されているのには理由があります。それは他でもない、イエス・キリストへの信仰です。
新約聖書およびキリスト教は、神が肉体をもって人となって下さった、その方がイエス・キリストであると受け止めています。神が肉体をもって人となった――この信仰理解を、キリスト教特有の言葉で「受肉」と言います。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(ヨハネによる福音書1章14節)。
私たちを愛するゆえ、神さまご自身が人間となって、「目で見て、手で触れる」ことができる存在になってくださった、とキリスト教は捉えているのです。《私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――》(ヨハネの手紙一1章1節)。
そのように受け止めるゆえ、新約聖書と旧約聖書とでは「目で見て手で触れることができる」ものに対する考え方に違いが生じているのだと言うことができるでしょう。キリスト教においては、「目に見える」ものを通して神さまへの信仰を表すことは、必ずしも否定されることではありません。むしろ、「神が人となられた」ことに対する私たちの信仰の証しとなり得るのです。もちろん、像そのものに人間を超えた力があるとすること(またその力を利用しようとすること)は聖書の言葉に反するものですが、私たちの五感を通して神さまからの恵みと愛につながることは、私たちにとって大切な経験であるのだと思います。
この後、礼拝の中で聖餐式を執り行いますが、聖餐もパンとぶどう酒(液)という目に見えるものを通して、目には見えないイエス・キリストの愛と恵みを――そしてイエス・キリストご自身を――私たちの心の目に見えるようにしようとするものです。私たちは聖餐式において、五感を総動員して、イエスさまの愛と恵みを味わいます。
イエスさまの愛と恵みに立ち還り
先ほど述べましたように、私たちは日々、自分の心の内に偶像を作り出してしまっているものです。高慢さや貪欲さなどを材料にして、心の中に偶像を作り出し、それを主人としてしまっているものです。また、いつの間にか自分自身を絶対化し、神のごとき位置に自分を置き、立場や考えが異なる他者を裁いてしまっているものです。だからこそ、私たちは繰り返しイエスさまの愛と恵みに立ち還り、内なる偶像を打ち砕いていただく必要があるでしょう。
最後に改めて、イザヤ書44章6節の言葉にご一緒に耳を傾けたいと思います。《イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない》。