2024年12月15日「洗礼者ヨハネとイエス」
2024年12月15日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書11章2-19節、フィリピの信徒への手紙4章4-9節、士師記13章2-14節
「洗礼者ヨハネとイエス」
アドベント第3主日礼拝 ~喜びの主日
本日はアドベント第3主日礼拝をおささげしています。アドベントは「到来」という意味です。イエス・キリストがこの世界に到来(誕生)されたクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間がアドベントです。今朝はアドベント第3主日ということで、クランツの3本のロウソクに火がともっています。
アドベント第3主日は「喜びの主日」とも言われます。ここでの喜びとは、クリスマスの喜びのことを指しています。3本目のロウソクには、ピンク色が用いられることもあります。ピンク(バラ色)は私たちの内に喜びを喚起させる色ですね。来週、いよいよ私たちはクリスマスを迎えます。
喜びの主日との関わりで、先ほど礼拝の中でフィリピの信徒への手紙4章4-9節を読んでいただきました。《主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい》(4節)。イエス・キリストと結ばれている私たちは、いつも喜んでいることができるのだと手紙の筆者パウロは語ります。
今年1年を振り返って ~地震、記録的な大雨が多発
もちろん、私たちは日々の生活の中で、喜びが感じられないことがあります。いつも喜んでいることは私たちには難しいことです。私たちの目の前には、喜ぶことのできない様々な現実があります。「喜びなさい」と言われても、どうしたら喜ぶことができるのか、戸惑ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。
今年2024年は1月1日に能登半島地震が発生、その甚大なる被害が次々と報道される中で、1年が始まりました。今年2024年は強い地震、記録的な大雨など、自然災害が多発した1年でした。7月末には秋田県と山形県で記録的な大雨が発生。8月上旬には台風の影響により、岩手県沿岸部でも記録的大雨が発生しました。そして9月には、能登半島で豪雨災害が発生。地震に加え、豪雨によって被災するという、二重の被災。皆さんも心を痛めていらっしゃることと思います。能登半島の皆様を覚え、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。日本基督教団では月2回、能登半島災害のためのボランティアを派遣しています(12月~2月は派遣を休止、春から再開)。ボランティアの活動も祈りに覚えたいと思います。
日本で毎年この時期に発生している大型台風は、日本近海の海水の温度の上昇が関係していることが指摘されています。また、夏の記録的な暑さも、海面水温の上昇が関係していると言われています。今年の夏は全国的に厳しい暑さとなりました。今年の夏は観測史上、最も暑い夏だったとのことです。「とにかく暑い夏だった」と記憶している方も多いことでしょう。直面する深刻な気候変動に対して、私たちは何ができるのか。その喫緊の課題について考えさせられる1年ともなりました。
日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞
国外でも、今年は様々な出来事がありました。ロシアとウクライナの戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争はいまだ停戦へ至っていません。多くの人々の、そのかけがえのない命が傷つけられ、失われ続けています。一刻も早く停戦へと至るよう切に願うものです。
そのような中、この10月、今年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受賞しました。日本被団協は広島・長崎の原爆の被爆者(生存者)の方々によって作られた組織です。1956年の結成以来、一貫して国内外で核の廃絶を訴え続けてこられました。ロシアがウクライナとの戦争において核兵器使用の可能性を示唆し、それによって脅しをかけるなど、核兵器使用の「タブー」に圧力がかけられている現状を踏まえての受賞でした。
先週の10日、オスロにて授賞式が行われました。演説を行った代表委員の田中熙巳(てるみ)さんは1956年の結成以来、日本被団協は《歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開して》きたと述べています。一つは、《日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない》という運動。二つは、《核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない》という運動です。
田中さんの演説の一部を引用いたします。《この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます》。《(略)さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのであります》(ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 田中熙巳さん【演説全文】、2024年12月11日付、NHK websiteより、https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241211/k10014664891000.html)。
スピーチでも述べられていましたように、世界にはいまだ1万2千以上の核兵器が存在し、直ちに発射できる核弾頭が4000発配備されています。「核のタブー」が壊されようとしている状況の中にあって、この地球上で二度と核兵器が使用されることのないように、核の廃絶へ向けての決意を新たにしてゆきたいと思います。
また、能登半島地震では志賀原発において、一歩間違えれば大事故にもつながり得た重大なトラブルが発生したことも私たちは忘れてはならないでしょう。至るところに活断層があるこの日本において、原発が存在していること、稼働していることが、いかに恐ろしい事態を引き起こし得ることであるのか。原発推進へと再び政策が転換されている状況の中にあって、二度と原発事故という大惨事が繰り返されることのないよう、核の廃絶へ向けて、今一度私たちの祈りを合わせてゆきたいと思います。
クリスマスの喜び ~悲しみや痛みを見つめる中で
ご一緒に、今年1年の出来事(の一部)を振り返りました。私たちの近くに遠くに、困難な現実があります。クリスマスの喜びをなかなか実感できない、というのが多くの方々の率直な想いなのではないでしょうか。
クリスマスの喜びは、悲しみや痛みを見つめる中で与えられるものであることをご一緒に心に留めたいと思います。その喜びは、悲しいことを忘れることで与えられるものではなく、悲しみや痛みを見つめる中で与えられるものであるのだと私は受け止めています。
いまクリスマスを喜ぶことができない心境の中にいる方がいるのだとしたら、その人のために、イエスさまは到来しようとしてくださっているのです。
洗礼者ヨハネ
アドベントの第3週に取り上げられる人物として、洗礼者ヨハネがいます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが公の活動を始めるより先に、ヨルダン川で人々に「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人です。
スクリーンに映していますのは、マティアス・グリューネヴァルトという画家が描いた洗礼者ヨハネの絵です(イーゼンハイム祭壇画の一部)。ヨハネはらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなご(あるいはいなご豆)と野蜜を食べものとして生活をしていたようです(参照:マルコによる福音書1章6節)。
新約聖書においてはこの洗礼者ヨハネはイエス・キリストの「先駆者」として位置づけられています。これから到来するまことの救い主の「道」を整え、その道筋をまっすぐにするため(ヨハネによる福音書1章23節)に遣わされた人物として受け止められているのです。まさにクリスマスが間近のアドベント第3週に取り上げられるにふさわしい人物だと言えます。
洗礼者ヨハネとイエス ~「喜びの日」の到来
本日の聖書日課であるマタイによる福音書11章では、洗礼者ヨハネが牢屋に入れられている場面が記されていました。ガリラヤ領主ヘロデを批判したことによって怒りを買い、投獄されてしまっていたのです。その後、ヨハネはヘロデの策略によって命を奪われることとなります。
牢の中で、ヨハネは一つのことについて考え続けていました。それは、自分たちにまことの喜びをもたらし、この地上に平和をもたらしてくださる救い主が遂に来てくださったのか、それとも、まだであるのか、ということでした。ヨハネは、ナザレのイエスという人物こそ、その救い主なのではないかと考えていました。しかし、もしかしたらそうではないかもしれない……という一抹の不安もあったようです。
目前に死が迫っていることを予感する中で、ヨハネは弟子たちをイエスさまのもとへ送って、尋ねさせました。《来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか》(3節)。これは、洗礼者ヨハネの生涯最後の問いでもありました。
ヨハネの問いを受けて、イエスさまはお答えになりました。《行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。/目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病(※聖書協会共同訳では《規定の病》)を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音が告げ知らされている。/わたしにつまずかない人は幸いである》(4-6節)。
ここで、イエスさまははっきりと「喜びの日」が到来していることを宣言してくださっています。貧しい人に、一人ひとりに、平和の福音が告げ知らされている。そうして、イエスさまはヨハネが願った通り、確かにご自分が救い主であることを示してくださったのです。
弟子たちからその知らせを受け、ヨハネは心の底から安堵を覚えたのではないでしょうか。ヨハネ自身は、「喜びの日」が訪れている様子を直接に目にはしていません。しかし、暗い牢の中で、その喜びの光景は確かに、ヨハネの心の目に見えていたのではないでしょうか。自分の死を目前にしつつ、けれども、心に湧き上がってくる喜びと平安を静かに噛みしめたのではないかと想像します。
喜びはすでに芽吹いている
本日はアドベント第3主日礼拝――「喜びの主日」の礼拝をご一緒におささげしています。たとえいまは私たちの心の内にあるのが悲しみであるのだとしても、喜びの時、平和の時はいつか必ず訪れることを信じ、ご一緒にこのアドベントの時を過ごしてゆきたいと思います。
またそして、すでに喜びは私たちの内に芽吹いていることをも、共に心に留めたいと思います。悲しみのただ中からも、すでに喜びは芽吹いています。暗い牢の中で、洗礼者ヨハネが確かな喜びと平安を見出したように。それは、いますでに、イエス・キリストと結ばれていることから来る喜びです。
小さな芽のようであるけれども、失われることのない喜びが私たちの内に芽吹いています。私たちは心の目を通して、その芽吹きを見ることができます。
この静かな喜びを共に胸にともしつつ、ご一緒にクリスマスを待ち望みたいと願います。